毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

仮説と疑念

2017年05月30日 22時40分56秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


その昔 「クサイ臭いは元から断たなきゃダメ」 なんていうCMがありましたが、貴秋の内的探究の柱もこれと同じく 「とにかく一番のおおもとに手をつけろ」 。

で、自身の思いグセについても そもそもそれが生じたきっかけと思われる幼少期の記憶を探っては 幼い自分の辛さ苦しさを認めて共感し、「もうこんな考え方や反応はおしまい、二度としない、する必要ないんだ」 との決意を積み重ねてきましたが、そうしておおもとからしっかり見直したはずの怒りや不安が ちょっと経つとすぐまた上がってきて、ちゃんと見つめ直しの効果が上がっているのかどうか心もとない。

そんな繰り返しが年単位で続いて 自信がぐらついていたところで出会ったのが、この 「幸せな成功者が知っていて、そうじゃない人のほとんどが知らないこと」 という記事だったのです。

感情より先に感覚、これだ という瞬時のひらめきに、当時からさんざん読み込んでいた ニール ・ ドナルド ・ ウォルシュ著 「神との対話」 の 「抵抗すれば相手は大きくなる。見つめれば 消える」 という一文が結びつき、言葉化された感情ではなく 言葉になる前の感覚にフォーカスすればいいんだ となって 「感覚フォーカス」 が誕生しました。

この 「見つめる対象は 感情ではなく感覚」 というのが 感覚フォーカスの肝なわけですが、なんにせよこの時点でのこれはまだ、かつて見聞きした情報から貴秋が独自の取り合わせで導き出した仮説に過ぎません。




なんらかの情報を仮説として取り入れるとは、それを ただのお題目ではなく 自分の現実として実際に使うということ。

「起こることすべてに意味がある」 を再び例に取れば、ええ Σ(゚д゚ノ;)ノ というようなことがあっても 「なんでこんなことが」 「不運だ~」 「たまたまよね」 などの反応はいっさいやめて、「これになんの意味が?」 という方へ意識を向ける習慣をつけるわけです。

さらには、もしすぐに意味が見えなくても 「今はまだわからないけれど、きっとなにかあるはず」 と納得できるかどうかです。

その繰り返しで 受け入れられない仮説なら 自然と消えてゆくし、何度試しても破綻しなければ やがて内側深く染み込んで 事実に変わります。




ということで 感覚フォーカスもさっそく仮説採用となり検証が始まりましたが、そこでたびたび行く手を阻んだのが、いやおうなしに湧いてくる 「疑いの氣持ち」 。

一度手放したはずの感覚が また何度も上がってきて、これは仮説自体が間違っていたのか 仮説はいいけれどやり方がマズイのか 効果が目に見えるまで時間がかかっているだけなのかと悩むのは、感情にフォーカスしていたときと同じ。

このときは 「いや 刷り込むほうも 数十年にわたって何度も繰り返したのだから 手放すほうも繰り返しになるのは自然なこと」 と自らを励まして粘り続け、やがて 過去と同じシチュエーションで それまでとはまったく違うポジティブな反応をするという大きな変化が見えたことで、この迷いはとりあえず解消されました。

が 今度は、内側はこうして確かに変化しているのに それが外の現実にちっとも反映されないことへの疑念がアタマをもたげます。

これは仮説自体が間違っていたのか 仮説はいいけれど (以下略)




しかし、あのころは不安や疑念や焦燥という騒音に振り回されて見逃していましたが、そんな雑念の向こうで 実はどうもいろいろと氣づいていたようなのです。






















魔法の杖

2017年05月22日 10時54分15秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


心魅かれた情報を取り込み 自分の言葉として育ててゆくのは、地味で地道で氣の長い作業です。

自分の外にあるそれを まずは仮説として取り入れ、それが真実であると仮定して 事あるごとに自身の体験と照らし合わせ 確かめていきます。

「起こることすべてに意味がある」 を例にとれば、以前だったら 「え~ なんでこんなことになるの」 「ツイテナイなぁ」 などとこぼすような場面で、「いや待て コレにも意味があるはず、 じゃいったいどんな意味が?」 と とにかく探ってみます。

すると、けっこうな確率で思い当たることが出てくるのです。

また すぐには意味が見つからなかったものでも、しばらく経って 「あ~ あのときのあれが今につながってたのか、やっぱり意味があったんだ~ (゚ロ゚ )」 となることが、これまたけっこうな確率で起こります。

これに氣づくには、日記をつけていたことが おおいに役立ちました。

数週間前 ・ 数ヶ月前に起きたちょっとしたことなんて たいがい忘れていますものね。

そんな些細な出来事が、なにげなく日記を読み返していて 推理小説よろしく 今現在の状況につながる “伏線” として作用していたことに氣づいたときの感動の大きさといったら。。。。。時おり訪れるこういった喜びが、根氣のいる作業を諦めず推し進める励みになってくれます。

そんなふうに何度繰り返しても あれ?なんか違うみたいだぞ? とならずに残った仮説が 少しずつ自分の思い ・ 自分の言葉として浸透し、やがて自分にとっての「事実」 に変わります。




そうやって いくつかの揺るぎない柱のような 「事実」 をわがものにするまでに、年単位の時間が流れました。

と言うと そんなに? となりそうですが、それは 「今」 という地点から振り返って見た場合の話、実際には そのときそのときを無我夢中で打ち込んできて はっと氣づいたら 十数年経っていた、というだけのことで、長いことかかったという氣はあまりしないのです。

むしろ、じっくり時間をかけて 自分を幸せにしなかった思い込みに代わる 自身の根幹ともいうべき新たな観念を得た満足や自信の大きさを思います。

それだけの時間をかける値打ちがあったなぁという氣持ちです。




そしてあるとき、そんな断片的な 「事実」 のいくつかが パズルのかけらが組み合わさるようにかちりと組み合わさって もっと大きな一片となり、オリジナルの新たな観念 ・ 信念 ・ 手法が誕生するのです。




感覚フォーカスは、いくら明るく前向きなほうに意識を向けようとしても すぐ否定形に戻ってしまう、そんな思いグセに悩みながら どうしたものかと試行錯誤する中で生まれました。

「私たちが感情と呼んでいるものは 実はある種のからだの感覚であり、その感覚に無意識に反応し振り回されて 人生の舵を取れずにいる」 という目からうろこの情報に 「神との対話」 で心に残っていた 「抵抗すると相手はかえって大きくなる。見つめれば消える」 という話が結びついたところから始まった感覚フォーカスは、これという答を見出せないままもがいていた身に 突然与えられた魔法の杖のようなものでした。

これを得て、不安と迷いに絡め取られかけていた探究が 大きく動き出したのです。

ただし、この魔法の杖をそこそこ使いこなせるようになるには、またしても年単位の時間が必要でした (^_^;)
























そうなるようにできている

2017年05月17日 17時55分20秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


欲しくてたまらなかった物を手に入れるとさっそく使ってみたくなるように、これは!と魅了される情報に出会うと さっそく試したくなります。

情報は まだ口にしていない食物のようなもの、どんなに素晴らしくても 内に取り込んで消化して自分の智恵や力に変換しないと使えませんものね。

でもそこで無理強いせずとも すぐさま進んで試したくなるのは、生まれる前にそのようにインプットされているからなんだろうなぁ




しかし 最初はいいのですが、時間が経つにつれて 様子が変わってきます。

その情報を通して目に見える成果が上がらないと、だんだん不安になってくるのです。

情報自体が間違いだったのか?

自分の捉え方や用い方が違っているのか?

それとも まだプロセスの途中で 変化が形になるところまで達していないだけなのか?

このまま進む? やり方を変える?

迷いがどんどんふくらんで アタマを使い過ぎてくらくらし、しまいにわけがわからなくなってきます。

いったい自分はこんなところでなにをやっているんだろう?

氣は確かなんだろうか?

自信がどんどんなくなり、エネルギーが落ちていきます。




が うまくしたもので、こういう探究を今生のテーマと定めているらしい者は こんな状況も織り込み済みということなのでしょう、ちゃんと対処できる設定にしてあるらしく、煮詰まってぶちキレて もうこんなのやだー と投げ出しかけても、少し落ち着くと いや待て もう少し続けたらどうなるか ここまできて見届けずにおれようかと さいごはいつも好奇心のほうが上回るのです

あるときとことんアタマに血が上って もうこんなバカみたいなことやめだやめだ となりかけたとき、ふと氣がつきました。

内なる探究をやめた自分なんて考えられない、そんな選択はあり得ない、五感を超えた世界を見つめなくなったら それはもう自分じゃないのだ、と。

あれ以来、どんなに苦しくても やめる ・ 投げ出すという選択肢は上がってこなくなった氣がします (^^)

そして、ヤケにならずにじっと状況を見つめていると、ああ ここで間違えていたのかと氣づかせてくれる新たな情報が 必ず現れるようになりました。

っていうか、以前からいつも現れていたのに いら立ったり自信がなかったり迷ったりしていて 見逃してしまっていただけなのでしょう。




とにもかくにもそのように設定されて生まれてきている、そうなるようにできている、そう氣づくと 不安が薄れ 迷いがぐんと減ります。

そんなふうに定まっているものを “天命” などと呼ぶのかもしれません。





















現実と幻の狭間で

2017年05月16日 12時20分50秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「目に見える世界は 自身の思いの投影」 「五感で捉えているこの世界は 実は幻」 と当ブログでもさんざん書いてきましたが、じゃあほんとうにすべてが幻と見えているのかと言われれば、いえいえ 今もくっきりはっきり生々しい感触に 五感を刺激されっぱなしです ( ̄ー ̄;)ゞ

現実世界でいやな体験ばかりしていたころは さっさと悟りを開いて こんな世界とおさらばしたいと不満を募らせてばかりいましたから、リアルであることになんの値打ちも見出せませんでしたが、最近は このリアルさのありがたみをつくづく思います。

そもそも私たちは 自分自身の素晴らしさを 「体験的に」 知りたいがために わざわざこの不自由な五感の世界に生まれてきたのですから、肝心の舞台装置が裏のベニヤ板まで見通せるようなチャチなセットだったら 興醒めというもの。

なにもかもが とてもじゃないけど否定できないほどありありとリアルだからこそ、その中でさまざまな出来事に思いきりのめり込んで 泣いたり笑ったり感動したりできるのです。




ならば それほどまでにリアルな世界を 「すべて幻」 っていうのはどうよ、となりそうですが、日常空間は相変わらず真に迫るリアルさながら、その存在自体に じわじわと揺らぎが生じてきています。




リアルな暮らしの場でリアルに味わう喜怒哀楽のドラマ、しかし その感情の多くは おおもとのからだの感覚にフォーカスすれば あっけなく消えたり変化したりすることを知りました。

この1~2年で ほとんど条件反射にまで慣らした感覚フォーカス、何百回 いや ひょっとしたら何千回かもしれないその積み重ねを通じて、私たちの体験や感情の大半は からだに刻まれた古い記憶を呼び覚ましては追体験しているだけで、もしそれが好ましくないなら ドラマを紡ぐ言葉をおおもとの感覚と切り離してしまえば やがては薄れたり変わったりしてゆくものであるという認識がくっきり染み込み、この世界は 意識の持ちようひとつでいくらでも創り変えられる 実体のないものだという感覚が、世界を揺るぎない現実と捉える意識とほとんど拮抗するまでになってきたのです。

私たちが生きるこの世界は、現実であり、同時に幻である。

矛盾するこの二つの見方こそ 以前に書いた 三次元世界の内の視点と外の視点であり、二つの存在感がほぼ等しく感じられることが 内と外の自在な行き来を可能にした、ということのようです。




内の視点は この世界を生き生きと体験させてくれ、外の視点は 引きの位置に立つことで 体験を客観的に吟味し修正して よりよい生き方を選ばせ 魂の成長を促してくれる。

いずれもっと意識の変容が進めば また違う見方が出てくるのかもしれないけれど、今は この内外の自由な行き来が 自分の世界を望みどおりに変える もっとも確かな手段に思えます。

世界を変えたいなら まず自身の内から変えること、この提言を信じて追い続け 検証し続けて ほんとうにそのとおりだったとの手応えを得たことがとてもうれしく、さんざん自信を失くしたり訳がわからなくなったりしつつも あきらめずにここまで来た自分を こっそりほめてやりたい氣分です (⌒-⌒)