吾朗が上京したのは、52歳のころであった。
池袋の西武デパートから、陽子のところに今、東京に来ている旨の電話をかけた。留守だったら、それでもかまわない、運命だろう故と割り切ってダイヤルを回した。なんと、陽子が電話口に出た。すぐ、吾朗だとわかったらしく、ぜひ自宅に来るように言われた吾朗であった。
運良く、陽子の自宅は池袋のすぐ近くの板橋にあった。
駅まで迎えにきてくれ、徒歩で行けるほどの近くの家であった。東京の家は隣との間がほとんど無いと言っても過言でないくらい、隣合わせであるのに吾朗は改めて気がついた。
陽子・再婚したご主人の二人暮らしだった。陽子は、息子の誠が大学を卒業させてから、再婚していたのである。ご主人は、なんと初婚だった。温厚な優しい方であった。
陽子は、その夜ぜひ泊まっていけと吾朗にせがんだ。誠夫婦・息子夫婦を紹介したかったからだ。誠は大学を卒業し、小学校の教師になっていた。最初の赴任地はなんと、北海道の稚内に近い片田舎の小学校に赴任していたのだった。
東京の大都会から、北の大地の果てに赴任してきた誠は、しばらく北国の生活や人間関係になじむことが出来ずに、東京に戻りたいと陽子に電話で何度も、云ってきたらしい。その時も陽子は、吾朗のところへ電話してきて、なんとかなだめて欲しいと頼まれた吾朗であった。車で3時間半のその片田舎の一郎のもとへ車を走らせた吾朗である。
いろいろ話を聞くと、どうやら環境が問題なのではなく、人間関係が問題だったようだ。一生、この片田舎にいるものでもなく、いずれは母親のいる東京勤務への希望が必ず叶うからと、説得に努めた吾朗、その甲斐あって、辛抱して頑張ってくれることを約束して、彼のもとを去った吾朗であった。そんな昔のことを思い出しながら、誠との再会を楽しみに待っていた。
夜になって、誠夫婦と娘が来宅してきた。1歳になったばかりだという。めんこい娘さんで、じいちゃんばあちゃんになった、陽子夫婦は満面笑みが絶えなかった。陽子の発案で、吾朗の来宅記念ということで記念写真を撮ることになった。
なんと、中央に吾朗がその誠夫婦の一粒種を膝の上に抱いて記念写真を。
そういえば、一郎も生後3か月のころ、吾朗の膝の上で写真を撮っていたのを思い出した吾朗であった。陽子の息子・その息子の娘を膝に上に抱いての記念写真を撮るとは夢にも思ったことのない吾朗であった。遠い北国に暮らしている吾朗にとって、それは奇跡に等しい出来事であった。
川端康成の名作「伊豆の踊り子」の名は「薫(かおる)」、主人公の書生と出合った時は14歳、ちょうど吾朗が陽子に出会った時の、陽子の歳であった。天城峠で二人は出会い、下田まで、彼女ら旅芸人と一緒に旅をする話が、どこか、吾朗と陽子がその後の薫と、その書生のその後の物語を継いでいるかのように想えるのは、吾朗のみの心の奥深くであったであろうか。
このような吾朗と陽子のつながりは、純粋であった故に、陽子が14歳からいまの58歳にいたるまで、切れない糸がつながっているのであろう。
【 完 】