毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

変えられるもの、変えられないもの

2016年09月18日 11時48分03秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前の記事を書いた直後、前々回の記事について 新たに氣づいたことがあったので、ご報告します。




「変えられないもの」 とは 真我の声に小我が納得できないまま むりやり行動を起こそうとすること、「変えられるもの」 とは 真我と小我が思いをひとつにして事に当たること、と言い換えられるとわかりました。

どちらも 真我の勧めに従っていることに変わりはないのですが、小我が真我を信じて明け渡していないと 疑念が生じ、そこから二極の世界が登場するようです。

真我と小我がひとつであるときは 道もひとつで、他の選択肢が現れる余地はありません。

この 相対世界での 「できる」 と 絶対世界での 「できる」 は、字面は同じでも 内容は真逆といっていいほどのもの。

相対世界では たとえいったんは成功しても あとから必ず反動がやってくる、戦いに勝っても いずれ反乱の火の手が上がり、ダイエットはリバウンドし、どの分野の成功者にも いつかはスランプが訪れる。

絶対世界では 成功も失敗もない、ただただ思いのままに進むのみ、あとになってふと 万事うまくいっていたことに氣づくのです。




過去記事 「ムリでなく」 「おのずと起こる」 「無理をせずとも自然に変わる」 などにも書いているように、ほんとうの変化とは 無理なくできるものなんだとは 以前から感じていたこと。

「ムリでなく」 のころは まだ感覚フォーカスにまでは至っていないようですが (いちおう情報だけは持っていたのですが) 、それでも 無理やり行動を起こしても労多く益なしだとは すでに実感していたらしい。

そして、その 「ムリなくできるかどうか」 のカギは 小我が真我を100%信じて明け渡せるかどうかにかかっていたことが 今回わかりました。




今まさに、理屈や言葉が約束する 五感でつかめる保証にしがみついたままでいるか、見えないもっと大きな力を信じて 身をゆだねるか、無理強いはまったくないけれど 決断を迫られるともなく静かに迫られていると感じています。

ネガ思考がどんどん減り、入れ替わるように 明るく軽やかなイメージの上がってくる機会が多くなって、ポジティブ世界具象化の条件が かつてないほど整ったにもかかわらず、目に見える変化がいっこうに起こらないのは 不安や怖れが原因だと、前記事でリンクさせてもらったブログなどが はっきり示してくれたからです。




以前、よき導き手となってくれた友が 「変わり目 ・ 節目がいつなのかは 自分で決めるんですよ」 と教えてくれたことがありました。

向こうからやってくるのではない、よく見きわめて 自ら決めるのだと。

そろそろだなとは なんとなくわからせてもらえるけれど、それが 他のどの時でもない 「今だ!」 とは、はっきり自分の意志で 進んで宣言しなければならないんですね。

変える ・ 変わるのは、いつかじゃなく 「今」 だ、と。




貴秋、ターニングポイントの真上にいるようです。























やるっきゃない

2016年09月18日 09時10分16秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


まず、貴秋が 当ブログ内でたびたびリンクを貼らせていただいている 愛読ブログから、3つの記事を。

               その1     その2     その3


お読みいただけばおわかりのように、ここ1週間ほどの間にたて続けにアップされたこれらの記事、いずれも 「疑念 ・ 恐れ ・ 不安などに捕らわれることはない」 というメッセージとなっています。

そして、貴秋が目下取り組んでいるテーマが、まさにそれなのです☆




真我を 「あんたが大将」 と主役認定したはいいが、真我を主体にすえるとは 小我にとっては かなりスリリングなこと。

真我の選択には、小我が 「なんで Σ(゚д゚ノ;)ノ」 と面食らうようなものが少なくないからです。

真我はいちいち理詰めで説明なんてしないし、後になれば 「なるほど このための布石だったのか~」 と納得できることも 長年の体験上わかっているのですが、そうはいっても それがどんな内容だろうと 「OK、今回も真我の選択に間違いなし」 と信じ切って飛び込むのは、その都度かなりの勇氣がいります。

石橋を叩いて叩いて 五感で納得できる安全をさんざん確かめてから出なくては渡ろうとしなかった貴秋には なおさらの難事業。

すべては、真我を完全に信じ切り 自分を明け渡せるかどうかにかかっています。




内なる声の確かさには 過去の成功体験の積み重ねから 絶大な信頼を寄せていますし、すでにそれを指針として生きてもいます。

が、純度100%の信頼となると どこか躊躇する自分を感じてもいました。

そして、内的変容に拍車のかかったこの数ヶ月で、前向きに切り替わった意識を具現化させ 五感でも確かめられる形にするには、この100%信じ切ること、疑念の影すらはさまないことがどうしても必要だいうことも うすうすわかってきていました。

そもそも真我を主体にするとは、映画 「インセプション」 の 「保証はない。信じて飛び込むしかない」 というあの言葉そのままに、理由も結果も想像つかないまま とにかく内なる声に従って 未知の世界に頭から飛び込んでいくこと。

口だけでなく ほんとうにそれができるかな? という無言の問いかけを ここしばらくひしひしと感じていたし、同時に あとちょっとというところで 残る指一本をどうしても離せない自分に氣づいてもいたのです。




そんなところに現れた、3つのブログ記事。

前からお話しているように、ここぞというときのメッセージは いつもこんなふうに 同じ内容が 別々のソースからたて続けにやってきます。

それを実行するに当たっての 抵抗の大きさ ・ 困難さを承知の上で こんなお膳立てをしておいてくれるのは、やはり この世に生まれ出る前の 魂の自分 ということでしょうか。

毎度のことながら 知られてるなぁ、仕組まれてるよなぁ という氣分にさせられます (^_^;)




これが来たら あとはもうやるっきゃない、さてさてどうなりますことやら