NHKスペシャル 民族共存へのキックオフ~"オシムの国"のW杯~(2014年6月22日(日)午後9時00分~9時49分)とナイジェリア1-0ボスニア・ヘルツェゴビナ(6/22 日 7:00 テレ東)の感想です。
「これまで戦争をしていた国が少しずつ成功を重ね、世界の舞台に踏み出したことはとても大きな意味を持っている。」(オシム)
対立する民族を団結させた立役者がオシム。
ボスニア・ヘルツェゴビナはムスリム(ボシュニャク)、セルビア、クロアチア、3つの民族からなっている。
(旧)ユーゴスラビアは1990年のイタリアワールドカップで輝きます。イビチャ・オシム監督の元にストイコビッチら天才的なプレーヤーを擁し、強い印象を残しました。Jリーグ開幕前の私にとっては、天才マラドーナの邪魔をする東欧の謎の集団という意識でしたが。
その時のユーゴは、民族紛争の影響で選手の選抜も自由にできる状況ではなかった。オシムはそんな国内状況を全く寄せ付けず、実力本位で選手を選んだ。
「クラブの所属地域や選手の名前、出身、宗教を気にかけるようになった。そんな考え方は、私には全く関係のないものだった。」(オシム)
しかし、国では戦争が始まっていた。
「クロアチアの海岸線では既に衝突が始まっていた。誰かが死んだり怪我をしたことを知らせる電話を心配する中で平常心で試合に臨めるわけがなかった。」(オシム)
準々決勝でマラドーナのアルゼンチンにPK戦の末破れます。
この試合の記憶を問われ、オシムは「それは父親が死んだのを覚えていますかというのと同じ質問だ」と答えます。オシムは日本でもPK戦を見ないことで有名でしたが、その根底の話を聞いたのは私は初めてでした。
ボスニア紛争では20万人が命を落とす。オシムは戦争に抗議するため代表監督を辞任する。
「私が辞める理由はお分かりのはずだ。サラエボのため私ができる唯一のことは辞任することだ。サラエボは私が生まれた場所なのだ。」(オシム)
ちなみにユーゴスラビアは92年の欧州選手権の出場が決まっていましたが、戦争のため出場が停止になり、大会は代わりに出場したデンマークが優勝してしまいます。
時は流れて、ブラジル予選。このときボスニア・ヘルツェゴビナのサッカー協会は3つの民族からそれぞれ1名ずつ、合計3名の会長がいる異常事態になっていた。これに対しFIFAは、会長を1名にしなければ国際試合の出場はならぬと通告。このままではワールドカップ予選にすら出られない。その混乱解消に立ち上がったのがオシム。時間は1ヶ月半しかない。ボスニアでは全ての団体が3つの民族に分かれていた。
オシムは政治家を含めあらゆる立場の人に会い、事態を解決した。最もむつかしい状況にいたセルビアの政治家代表に訴えた。
「フットボールはボスニアの最も大切な宝物だ。それをあなたがつぶしてしまってもいいのか」
期限の5日前、民族を超えたサッカー協会を作ることが決定された。そして代表チームは予選に参加でき、予選を1位で突破した。
「ボスイアが何かできることがあるという自信を取り戻したにすぎない。みんながサッカーを愛する必要はないが、戦う姿を見ているだけでも国民には喜びとなる。人々の気持ちを動かしたんだ。自分は何かの一部だと感じ、人々と共に道に出て、共に歌い踊る
仕事や生活に希望が戻り、国が再び歩み始めるんだ。」
今朝のボスニア・ヘルツェゴビナ対ナイジェリアの試合。先発11のうち、ボスニアで育ったのはエースのジェコのみとのこと。10番のミシモビッチも父親の代にミュンヘンへ移民。
試合は2つの不安な判定もあり、1-0で敗戦。予選敗退が決まってしまった。残念だったのは、ジェコの微妙なオフサイドによるゴール取り消しだけでなく、会場であるクイアバの気候。これで前への推進力が失われてしまった。(日本代表のコロンビア戦の会場です)。ロスタイムのポストもツキがなかった。。。
ボスニア・ヘルツェゴビナ代表のサポーターソングがディノ・メルリンによる1989年のヒット、「Bosnom behar probeharao」(ボスニアに花が咲いた)
番組の中でも、チームの選手たちがこの歌を歌うシーンが放送されました。
Dino Merlin - Bosnom behar probeharao
NHKスペシャル 民族共存へのキックオフ~"オシムの国"のW杯~
「これまで戦争をしていた国が少しずつ成功を重ね、世界の舞台に踏み出したことはとても大きな意味を持っている。」(オシム)
対立する民族を団結させた立役者がオシム。
ボスニア・ヘルツェゴビナはムスリム(ボシュニャク)、セルビア、クロアチア、3つの民族からなっている。
(旧)ユーゴスラビアは1990年のイタリアワールドカップで輝きます。イビチャ・オシム監督の元にストイコビッチら天才的なプレーヤーを擁し、強い印象を残しました。Jリーグ開幕前の私にとっては、天才マラドーナの邪魔をする東欧の謎の集団という意識でしたが。
その時のユーゴは、民族紛争の影響で選手の選抜も自由にできる状況ではなかった。オシムはそんな国内状況を全く寄せ付けず、実力本位で選手を選んだ。
「クラブの所属地域や選手の名前、出身、宗教を気にかけるようになった。そんな考え方は、私には全く関係のないものだった。」(オシム)
しかし、国では戦争が始まっていた。
「クロアチアの海岸線では既に衝突が始まっていた。誰かが死んだり怪我をしたことを知らせる電話を心配する中で平常心で試合に臨めるわけがなかった。」(オシム)
準々決勝でマラドーナのアルゼンチンにPK戦の末破れます。
この試合の記憶を問われ、オシムは「それは父親が死んだのを覚えていますかというのと同じ質問だ」と答えます。オシムは日本でもPK戦を見ないことで有名でしたが、その根底の話を聞いたのは私は初めてでした。
ボスニア紛争では20万人が命を落とす。オシムは戦争に抗議するため代表監督を辞任する。
「私が辞める理由はお分かりのはずだ。サラエボのため私ができる唯一のことは辞任することだ。サラエボは私が生まれた場所なのだ。」(オシム)
ちなみにユーゴスラビアは92年の欧州選手権の出場が決まっていましたが、戦争のため出場が停止になり、大会は代わりに出場したデンマークが優勝してしまいます。
時は流れて、ブラジル予選。このときボスニア・ヘルツェゴビナのサッカー協会は3つの民族からそれぞれ1名ずつ、合計3名の会長がいる異常事態になっていた。これに対しFIFAは、会長を1名にしなければ国際試合の出場はならぬと通告。このままではワールドカップ予選にすら出られない。その混乱解消に立ち上がったのがオシム。時間は1ヶ月半しかない。ボスニアでは全ての団体が3つの民族に分かれていた。
オシムは政治家を含めあらゆる立場の人に会い、事態を解決した。最もむつかしい状況にいたセルビアの政治家代表に訴えた。
「フットボールはボスニアの最も大切な宝物だ。それをあなたがつぶしてしまってもいいのか」
期限の5日前、民族を超えたサッカー協会を作ることが決定された。そして代表チームは予選に参加でき、予選を1位で突破した。
「ボスイアが何かできることがあるという自信を取り戻したにすぎない。みんながサッカーを愛する必要はないが、戦う姿を見ているだけでも国民には喜びとなる。人々の気持ちを動かしたんだ。自分は何かの一部だと感じ、人々と共に道に出て、共に歌い踊る
仕事や生活に希望が戻り、国が再び歩み始めるんだ。」
今朝のボスニア・ヘルツェゴビナ対ナイジェリアの試合。先発11のうち、ボスニアで育ったのはエースのジェコのみとのこと。10番のミシモビッチも父親の代にミュンヘンへ移民。
試合は2つの不安な判定もあり、1-0で敗戦。予選敗退が決まってしまった。残念だったのは、ジェコの微妙なオフサイドによるゴール取り消しだけでなく、会場であるクイアバの気候。これで前への推進力が失われてしまった。(日本代表のコロンビア戦の会場です)。ロスタイムのポストもツキがなかった。。。
ボスニア・ヘルツェゴビナ代表のサポーターソングがディノ・メルリンによる1989年のヒット、「Bosnom behar probeharao」(ボスニアに花が咲いた)
番組の中でも、チームの選手たちがこの歌を歌うシーンが放送されました。
Dino Merlin - Bosnom behar probeharao
NHKスペシャル 民族共存へのキックオフ~"オシムの国"のW杯~