毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

補足します(^^ゞ

2016年09月23日 14時28分05秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前の記事、ちょっと言葉が足りなかったかも、という氣がして。




「認めてもらえない」 という思い込みから自由になりたければ、まず自分で自分を認めること、それなしに 受け入れてくれる他者など現れようはずがない、と書きましたが、貴秋については まさにそのとおり。

全面的に他者に頼ろうとする氣持ちが 親の代わりを探させただけで、相手変われど 他力本願は変わらず ではなんの解決にもならない、まず自分を変えねば、と氣持ちを切り替えて正解でした。




が、世の中には いろいろな方がおられます。

自分では 自分を認めていない、認められないつもりでいても、ほんとうに愛情深い方とひょっこり出会うなんてこともあるでしょう。

自分の心ってわからないもの、自分で思う以上に自身を認めていたことが反映しての 素敵な出会いかもしれません。

そんなときは、他者から受け入れられた喜びや安堵を通して 自分を認めるというのも おおいにありだと思います

ストレートに自分で自分を認めても、他者という鏡を通して認めても同じこと、要は 自分が安定して満ち足りて 幸せであればいいのですから (*^^*)




貴秋は 自身の体験という限られた例を通してしかお話できないので、ここに書かれていることがすべてではない、ほかに道はいくらもあると ちゃんと書き添えておくべきだったと反省しての “ちょこっと補足” でした m(__)m






















無条件

2016年09月23日 12時06分06秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


かつて 仕事においても家事においても、貴秋の原動力は 「認められたい」 という氣持ちでした。

裏を返せば、それだけ 「がんばらないと認めてもらえない」 思い込んでいたということ。




そんな思い込みが 親から条件付きでしか認めてもらえなかったという過去からきていることは じきにわかりましたが、次のところで 大きなカン違いをしてしまいました。

ならば 親に代わる誰かに 無条件に認めてもらえばいい、がんばらなくとも ありのままの自分を認めてくれる人を見つければいい、と思ったのです。

今は そのおかしさがわかります。

「自分は がんばらないと認めてもらえない人間だ」 と思い込んでいたのは、ほかならない自分なのですから。

自身がそう思い込んでいる以上、私が創り出す世界はすべて ありのままの私を認めてはくれない世界なわけで、そこで無条件の受容を見つけられるはずがなかったのです。

「認めてもらえない」 という思い込みから自由になりたければ、するべきは 私自身が ありのままの自分を認めることだったのです。




“ありのままの自分を認める” “無条件に認める”

よく見聞きする言葉ですが、それが具体的にどういうことなのかわかってきたのは ようやっと最近のこと (^^ゞ

「ありのまま」 「無条件」 とは 優劣 ・ 良し悪しのように 二極に分けないことであり、そのためには 二極の分岐点となる基準や物差しを いっさい持たないことです。

ということは、言葉でつかんだら ありのままでも無条件でもなくなってしまうわけですね。

言葉でつかむとは 分け出すということであり、分け出されるものと そのあとに残るものとに分かれてしまいますから。




かつてないほど 感覚フォーカスに真剣に取り組んだ この夏の一時期、対要人テロ警戒中の警察官よろしく ネガ体感 (ネガティブな感情の引き金となるからだの感覚) の出現にピリピリしていたことがありました。

見つけ次第 逃さずフォーカス と張り切りすぎたのです ( ̄∇ ̄*)ゞ

その裏には、逃したら この先も ネガ感情が投影される人生から抜け出せない という怖れがありました。

つまり、感覚フォーカスできれば○、できなければ×、と分けてしまっていたわけです

そんなあるとき、ふと氣がつきました。

完璧を目指さなくていいのだと。

どれほど万人に好かれ 身も心も健やかで お金も時間もたっぷり持っている人だって、人間である以上 カチンとくることもあれば 落ち込むこともあるはず。

ということは、ネガ体感が残ってたって 望みどおりの幸せな人生は送れるんだ。

ネガが残っているうちは 望みを叶えられないなんて脅える必要はなかったんだ。




こうして 消し去るためではなく ただ感じるためのフォーカスであることを再認識したあたりから、ネガ体感が現れたとたん すっと言葉を引っ込めて ただ感じるという一連の流れが スムーズに起こるようになりました。

それまでのように苦労せず 言葉と感覚を切り離せるようになったのです。




怖れる氣持ちが 物差しを手放すための感覚フォーカスさえ 物差しにしていたことに 氣づかされました。

今も相変わらず ネガ体感は上がってきますが、そこでジタバタせず すっとフォーカスに入れるようになって、かえって望んでいた自分に近づいている氣がします。

「条件をつけない」 ことが 条件になる、こんなおかしなことが起こるのも、五感の世界と五感を超えた世界を行き来する 矛盾に満ちた道のりならではでしょうか。

そんな矛盾さえ 「もう訳わかんない、なんでもいいや~」 と併せ呑んで受け入れてしまうとき、「認められたい」 という望みは成就しているのかもしれません。