2022年  にっぽん復興へのシナリオ

日本が復興を遂げていく道筋を描いた近未来小説と、今日の様々な政治や社会問題についての私なりの考えや提案を順次掲載します。

【雑感-7】安楽にして緩慢なる死

2012-06-14 22:29:45 | 日記
 先日、私の小説を読んで下さった方から「kaz-adaさん、あなたは良い意味で楽観主義者ですね。でなければ、10年後の世界をあれほどバラ色に想像することはできませんよ」と言われ、いささか驚いた。
 「今の時代に対する警告を込めたことは私も分かっていますよ。しかし、私などは同じことを言いたくても、バラ色の未来を描くことはとてもできません。なぜなら、10年後にはおそらく日本はすでに破産していると思いますから」・・・と、ここまで聞いて、その方の言わんとしていることがようやく理解できた。
 下手をすれば10年を待たずに日本が破産し、良くてIMFからの資金供与を得て再生途上の債務国、一歩間違えれば、かつて地中海貿易を独占し栄華を誇ったポルトガルのように、世界の経済地図から忘れ去られる日が来ないとは言えない。今の政治を見て、そう感じるのは私だけであろうか?  勢いのある会社は海外に去り街中には失業者が溢れ、国連難民事務所から送られる食糧を確保するために国民は長い行列を作る、そんな光景さえ思い浮かんでくる。
 80年代の終わりにバブルが弾け不良債権処理という悪夢を体験したものの、97年にようやく景気が安定したと早合点して消費税率を2%引き上げた結果、出口の見えないデフレ経済に陥り、それ以来安楽にして緩慢な死に向かって徐々にやせ細っていった、近未来の日本を後世の歴史家はそう例えるかもしれない。
 今日の日本は、戦後の高度成長期に蓄えた強靭な体力ゆえ苦しさもさほど感じないうちに徐々に衰弱していく、そうした皮肉な状況にあると感じる。
 国民も企業も明日への確信が持てず、まさに体力を消耗し絶対安静の病状にあるにもかかわらず、時の為政者たちは暴動も起こさず粛々とした態度に重い病状であることすら理解できず、97年に実施した2%増税の負の教訓も顧みずに消費税率引き上げという愚挙に走る。国民も、財政規律を維持するためには必要な措置だろう、偉い先生が処方したのだからきっと体に良いのだろうと、妙に納得しつつあえて苦い毒薬を服用しようとしている。

 社会保障と税の一体改革は、将来の日本に必要な政策であることは筆者も同感である。政府財政もこのままで良いとは到底思えない。一日も早い健全化の実現が必要である。
 今の国債は国民の貯蓄で支えられていると言っても過言ではない。しかし、長引くデフレで多くの勤労世代は貯金に回せるほどの余裕はなくなっているばかりか、生活費にも事欠く状況にある。唯一の頼りは団塊世代前後の退職者たちが少しずつ蓄えてきた貯蓄だが、それらはいずれ取り崩されていく可能性がある。なぜなら、彼らの子供たち、すなわち現役の勤労者たちの所得が上がらない限り、親の年金や貯蓄を生活支援に回さざるを得ないからだ。
 こうして銀行から預金が消えていくと、国内で国債を支えることが困難になる。結果的に外資に頼る他なくなる。つまり日本の国家財政に外資が介入することになるのだ。それは賢明な財務省のお役人たちが何よりも恐れていることだ。そのため、財政の健全化が喫緊の課題なのだ、後の世代に付けを回さないためにも今消費増税が必要なのだ、と声をそろえて言い、与野党政治家を片っ端から味方に付け、国民をも「致し方ない」と思わせるようなマインドコントロールを行っている。
 彼ら財務官僚の危機感はよく分かるし、財政健全化に向けた動機や志は大いに共感する。
 しかし、問題はこの方法論にある。「財政健全化⇒税収の向上」ここまでは理解できるが、いつの間にか「税収の向上⇒消費税率アップ」という図式が付いてきてしまっている。
 このような図式が描かれると(日本人の思考回路全般に言えることだが)、その直後に手段が目的に取って代わってしまう。つまり、消費税率アップが唯一の目的のように錯覚し、本来の目的である「税収の向上」はどこかに忘れ去られてしまう。「消費税増税に政治生命の全てをかける」と国会でのたまわった一国の宰相然りである。(ちなみに、政策の一手段に政治生命をかけた宰相は歴史上稀有の存在ではないだろうか?)

 繰り返すが、決して消費税増税が目的ではなく、本来の目的は財政の健全化であり、そのために行われるべき施策は税収の向上にある。

 税収の向上には、様々な手段が考えられる。まず思いつくのは、所得税や現行の消費税の確実な捕捉である。964(クロヨン)という言葉があるように、現行の所得の捕捉率は勤労所得者では9割であるのに比べ、自営業者は6割、農林水産業従事者は4割という数字が60年代以降今に至るまで言われ続けている。こうした“ブラックボックス”に光を当てることで税収は大いに増加する。すでに韓国では国が主導して現金社会からクレジット決済社会へ移行され、さらに現金取引証明書を電子的に収集するなどの努力を行った結果、税収が大幅に向上したという実績がある。
 また、消費税の捕捉もかなり“ブラックボックス化”している。欧州では、取引の都度交換されるインボイスを税務申告で届け出ることが義務化されているが、こうした努力も法人税や消費税の捕捉率向上を目指したものである。
 翻って、日本では海外の多くの国で当たり前に行われているこうした政策努力を行っているのか?
 今国会の内閣委員会で審議されている“マイ・ナンバー法”が成立しさえすれば、これらの捕捉は容易に組み入れることが可能になるはずである。
 年金の捕捉率も同様の問題である。いずれにしても、現行税法の範囲内であっても捕捉率を高めることで消費税5%増税並みの税収アップにつながると言われている。捕捉率を高めることには「税の透明化と不公平感の払しょく」という譲れない重要な大義名分があり、真っ向から反対する国民は少ないだろう。

 逆に、今の経済状況で消費税率をアップさせたらどうなるか?
 ここ20年間の日本経済の低迷は、先進国と言われる国ではおよそ例がないほど酷いものである。
 以下の数字が、この20年間前後の日本の成長状況である。
   名目GDP : 473兆円(1991年度) → 479兆円(2010年度)
   給与所得  : 467万円(1997年度) → 412万円(2011年度)
   非正規雇用率: 21.4%(1995年度)  → 35.4%(2011年度)
   日経平均  : 38,915円(1989年) → 9,538円(2011年度第1四半期)
 つまり、この20有余年で日本経済は明らかに衰退している。
 2007年から2010年の3年間の名目GDPの伸び率を海外と比較しても、日本がマイナス6.1%であるのに対して、リーマンショックの震源国である米国でもプラス3.5%の成長。中国(73.7%)、インド(59.3%)、ブラジル(52.8%)という急速な発展を見せている国と対照的な傾向である。
 長く続いたデノミ経済が、いかに日本の国力を削いでいるかが一目瞭然であろう。

 さて、デノミ経済下では国民や企業は明日への不安の中で暮らしているといった状況である。国民は消費を節約し、企業は設備投資や開発投資を手控える。先だって家電各社の業績の落ち込みが話題になったが、それは設備投資や研究開発に向けるべき予算を削った結果として、ごく当たり前の結果である。さらに、企業は人件費も削減せざるを得なくなり、結果的に給与やボーナスのカット、非正規労働者の増加といった現象に至る。(春闘が華々しく展開され、毎年一定額の昇給があった時代は、もはや夢のまた夢である)
 このように、デノミ経済は国の経済の根本を蝕み、長引くほど国の経済基盤が弱めていくことにつながる。
 「経済は生き物である」と言われるが、人間が営む行為の結果である経済は当然ながら感情を持って動くと言って良い。
 このように不安と閉塞感の中にいる国民に対して、消費税増税を突きつければどのような結果になるか、それは火を見るより明らかである。増税前の駆け込み消費は考えられるものの、中期的に見れば消費は確実に落ち込むであろう。企業は売り上げが減り活力がさらに失われ、そのしわ寄せは従業員にも波及する。
 可処分所得はさらに減少し、それが消費の低迷はもとより、貯蓄に回す余力もなくなり銀行の預金は減少していく。
結果的に、今日の財務官僚が描く悪夢が現実になり、国債を国内で支えることができなくなり海外ファンドが跋扈する社会になっていく。財政に対する不安感が高まれば、国債の信用もなくなっていく。今のギリシャの現実が、日本でも起こらないとは言えない。
 かつて“Japan as No.1!”ともてはやされ、繁栄を謳歌した日本は衰退の一途を辿っていく。

 「患者に平凡な医者は薬を与え、名医は希望を与える」と言われる。
 いま政治に必要なことは、日本の再生に向けた明確なビジョンであり、それを実現するためのシナリオである。
 これが示されない限りどのような高尚な議論もむなしく聞こえ、国民に明日への希望を与えることができない。希望のない社会が確実に衰退するのは、多くの歴史的事実が証明している。逆に、希望さえ持てれば、どのような苦しい治療にも耐えられるものである。
 「消費税増税に政治生命をかける」前に、政治家としてやるべきことは山積しているはずである。これを先延ばしにした消費税論議にうつつをぬかしている政治を見ると、「安楽にして緩慢なる死」に一直線に向かっているように見えてならない。


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