毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

真我、被害者、探究者

2016年09月19日 08時27分10秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


以前、散歩途中の山道で 不意にひらめいたイメージ。

私のお腹のあたりからふわ~っと広がり出た何かが、ぐんぐん大きくなって 私をすっぽり包み込む世界となり、中にいる私から また広がり出て。。。。という “立体メビウスの輪” みたいな光景。

今やそれが、漠然としたイメージから 実感に変わりつつあります。

私は 世界の創り手であり、その世界の住人でもあるんだと。




創り手の自分でいるときは、今 ・ ここで 全体を眺め渡し 観察しています。

からだの感覚や 言動や ふと浮かぶ記憶に氣づいています。

心地よくない感覚は手放し、心地いい感覚にフォーカスする、などの 世界観をよいものに変えてゆく選別を 意図して行います。

過去や未来の情報が上がってきても、氣づいて観察している限りは 創り手の位置から動くことはありません。




そんな自分が ふと湧き起こった ある種のからだの感覚の記憶に 言葉を結びつけて 物語を語り始めると、時間が過去や未来へと移行し、たちまち物語の中に引き込まれます。

世界の創り手から 創られた世界の住人に早変わりする瞬間です。

感覚が 言葉を媒体に 感情や物語として展開すると、私は 物語の中にすっぽり入り込み、外の世界を見失います。

物語の渦に巻き込まれ、あるときは陶酔しあるときは悩み苦しみ、再び外に出られるまで 意のままにならない力で翻弄され続けます。




創り手の自分にフォーカスするか 住人の自分にフォーカスするかは、今ここに留まるか、言葉で紡がれた 過去や未来のストーリーに取り込まれるか、つまり 言葉で創られた世界を受け入れるかどうかで決まります。

創り手と住人のあいだに 良し悪しや優劣はありません。

ただ 両者の切り替わりのスイッチに氣づいていると、行き来が自在になります。

望まない物語を創らないよう意図できますし、もしうっかり創ってしまっても それと氣づいて すみやかに抜け出すことができます。

入り込みたい世界を 自由に選べるようになるのです。




・・・・・とこれは 理想の話で、貴秋はまだそこまで自在な行き来はできません (^^ゞ

もっと慣れて使いこなせるようになるには、もう少し練習がいりそうです。

ただ少なくとも、物語の世界しか知らなかったころ、どんな理不尽にも されるがままでいるほかなかったころの閉塞感は、もはやありません。

すべては自分が創っていること、望まないなら創り直せることを知っています。

コントロールの権限を わが手に握っているのです。

物語の中では ともすれば 容易に被害者になり 力を失っててしまいますが、物語の創り手の私は いかにうまく望む世界を呼び出すかに夢中になっている 探究者の私、自分の世界を左右する力を持つ私です。

実を言うと、ずっと長いこと 被害者の自分と 真我である自分ばかり意識していて、探究者の自分の存在感が薄かったことに氣づき、遅まきながら そこにせっせとフォーカスすることにしたのです (*^▽^*)ゞ




創造者の私が もっとらくらく 幸せな世界を創れるようになって、登場人物の私を思いのまま楽しませられるようになる、そのへんが この世界での理想のバランスかな、と思っています

そのためには、今 探究者の貴秋がファイト燃やしておおいに張り切って吉☆ なんですね