黄昏どき

老いていく日々のくらし 心の移ろいをありのままに

戦争のない平和な世界を

引揚げ寮の生活(その一)

2018年01月24日 | 戦争

 敗戦後はじめての冬1946年(昭和21年)

樺太から引揚げた後 道北S町にある元料理屋の引揚げ寮に住んでいた

私は女学校1年(現在の中学1年)だったが休学中

大寒の頃は-30℃以下まで下がる厳寒の地である

18畳の大広間に4家族15人が暮す 

他の小部屋にはそれぞれ数家族合わせて婦女子だけ数十人の暮らしであった

大部屋だけは石炭ストーブがあったが小部屋にはない

ストーブのない家族は拾ったコークスを七輪で燃やし暖を取っていたが

 一酸化中毒で ふらふらになった人が多く 部屋では焚かないようになる

 

大勢が一日中大広間のストーブにあたりに来る

 

その中にお腹の大きなS小母さんがいらした

 けだるそうでむくんだ顔をしていた 

ある日産気づいて部屋に戻りまもなく男の子が生まれた

4人目だったが小さい子だった

4年生のお姉ちゃんがお産扱いや弟妹の世話をしていたようである

 

産後の何時かは覚えていないが 

大広間でストーブに当たっていた時のことである

急にガタガタけいれんがはじまり気を失ってしまった 

目はつりあがり強張っている

近くにいた母より年上のおばさんが「箸!わりばし! 何かちょうだい」

と叫んで意識のないS小母さんの口をこじ開け 

舌をかまないように歯の隙間に箸をさしこんだ

息ができるように顔を横に向かせて見守った

「「子癇(しかん)」だよ そのうち治るよ」と落ち着いた様子で話す

しばらくして S小母さんは意識が戻った

病院にもかからずに徐々に回復して行き 

生まれた小さな男の子も無事育っていった

 

子癇は妊娠中毒症のひどいもので命を失う人が多いと知ったのは 

ずっと後のことである

 

食べ物も何もない暮し 着るものは軍隊払い下げの軍服・毛布 

一日の糧は 母親たちが 毎日の買い出しで交換した 

ジャガイモ・カボチャ・でんぷん でんぷんかす

 

いつ引揚げてくるかわからない父親たち 

殺伐とした暮らしの中で 女同志の醜い激しい喧嘩も多かったが

 母は決して加わらなかった 

何時も愚痴の聞き役 慰め役だった 

傍で見聞きしていて 私も母の様になろうと思った

つづく

 

 

コメント (4)
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