2022年  にっぽん復興へのシナリオ

日本が復興を遂げていく道筋を描いた近未来小説と、今日の様々な政治や社会問題についての私なりの考えや提案を順次掲載します。

【雑感-12】想像以上に大きく深いセウォル号悲劇の影 ID:41h4gx

2014-07-31 10:37:22 | 日記

先週末から今週の初めまで久しぶりに韓国を訪れた。

週末はチェジュでのんびり過ごし、日曜の夜ソウルに入ったが、まず気付いたことはまだ夜の10時というのにソウルの繁華街が妙にひっそりとしていること。 
かつてのソウルの休日の夜は、深夜まで人でごった返しており、いたるところで軽快な音楽と若者たちの喧騒に溢れていた。

しかし、そうした光景はホテルに着くまで出会えなかった。
ホテルから少し足をのばし、デートスポットで有名な清渓川にも行ってみたが、ここも数人の人と行き交うだけで実にひっそりとしていた。

ウォン高など、国内経済が落ち込んでいることも影響しているとは思うが、ここまでの変わり様には正直驚かされた。

やはり、セウォル号の悲劇の影が大きく尾を引いているのだろうか?

何人かの識者とお会いして、話を聞く機会があった。

事故当時の映像は、当然ながら韓国内でも何度も放映された。

亡くなった生徒が撮ったビデオ映像。
船が大きく傾き、身の危険が迫っているにも拘らず、生徒たちは互いの体を支え合うことが精一杯だった。
なぜ、そうなる前に脱出しなかったか?それは、「部屋に留まるように」という大人たちの指示があったから。

この事実に対して、ある人はこう私に話してくれた。

韓国では、小学校に上がっても簡単な文字は教えてくれない。
それは、小学校に上がる前にすでに覚えるものだから、みな知っている前提で授業が行われる。
つまり、幼児の段階から教育は始まっているという。

家の掃除や家事などの手伝いをさせる親は極めて少ない。
そうしたことに時間を割くのなら、勉強をさせるという。
成績が落ち込めば、塾などに通わせる。

なぜ、それほどまでに勉強をさせるのか?
それは、良い大学を優秀な成績で卒業できないと、財閥系企業への就職が難しいからだという。 
有名企業に入社しない限り、大きな格差に一生苦しむことになるので、親心としては必死に子供たちに勉強させる。

勉強以外の経験を積む機会が少ないため、自分で考えて何かを行った経験が少ない。
ただ、言われたことを理解し、頭に叩き込む訓練しか受けていない。

大人になっても、ご飯さえ炊けない人が多いとのこと。
まして、非常時に自分の生命を守るために必要な行動に移せる子供は少ないだろう。

世界がショックを受けたあの悲劇的な映像には、こうした韓国社会が抱える背景があったことを思い知らされた。

ソウルの有名大学の教授は、私にこう言った。
「大学で授業を受けると、誰とも会話すらしないで真っすぐ帰宅する学生が大半だ。教授が授業時間に少しでも遅れると、学生から『先生が遅れたことで、我々の時間が無駄になった』と抗議される」

昔、私の学生時代には教授に議論を吹っ掛けたあげく、一緒に一緒に酒を酌み交わしたこともあったが、と聞くと「それは、昔のロマンだ。今ではあり得ない」と言われた。
大学は、学ぶ以上に学生生活を満喫する場と考えていたが、どうもそうではないらしい。
しかし、そうした傾向は決して韓国だけではない。日本の大学でも似たような傾向があるようだ。
学問を学ぶことと、人生を学ぶことは、時として両立しがたいものなのかもしれない。

ネット化が進み効率を重んじる社会になると、ますます人との接点が薄れてくる。
人と交わらないことでお互いの考えが理解できず、同時に自分の意思を相手に伝えることができない子供が増えている、とも指摘された。
LINEやfacebookなどが唯一のコミュニケーション手段になり、電話すら使わなくなっているという。
こうした傾向も、決して韓国だけのことではないように思える。 

『アラブの春』と称したSNSを媒体に革命の嵐が起こったのは記憶に新しいが、今何が問題で、どのような社会を目指すのかといった真剣な議論がどこまで行われたのだろうか?
真実は知る由もないが、Twit程度の囁きが大きく人を動かしたことは想像できる。しかし、それで相手の真意はどこまで理解できるのだろうか?

子供の頃から学問を叩きこまれ、人生経験の少ない若者が、チョッとした人の言動に過敏に反応してしまう、こうした背景には、人とのリアルなコミュニケーションを行える機会が少なくなっていることがあるのではないだろうか?

セウォル号の悲劇に話を戻そう。

先日、セウォル号のオーナーの死体が発見されたと報じられた。
しかし、韓国内でそれを額面通り信じている国民はまずいないという。

死後4日経った死体が発見された場所は、人が多く立ち入る場所だったという。
そんな場所に4日間も死体が放置されていたことはまず考えられない。
「ケネディ暗殺事件の韓国版だ」と、ある識者は自嘲気味に私に語った。

かつての韓国民は、政治への不満をデモなどで直接ぶつけもしたが、今回はその様な目立った行動には出ていない。
しかし、多くの韓国民の心には、怒りと絶望、そして社会全体に対する不信感などがない交ぜになってマグマのように沈澱しているように感じた。

通貨危機以来、自分達が営々と作り上げてきた社会が、これで良いのか?こんなはずではなかったのではないか?と、自問自答をしているようにも思えた。

 

こうした韓国の状況を、我々日本人は決して『対岸の火事』と見てはならない。
同じような傾向は日本でも多く見られる。

人と人とのリアルな交わり。会話を通じ相手を理解し、自分を理解してもらう努力。そして、自分の足で生きる力。 

こうした人間としての基本的な経験を醸成させるには、小さい頃からの様々な世代との関わりの経験が最も重要である。

ネットなどで情報が溢れ返っている現代。ちょっとした知識は、いくらでも獲得することができる。
しかし、それだけで他人や社会を理解することは不可能である。

とかくギクシャクしているように見える日韓関係、しかし、私にはそうした風潮は単なる情報によってもたらされた幻影であるようにしか思えない。

ロシアも然り、中国も然り。政治などの表面上の関係、さらにそうした動きを情報だけで接すると、人は偏見にさいなまれる。
偏見が偏見を呼び、ネット上を駆け巡る。
そこには、自分で経験したリアルな判断が入り込む余地はない。

世の中の悲劇の多くは、こうしたことから生まれているのではないだろうか? 

 



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