サスペンスドラマかなにかみたいなタイトルですが、貴秋のこととて きょうもまた 五感を超えた世界がらみのお話です
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0248.gif)
「思いのままの世界を創るなんて、今この瞬間も 世界中の老若男女が当たり前にやっていることで、不思議でも奇跡でもなんでもないよ」 と言われたら、どう思われますか?
まさか そんなの信じられないよ、という方もおいででしょうね。
そこで ほんとうかどうか確かめてみたい氣持ちが起こったら、ご自身の心の内をつぶさに眺め、自分を取り巻く世界とじっくり照らし合わせてみることをお勧めします。
思いも寄らないところで 氣づいてもいなかった思いが実現していることに 驚かれるでしょう。
ここに 五感の世界の思い込みをくつがえす難しさがあります。
楽しいことならいいけれど、不快な記憶をじっくり見つめるなんて耐えられない、と感じる人が多いからです。
私たちが 不幸より幸せを、不快より快を望み、いやなことを どうにかして避けようとするのは、無理もないこと。
ただこれは あくまでも五感の世界視点での話で、五感を超えた世界から言えば 「ちょっと待った~、せっかく用意したのに そうジャマにしないでよ~
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0162.gif)
形なき本来の私たちは、愛、豊かさ、安らぎ、充足そのものの 非の打ち所なく完璧な存在。
そんな自身の素晴らしさを もっと体験的に知りたくて、わざわざ本来の自分でない 否定的要素を備えた世界を創り、五感を超えた世界での自分を忘れ、さまざまな制限を課して 乗り込んだのです。
悪役がいてこそ 善人が引き立ち、手に汗握る場面があってこそ ハッピーエンドが際立つ、そんな世界に 私たちは生きています。
それを ネガな場面を片っ端からスキップボタンですっ飛ばすようなまねをすれば、せっかくコントラストの世界に生まれてきた意味がなくなってしまいます
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0199.gif)
なので、逃れようとすればするほど 逃れられなくなるという仕掛けが しっかり施されているのです。
いやなことを避けたいと願う氣持ちの裏には、「自分にはどうしようもない」 というあきらめや絶望感が潜んでいるのではないでしょうか。
五感の世界の自分 ・ 自作世界の登場人物としての自分しか知らなければ、これもまた無理ないこと。
がここに 五感を超えた世界の視点が加われば、話は違ってきます。
創り手である自分に 不可能などあろうはずがないのですから (ただ、長らく忘れていた力の使い方やコントロールについては、かなり試行錯誤しなければならないかもしれませんが) 。
コントロールの効かない巨大な世界が 自分の外にある、という視点から見れば、世界を変えるなんて コンクリート壁に頭から突っ込むぐらい困難なこと。
もしここで 「この世界のすべてを 自分の意識が生み出している」 ことを思い出せれば、いや 思い出せずとも 仮説としてでも受け入れられれば、「変えるべきは 自分の意識ひとつ」 という新たな選択肢が出現します。
かつての私のように前者しか知らなければ、世の中は時として 不合理なままならないもの、残酷で恐ろしいものとして 目の前に立ちはだかります。
五感を超えた世界という概念を取り入れて 複数の視点を持てば、“大きなひとつ” の自分が望んだとおり 自ら生み出した世界の住人として さまざまな体験をたっぷり味わいながら、「これはちょっとなぁ (- -;) 」 と思うものについては 創造者の自分に差し戻して創り直すというフィードバックが可能になります。
同じ景色でも、試験に受かったときと落ちたとき、恋しているときと失恋したときなどでは まるで違って見えるもの。
五感を超えた世界という 理屈ではつかめない選択肢を受け入れて 複数の視点を持ち、それまでと異なる景色を見たいかどうかは、お好み次第。
とりあえずでも受け入れて 新しい視点から世界を眺め始めたとき、目に映るものは同じながら まるで感触の違う世界を体験することでしょう。
動かしようがないと思い込んでいたものが あっけなく動くさまを 目の当たりにすることになるかもしれません (^_-)-☆
愛読するブログのこんな記事から ふと浮かんだことを書いてみました (^^)