黄昏どき

老いていく日々のくらし 心の移ろいをありのままに

戦争のない平和な世界を

樺太引揚げの記(1945年)

2017年08月18日 | 戦争

HPやブログに載せたことがあるが

72年前の忘れられない出来事を再び記す

 

1945年(昭和20年)

樺太(サハリン)

8月9日ソビエトが宣戦布告し

13歳以下の男子と婦女子の疎開命令が出される

8月15日に敗戦 疎開は引揚げになった

豊原市(ユジノサハリンスク)に住んでいた我家は8人家族

 父(45歳)を除いた

母(38歳) 長姉(18歳) 次姉(14歳) 

私(12歳) 妹(9歳) 弟(4歳) 末妹(11か月)

7人が 北海道の伯父宅へ引揚げることになった

 着替えと食糧だけ持ち

8月18日午後 豊原駅に向かった

奥地からきた貨物列車には

大勢の人たちが鈴なりに乗っている

国鉄勤務の父は 少しでも早く港の大泊へ行くよう

貨物列車に乗るように促すので 急いで乗った

父は見えなくなるまで手を振っていた

  戦争はもう終わったと 少し開放感を感じていたが 

奥地からきた人たちが口々に 

ソビエト軍に追われて命からがら逃げてきたと話すのを聞き

恐ろしさと緊張感を感じた

無蓋車のシートで覆われた荷物は大砲らしい

ゴツゴツと座り心地が悪いが我慢するよりない

汽車は度々停まる 真っ赤な大きな太陽が傾いていく

新場という駅で停車すると 長い間動かない

オシッコをしようと貨車を降り草むらへしゃがんだ時

ポーッと汽笛が鳴りゆっくり動き出した

慌てて走ったが高くて足が届かない

誰かが手を引っ張り上げて貨車に乗せてくれた

無我夢中夢中だった

手を差し伸べてくれたのは

 豊原医專の学生さんだったと後で知る

暗くなって大泊に着いた

 

駅も道路も人々や荷物で溢れかえっている 

姉が逓信局に勤めていた関係で小笠原丸に乗船予定だが

 

誘導され映画館で待つことになった

 

館内も溢れんばかりの人人人である

万が一にと保存してあったもち米で搗いた豆餅 

暫らくぶりの美味しい味は忘れられない

 

乗船の順番はまわって来ず 一夜を過ごす

 

再び夜になりやっと順番がきた

 

港までは遠かった 暗い夜道をひたすら歩いた 

母は末妹を背に大きな皮のトランクを持ち

 4才の弟は長姉に手を引かれ

 3人も後に続いた

 

母は荷物が重く途中捨てようとした時 

兵隊さんが現れ持ってくれた

 

やっと港にたどり着き 乗せられた船は 

小笠丸ではなく 白龍丸という貨物船だった

 

 

つづく

ユジノサハリンスク駅と レーニン広場(2012年7月)


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2 コメント

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Unknown (すけつね)
2017-08-18 21:33:58
危うく線路に残されそうになった時、学生さんに貨車へ引き上げられ、助かったとのこと、こちらも、冷やりとした気持ちで読みました。
お父様は国鉄勤務とのこと。私の父は東京で国鉄勤務でしたが、満州か北海道のいずれかを選択するように命じられたので、北海道勤務を選んだそうです。
満州も樺太もソビエト軍に攻められ、大変だったと思います。
小学生のころ、母から船で引き上げてくる人たちの苦労を聞かされておりました。
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引揚げ (kazahana)
2017-08-19 10:16:01
すけつね様
函館も空襲で大変でしたね。

父は函館湯の川生まれ、中学卒業後国鉄に入り、
釧路・札幌、豊原へと転勤し豊原生活は2年だけでした。

まだ私たちは恵まれた方だったと思いますが、
戦争はいやですね。

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