2022年  にっぽん復興へのシナリオ

日本が復興を遂げていく道筋を描いた近未来小説と、今日の様々な政治や社会問題についての私なりの考えや提案を順次掲載します。

【雑感-13】資本主義の精神について考えたこと

2015-01-31 14:08:52 | 日記

ID:aje69x

 このところFacebookを中心に意見を投稿しておりました。私のFacebookは、友人のみの限られた方しか閲覧できないことから、長い間ご無沙汰状態になっておりました。 最近のFacebookへの書き込みから、資本主義について述べた愚見を紹介させて頂きます。(オリジナルの投稿に少々編集を加えております) 

 

 最近、ピゲティの影響からか、資本主義というものをしきりに考えるようになった。
 そこで、資本主義の原典の一つでもあるマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の岩波文庫を学生時代以来40年ぶりに開いてみた。「プロ倫」と略称していたこの本は、大学のゼミ仲間と盛んに議論しながら読んだ思い出深い本で、余白には当時の汚い字(今も汚いが)で稚拙なメモが書き込まれている。
 少々恥ずかしいが、その中のいくつかを紹介する。


メモ① カルバニズム:神の絶対性を強調。神への帰依によって人間を権威や伝統や特権や階級から解放する自由の教義。富の増殖や営利を肯定することによって勤労精神を高揚する。

 このメモは、我ながら結構資本主義の原点をついているのではと(自画自賛のようで恐縮だが)感じた。
 ウェーバーは、近代資本主義は禁欲主義の延長で形成されたと分析しており、禁欲主義では浪費や享楽といった行為を神の意志に反する行為であるとされていた。ここで言う浪費には時間の浪費も含まれ、人々は勤労にいそしむことが求められた。つまり「時は金なり」の考え方である。さらに、享楽行為は金の浪費にもつながり、禁忌事項であったがゆえに、結果的に蓄財は是認され資本が拡大していったと説いている。


メモ② 「冒険商人」的なユダヤ教はPuritanismの対極的思想であり、資本主義を危機に陥れる。

 これはさすがに極論かな?とも思ったが、ウェーバーの原文を読み返すと「ユダヤ教のエートスは的資本主義で、ピューリタリズムの担うエートスは合理的・市民的経営と労働の合理的組織である(原文を少々意訳)」と書かれている。

 この「的資本主義」という言葉を英訳すると「Paglia Capitalism」となり、さらに日本語に置き換えると「不可触民的資本主義」という差別用語につながる。こうした用語がユダヤ教と結びつけられて語られていることには違和感を覚えるが、ウェーバーがこの論文を書いた100年前の時代からすると、利殖に明け暮れた「祖国を持たない民」の存在が問題視されていたことも背景にあったのではないかと思われる。
 しかし、祖国がない≒資源や労働原資がない民は、非生産的手法に頼らざるを得なかったのも事実であり、こうした利殖行為が、資本主義の発展に大きく貢献したこともまた事実である。エンゲルスやマルクスは、これら資本家の存在をバッサリ切り捨ててしまったが、近代経済学では利殖(=投資)行為とファンダメンタルな経済成長はともに共存しつつ発展してきたこともこれまた事実である。


メモ③ 労働の倫理的義務に対する侵犯は阻止され、富裕であることによっても、この無条件的な厳命を逃れることはできない。財産のある者も労働をしないで食ってはならない

 これは、「財産の多寡によって勤労の義務を逃れることは許されないのである」というピューリタリズムの考え方である。
 近代資本主義は、中世的な世襲貴族による労働搾取に対する反発から生じたことを思い起こせば至極当然の考え方であり、民主主義を形成する上で欠かせない要素として資本主義の精神が育まれた。
 一方で、消費行為が禁欲主義に反する行為と見做されたことで、必然的に富が形成され、それは巨大な資本として蓄積されたことも事実である。

 つまり、「人間は神の恩恵によって与えられた財貨の管理者に過ぎず、1デナリ(デナリとは、ローマ帝国の通貨で1日分の労働賃金を指す)なりとも委託された貨幣を報告すべきで、自己の享楽のために支出することは神の意思に反する行為である。財産が大きいほど、それをどこまでも維持し、不断の労働によって増加させる責任がある(かなり意訳した)」とも指摘している。
 要するに、人間は労働という義務を負うことで財を蓄積し、蓄積された財産は新たな労働のための原資として活用する、これは資本主義の原点であると説かれている。


 さて、こうした資本主義の原典を改めて読むと、ピケティの説く「r>g(資本収益率が経済産出による所得を上回る)」という問題提起が、別の角度からさらに重大性を増して感じられる。つまり、メモ①で書いたように、資本主義の原点は「人間を権威や伝統や特権や階級から解放する自由の教義」であったとすると、資本は人間の労働価値をより高めるための原資と見做すべきであり、いわば目的に対する手段であるはずである。ここで言っている「権威や伝統や特権や階級」とは、一部の貴族階級による農奴制を基本とした中世社会のことを指している。つまり、そうした中世社会から人間を解放する仕組みとして資本主義が形成されたと理解される。翻って現代社会、ギャンブル性の高いマネーゲームに明け暮れている投資家たちは、労働価値の生成にどれだけの価値を見出しているのだろうか?

 ウェーバーは、論文の中でこうも述べている。「政治あるいは投機を指向する『冒険商人』的資本主義に立つ者は、的資本主義である(意訳)」。

 この言葉は、ファンダメンタルな対象への投資は健全な資本主義の発展に不可欠であるが、マネーがマネーを産むだけの実態の伴わない利殖行為のみに走ることは、資本主義が本来持つ倫理感とは異質のものであると言っているように思える。

 このように考えると、昨今のマネーゲーム的な資本主義の現状は、資本主義の精神にどこまで合致しているのだろうか?という疑問が湧いてくる。少々極論的に言うと、的資本主義者が跋扈する今の時代では、資本主義の精神が危機にさらされるのは当然ではないか? むしろ、資金を持つ者がかつての貴族階級のような立場となり、結果的に資本主義の精神が中世社会に逆行しつつあると考えられないだろうか?とまで思うのである。これでは、格差が拡大するのは当然の帰結である。


 ピゲティ氏は「ユートピア」と言いつつも、資本に対しそれにふさわしい税を課すべきと主張している。これは大変貴重な提言だと思うが、同時に、あえてユートピアと言わざるを得なかったピゲティ氏の悔しさも感じられる。

 まず、格差是正のための最適な税率の決定とその適正な運用、これはかなり困難な作業であろう。これを突き詰めると累進課税の強化論議にまで発展し、かなりの混乱も予想される(事実、批判論者たちはこの点を強く攻撃している)。また、税制面で国際的に歩調を合わせるということもかなり難しいと思われる。とりわけリーマンショック以降、タックスヘイブン問題が強まっているが、一方でタックスヘイブン国の多くは、国家財政がこれに依存していることも事実である。こうした非協力国に働きかけることで、本当に国際社会で足並みをそろえることができるのか?という困難さは容易には拭えないと思われる。

 また、税を本来の格差是正のために適正に運用するには、法律・政治・行政等のあらゆるガバナンス機能が適正に働く仕組みを構築する必要がある。これは言葉で言うほど簡単なことではなく、それぞれの利害関係から一か所が破られると全体の破たんに直結する可能性がある。例えば、政治家は選挙に勝つためには、支持基盤を確保する必要があり、これが圧力団体に発展し、法制度や行政の方向性も決定するという単純な図式を想定すれば容易に理解できる。
 仮に一部の富裕層から潤沢な税を得たとしても、こうしたガバナンス機能が正常に機能しない限り、結果的に力のある富裕層のもとに資金が流れてしまうといった結果にもつながりかねない。


 このように考えていくと、最後に帰結することは、資本主義とはあくまで制度の枠組みであって、それを運用する人間(ウェーバー的にいうと「資本主義の精神」)に依存する部分がすべてということになる。「プロ倫」では「エートス」という単語が頻発するが、エートスとは個人の在り様を指し、転じて道徳や品位という意味にも使われる。

 エートスを養うのは教育であり、エートスを高めるには情報が欠かせない。

 幸いなことにウェーバーの時代から100年あまりを経た今日、教育や情報は社会により深く浸透してきている。将来にわたり、人間を解放する自由を保障する資本主義を生かすうえで、この二つの要素はますます重要になっていくのではないだろうか。

 資本主義に対する危機感や嫌悪感が世界的に広がりつつあり、なかには「資本主義はすでに崩壊の途を辿っている」とまで断定する識者まで現れている今日、もう一度資本主義の精神に立ち返りつつ、自由で公平な社会の建設に向けた冷静かつ前向きな論議を重ねていくべき時期に来ていると感じているが、いかがであろう?

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1 コメント

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エートスを見極める (テッド)
2015-02-04 08:09:31
数年ぶりにMixをのぞいたら、たまたまコメントリクエストがあったので、駄文を投稿します。

以下の、ご意見に賛同しつつ、産業革命はイギリスで、市民革命はフランスで、そして21世紀のグローバリズムは米国から世界に広がりつつあることを思います。
国家という、代表具現の公共性を体現する機関と歴史を本来持たなかった米国は、プロテスタントの純粋系ピューリタ二ズムを標榜し、世界中のが無限意流入するから、無限に境界を広げていく。
ユダヤ教に源流を持つ?キリスト教はの選民思想。罰する神に奉仕し禁欲的に利得に走り、拡張することが、彼らのエートス。だから原住民を駆逐して西海岸に到達し、彼らの単純民主主義をかざしてイラクにも、そのうち火星にも行くでしょう。

イスラム国による、パリ新聞社襲撃に対する国民のデモを評した、フランスの政治評論家の発言は印象的。「アメリカ人は9.11に際して自分たちの保身のために団結したが、フランス人は今回の事件に際して、自由の理念のために団結した」と。秀逸です。

米国では失業は孤立した個人の個人的責任。フランスでは政府の責任。
この意味づけの違いに、歴史と国民の成熟度の大きな違いを見ました。米国系グローバリズムとMBA教育による世界征服で忘れていましたが、近代世界はフランス革命によっても、作られてきたのでした。民主主義の基本たる人権と国のあり方です。

金融が、帳簿上、無限意拡張していくのは、基本原理からして当然。何をいまさらという感じがします。
おかげで我が家の老母の資産は数年で3倍に。

製造技術は、現場で数十年すりあわせなければ磨かれませんが利益は薄い。ITと金融技術は、子供が学校で学べるほど単純。人間の共生の酸い甘いも知らない子供でも、億万長者になれる。30そこそこのザッカーバーグ君が数十億人の生活を規定していいのだろうか。

国家と政府が不可欠だと思います。
良心的なか家族所有企業もあるにはあるでしょうが・・・王様の人格にだけ頼ってられないと歴史が動いたはずですが。
大王製紙の城下町に生まれると・・・ラスベガスで5億円?すったあの2代目社長は処女権もってるんですかね(失礼)。

米国の田舎から雑文でした。

安達さん。私の帰国時にはソウル経由にしますので、焼肉でもお付き合いください。


<以下は安達ブログより>
「・・・・このように考えていくと、最後に帰することは、資本主義とはあくまで制度の枠組みであって、それを運用する人間(ウェーバー的にいうと「資本主義の精神」)に依存する部分がすべてということになる。「プロ倫」では「エートス」という単語が頻発するが、エートスとは個人の在り様を指し、転じて道徳や品位という意味にも使われる。

 エートスを養うのは教育であり、エートスを高めるには情報が欠かせない。

 幸いなことにウェーバーの時代から100年あまりを経た今日、教育や情報は社会により深く浸透してきている。将来にわたり、人間を解放する自由を保障する資本主義を生かすうえで、この二つの要素はますます重要になっていくのではないだろうか。

 資本主義に対する危機感や嫌悪感が世界的に広がりつつあり、なかには「資本主義はすでに崩壊の途を辿っている」とまで断定する識者まで現れている今日、もう一度資本主義の精神に立ち返りつつ、自由で公平な社会の建設に向けた冷静かつ前向きな論議を重ねていくべき時期に来ていると感じているが、いかがであろう?」
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