前回 ・ 前々回の記事で、映画 「インセプション」 で 主人公コブ一味のターゲットとなったロバートが、インセプション (自分のものではない思考の芽の植え付け) を施されたことで かえって自信をつけたように見えると書きました。
自信といえば、その昔 いい子で優等生だった貴秋が自信をつけるために選んだ手段が、他者と競って高い評価を得ることだったのを思い出します。
が 勝利に執着するほど 敗者に転落することへの恐れも大きくなることがわかり、やがて 外にばかり向いていた視線が次第に内に転じて、他者ではなく いまの自分を超えることが 新たな目標にとって代わりました。
自分を超えるとは 自ら課した限界を打ち破ることだから、これは内的成長のイメージとも重なり、今度こそ確かな手応えをつかんだかと思われた。。。。のですが。
この 「成長」 は、どこまでいっても果てがないのです。
そりゃそうだ、内的成長に 「はいおめでとう、ここがゴールですよ~♪」 なんてあるわけないんだから (^_^;)
かといって 乗り越える努力をやめてしまったら それはもう自分じゃない氣がして そんな自分を受け入れられなくなりそうだから、「いつかきっと報われる」 という当てのない望みを信じて進み続けたのですが、そこで氣づいた思いがけない落とし穴は、この道を邁進していると 知らず知らずのうちに自己評価が低くなるということ。
つねに 「もっとよくなれる、もっと先まで行ける」 と思い続けるのですから、相対的に いま ・ ここを見る目は厳しくなります。
もちろんこれは五感の世界も同じことですが、五感の世界での努力は人目につきやすいので、ある程度成果が上がれば まわりが評価してくれます。
が 内的探究はそれぞれの内面のことなので、評価するのも自分だけ。
自身の意図とはうらはらに いつのまにか いま ・ ここの自分を否定的に見るクセがついて、かえって自信を失ってしまうのです (T_T)
この 「社会的に認められること」 と 「内的に成長すること」 の二つはどちらも 「すること」 であり、なにかを 「する」 ことで自信をつけようというのは 向かう方向が内か外かの違いだけで 結局はどちらもマインドの企てなんですね。
となれば当然 二項対立の法則が影響するので、自信を持とうとすればするほど その対極にある不安も大きくなるのは防げません
そんな一見袋小路にはまり込んだような状況を経て 「する」 のとは違うところで感じとれる自信があることに氣づいたのは、あのムージ師の動画を観るようになってからのこと。
それが、あの “在る” だったのです。
“在る” には コントラストの法則は通用しません。
質量も境界もない 五感では捉えられないものを、分けることも 比較することも不可能ですから。
見るも聞くも触れるもならず ただその存在だけがかろうじて感じ取れる “在る” 。
この “在る” に意識が向いているときは、あらゆる言葉がぴたりと止み、深い安心に包まれます。
勝敗も比較も評価も存在しない心地よい世界で のびのびくつろげます。
ムージ師の 「セルフ (真我) のままでいてください」 のアドバイスに従い “在る” にフォーカスする時間が増えるうちに、興味深い変化が現れ始めました。
ネガからポジへの移り変わりが いつのまにか加速したらしく、「え、私こんな反応できたの?」 とか 「私にこんな前向きな発想があったなんて」 と 自身の言動や発想に驚かされる機会が飛躍的に増えたのです。
さらに 起こることすべてが いたずらに苦しめるためではなく 思い込みを解いて自由になるチャンスとして差し出されていることが見てとれて、自分が見失いさえしなければ この静かな安堵感は いつだっていま ・ ここにあるんだと思えるようになりました。
つまり、これまで不安にまとわりつかれていた長い長い時間は、単に意識がその事実から離れて見えなくなっていただけだったのだと。
この安堵感を自信と言い換えてもいいように思うのですが、それは 自分の 「すること」 ではなく 「存在」 そのものへの信頼、ただ自分が “在る” とわかっているだけで伝わってくる深い安らぎなのです。
自信とは 自らのジャッジやまわりの評価によって点いたり消えたりするものではなく、あの 「青い鳥」 のお話のように “在る” を忘れない限り いつでもいま ・ ここにあるものなんだということが、これまでになく深く納得できたのでした。