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長宗我部元親(一)その3・・・永国淳哉

2009年03月04日 | 長宗我部情報
長宗我部元親(一)その3          永国淳哉   (「城山」創刊号より)



元親初陣をかざり、本山氏を破る

 元親の初陣は、復帰した父の国親が本山氏と再び激突した長浜城(高知市)の戦いであった。

 本山氏は、養明の子・本山海渓茂宗の代に南下し、大きく勢力をのばし、その次の茂辰の代で、中央部の土佐郡、長岡郡、吾川郡の主要地をほとんど全て、その手中におさめていた。

中央部東方の岡豊城に落ち着いた長宗我部国親は、戦国大名の常として、その三人娘の一人、すなわち元親の妹を、宿敵・本山茂辰に嫁がせていた。


 そうした情勢の中で、国親も南下し、すでに本山氏に属していた中央部の秦泉寺城、大高坂城、国沢城、久万城とつぎつぎ攻め落としていった。

 そして永禄三年(1560)長浜戸の本において長宗我部と本山の両軍は、直接刃を交わすことになった。元親は、二十二歳の若武者になっていた。

 虎視たんたんと、起死回生の機会をまっていた国親にとって長男・元親の成長は何にもまして心強かったに違いない。

 事件は、浦戸湾(高知市)からおこった。その六百年程前には、同じ場所を船出した紀貫之が和歌をおりこみながら「土佐日記」をしたためたところである。

 長宗我部が、大津から湾口の種崎の出城に向けて出した船を、対岸にあった本山の支城の潮江の城兵が襲い、水主を殺害して兵糧米を奪った事件に端を発した。

 国親は、本山茂辰に抗議したが、誠意のある返事がなかった。反撃の口実はできた。永禄三年(1560)五月二十六日の夜、長宗我部軍は、種崎から浦戸湾を渡り、本山の長浜城を奇襲した。

 本山茂辰は、その報を朝倉城で聞いた。明朝さっそく兵2500余をととのえ長浜に向かった。長宗我部の兵1000余。兵力では本山がはるかに優勢であったものの、初陣の元親をもりたてて、長宗我部の勢いは凄まじかったという。

一時は、茂辰の指図で、元親は大勢の兵に囲まれたが「元親を討たすな」の国親の声に、勇猛果敢な江村小備後の指揮する一段が、槍先をそろえて突進。多勢の包囲網を、突き破った。
 茂辰は、湾口の浦戸城に逃げ込んだ。


財団法人 香川経済研究所発行   調査月報(110号)より転載





城山  創刊号  発行 (浦戸城址保存会・長宗我部顕彰会・元親会)より



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長宗我部顕彰会ほか発行の「城山」