桂浜ファンクラブ

「龍馬伝」が、2010年に放送するNHKの大河ドラマに決定。福田靖さんのオリジナル脚本に、桂浜の龍馬銅像も大きな期待!

長宗我部元親(一)その4・・・永国淳哉

2009年03月09日 | 長宗我部情報
長宗我部元親(一)その4         永国淳哉    (「城山」創刊号より)



国親の遺言「本山を討て」


 本山勢を浦戸城まで追い込んだ国親は、すかさず兵を送りこみ攻めたてた。

海に突き出した山城の守りの固さを知ると、長浜の若宮八幡宮の前から海ぎわまで柵を作り、海には船を浮かべて食料供給ルートを遮断する作戦にでた。


 しかし、浦戸城は堕ちなかった。ここまで追込みながら、本山にとどめを刺すことなく国親は、囲みをといて対岸の種崎城へと急に引き上げた。
 国親は、五十七歳。戦闘に疲れ、すでに体調を崩していたのであろう。長浜城の合戦から一月もたたない六月十五日、長子元親を枕元に呼びよせ、遺言した。


 「我が為には、本山を討つより外に供養なし。我死せば、十七日の間は、世法に随ひて汝が心に任すべし。夫れ過ぐれば、喪服を脱ぎて甲冑に換へ、軍議を専らにすべし。此皆堅く心得よ」(土佐物語)
 こうした間、本山茂辰は浦戸城をのがれ、朝倉城に新しい力を結集し
はじめていた。


 元親は、種崎城に江村小備後、茂辰の引きはらった浦戸城に弟の親貞を置き、長浜城は破却。

自分は、もとの岡豊城からの出発。本山打倒から、さらに土佐の統一への作戦を開始した。



土佐統一から四国制覇へ

 本山を討ち、安芸の国虎を自刃に追い込み、吉良、津野の勢力を陥落させ、やがて一条にも銃を付き付けることとなる。つぎつぎと陥れていった各地の豪族とも、嫁婿のやりとりで長宗我部家と深い姻戚関係にあった。

そうした義理も無視して、それらを撃退するのは戦国の習わしとしても、一条は父国親の育ての親である。長宗我部一族の再興を祈願し、岡豊城への長宗我部一族の復帰を実現させた恩人。

その一条をも放逐してしまったのである。


 そして矛先は、再び東に向かい奈半利城、野根城とおとしいれ、ついに甲浦にいたる。元親初陣より、わずか十五年。天正三年(一五七五)
この甲浦城の陥落で、長宗我部元親が「土佐統一」を宣言するのである。


 天罰を覚悟で成し遂げた、元親の土佐平定は「土佐の出来人」の評判とともに、周辺の村々の間では恐ろしい「鬼」の噂となってひろがっていった。



 もはや止まることをしらない元親軍は、ただちに阿波侵攻に着手。たちまち阿波東南部を手中におさめ、続いて中央部から四国山地の峠を越えて進軍した。


 元親が、四国制覇の最重要拠点と睨んだのは白地の要地。阿波池田の町はずれ、吉野川をまたぎ国道のインターチェンジのあるあたり。

その城跡には、いまは郵政省の白地簡易保険保養センターがあり、誰でも気軽に宿泊できるようになっている。
 この白地城を中心舞台として、四国各地で激戦が続く「長宗我部、魔の十年」となる。天正十三年(一五八五)瀬戸の海を渡ってきた豊臣秀吉軍と長宗我部軍の間で、和議が成立したのも、この城であった。(つ
づく)

財団法人 香川経済研究所発行   調査月報(110号)より転載



城山  創刊号  発行 (浦戸城址保存会・長宗我部顕彰会・元親会)より



長宗我部ファンクラブ事務局

長宗我部顕彰会ほか発行の「城山」