古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

乙巳の変の三者問答について 其の二

2020年03月27日 | 古事記・日本書紀・万葉集
(承前)
六、オバシマにオハシマス

 蘇我入鹿のことを鞍作とも呼んだのには、自ら鞍を作って乗馬するようなところがあったからではなかろうか。欄干のことをオバシマといい、それに似た語にオハシマス(御)がある。筆者は、言葉の語源について論じるものではなく、オハシマス(御)という語を飛鳥時代に使うに当たり、当時の人が、洒落として、オバシマ(檻)と関係させて考え、楽しんでいると見極めている。新撰字鏡に、「楯 順音、禦也、詳尊反、平、禦也、欄檻也、馬夫世支(ふせぎ)、又於波志万(おばしま)、又於倍(おへ)」、和名抄に、「軒檻 漢書注に云はく、軒〈唐言反〉は檻上の板也、檻〈音監、文選に、檻を師説に於保之万(おほしま)と読む〉は殿上の欄也といふ。唐韻に云はく、欄〈音蘭、漢語抄に、欄は檻と云ふ〉は階陛の木の勾れるをいふ。欄も亦なり〈本の如し〉。」、名義抄に、「檻 音監、オバシマ」とある(注9)。すなわち、オバシマの付いているところに居ることの尊敬語に、オハシマスという言葉を優先的に用いたのではないかと考えている。言葉の使用において最も高度な精神活動の一つにジョークがあり、逆言すれば、ジョークの通じない輩には言葉を論じる資格さえないと考える。
 寺社の殿舎の縁側の手すりや橋の欄干などのことをオバシマと言っている。喜多村信節・嬉遊笑覧に、「【頭書】おばしま俗に軒檻などを訓り。これはおばします通りを云なり。貴人の御坐の順にあめる高らん也。源氏・野分にまたみかうしもまいらずおはしますにあたれるかうらんおしかゝりてみわたせば云々。源氏の君の寝処の順のかうらん也。(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992504/223/52)、漢字の旧字体は改め、旧仮名遣いの誤りは正し、適宜句読点等を施した。)とある。壇は高くなっているので、オバシマを設けて転落防止につとめている。そういう高いところにいらっしゃることを、オハシマスと言っているらしい。言い得て妙である。

 天皇(すめらみこと)大極殿(おほあむどの)に御(おはしま)す。古人大兄(ふるひとのおほえ)侍り。(皇極紀四年六月、岩崎本)
 天皇、大殿に御(おはしま)す。物部目大連(もののべのめのおほむらじ)侍(さぶら)ふ。(雄略紀元年三月、書陵部本)
 天皇、向小殿(むかひのこあむどの)に御(おはしま)して、王卿(おほきみまへつきみ)に大極殿(おほあむどの)の庭(おほば)に宴(とよのあかり)したまふ。(天武紀九年正月、兼右本)

 基壇の建物の高いところにオハシマス状態にある。皇極天皇が大極殿にいて古人大兄が近くにいて庭の朝議を見守っているのと、雄略天皇が大殿にいて側に物部目が控えていて高いところから庭にいる娘子の歩くさまを見て相談相手になっているのとは、位置関係が同じである。天武天皇の場合は、側に皇后、後の持統天皇がいて、王卿が庭でバーベキューをやっている。
 オハシマスという語は、実はよくわかっていない。古典基礎語辞典に、「オハスは、上代の最大級の敬語であるオホマシマス(大坐します、神仏や天皇を遇する)が変化したオハシマスのマスを省いた形として成立したと考えられ、オハシマスよりオハスのほうが敬意は低い。」(250頁、この項、石井千鶴子。)、白川1995.に、「「おはします」という語は、〔宣命〕にしばしば用いられる語で、その系統の用語であろう。」(596頁)と「まします〔坐・在〕」の項に解説されている。宣命には、オホマシマス(「大坐坐」(3詔)、「御坐」(23詔)、「御坐坐」(27詔)、「於保麻之麻須」(45詔))の例があり、万葉集などにオハシマスと仮名書きされた例が見られない。そこで、本来、敬語的表現のマス(坐)にさらにマスが加わってマシマスがあり、さらにオホ(大)が加わってオホマシマスがあり、それが約されてオハシマス、さらに訳されてオハスという語が生まれたと想定する傾きがある。しかし、そのように歴史的経緯をたどることには、あまり意味が見出せない。すべては口語的世界に生まれている。続日本紀の宣命、オホマシマスを基準に考えるのは自縄自縛である。
 筆者は、マシマス、オハシマスとも、飛鳥時代にヤマトコトバとして存在していたと考えている。オハシマスの語源を定める必要はなく、オバシマ(檻)のあるようなところにマシマス状態にいらっしゃったらオハシマスであると言って正しいと知れるからである。寺社の殿舎の神仏、大極殿の天皇とも、同じく高いところでオバシマの内側にいらっしゃる。オバシマのないところにいらっしゃる場合は、原則としてマシマス、イマスという訓にしなければ少し変だということである(注10)
 築島1963.に、「○オハシマス(降臨)
 如来悲-愍((シ)て)又親(ミツカラ)降-臨(オハシマセリ)(シタマヘリ)(③三ノ一六七)
 々々(此室)諸釈(の)建也、擬(セルナリ)仏(の)居(オハシマサムト)〔焉〕(④六ノ一八九)
 オハシマスは和文では広く用ゐられるが、訓点では一般に見出されないものであるのに、日本書紀にはその例が見える。訓点では一般に「マシマス」「イマス」を用ゐるのであつて、本[石山寺本大唐西域記]点も他所では「マシマス」「イマス」を用ゐてゐるのである。」(203頁、漢字の旧字体は改めた。)とある(注11)

七、オハシマスの探究

 オハシマスには、動詞のほか、補助動詞的な使い方もある。動詞なのに、オバシマとは無関係かと思われる個所でもオハシマスと訓む例が見える。

 皇后、懐妊開胎(みこあれま)さむとする日に、禁中(みやのうち)に巡行(おはしま)して、(推古紀元年四月、岩崎本)

 推古天皇が禁中を巡行している個所である。身重の天皇が禁中を巡行するとき、手すりを設置していたかは不明である。ただ、最終的に、厩の戸に当たって子が生まれている。厩戸皇子である。厩の戸は、ませ棒、ません棒と呼ばれる丸い棒が柵にされている。オバシマに相当すると面白がられたのであろう。
 
 御所(おはしますところ)に遠く居(はべ)りては、政を行はむに不便(もやもや)もあらず。近き所に御(おはしま)すべし。(天武紀元年六月、兼右本)

 壬申の乱の官軍としてオハシマストコロと主張し、馬に乗って来てくれと言うのだから馬の鞍の鞍橋にオバシマ性を見出しているのであろう。乗馬した記述は、壬申の乱で東国入りする際に見られる。はじめ徒歩で進んだが、途中で「鞍馬(くらおけるうま)」に逢って、「因りて御駕(みのり)す。乃ち皇后は、輿に載せて従(みともにま)します。」(天武紀元年六月)とある。戦の最中のことで、威を顕示して隊列を進めるほど、同調する人は増えるようである。
 
 仍りて平旦(とら)の時を取りて、警蹕(みさきおひ)既に動きぬ。百寮(つかさつかさ)列(つら)を成し、乗輿(きみ)蓋(おほみかさ)命(め)して、以て未だ出行(おはしま)すに及(いた)らざるに、十市皇女、卒然(にはか)に病発(おこ)りて、宮中(みやのうち)に薨(みう)せぬ。此に由りて、鹵簿(みゆきのつら)既に停まりて、幸行(おはしま)すこと得ず。(天武紀七年四月、北野本)

 隊列の中心に天皇は輿に乗って行くが、オープン輿で蓋をかざしていく。小輿にはオバシマがめぐらされている。
小輿と天蓋(板橋貫雄模、春日権現験記第十一軸、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287496/14)
 是の夕(ゆふべ)に、嶋宮(しまのみや)に御(おはしま)す。癸未に、吉野に至りて居(おはしま)す。(天武前紀四年十月、北野本)
 皇太子(ひつぎのみこ)、長津宮に遷(うつ)り居(おはしま)す。(天智前紀斉明七年七月是月、北野本)

 それぞれの宮が高床式にしてオバシマがあったか不明ではあるが、嶋宮は庭の島のような、釣殿のような造りかと思われる。庭に面していたらオバシマは設けたい。吉野宮は高原の観覧台もついた別荘だから、オバシマはあったであろう。長津宮は、厳島神社のような海岸上の宮かもしれず、オバシマがありそうである。

 天皇、得病(おほみここちそこな)ひたまひて、宮(とつみや)に還入(かへりおはしま)す。(用明紀二年四月、書陵部本)
 蓋し有間に幸(おはしま)せるに因りて、新嘗(にひなへ)を闕(もら)せるか。(舒明紀十一年正月、書陵部本)
 天皇、伊予より至(かへりおはしま)す。(舒明紀十二年四月、書陵部本)

 還る際に輿に乗っていて、それにオバシマがついているということであろう。いずれにせよだいぶお疲れの御様子である。

 天皇、是の歌を聆(きこ)しめして、則ち感情(めでたまふみこころ)有(おはしま)す。(允恭紀八年二月、書陵部本)
 心(みこころ)を削(と)くし志(みこころざし)を約(せ)めて、従事乎無為(しずかにおはしま)す。(仁徳紀四年三月、前田本)

 感情が確固たるものになったとか、人民の役をなくす善政を行ったといったことに、オハシマスという言葉が用いられている。前者の、心が揺れても落ちないものとは、例えてみれば、船の揺れに対して落ちないことを表わしている。船に安全柵のオバシマが付いていると落ちない。だからオハシマスといっている。後者の、「従事乎無為(しずかにおはしま)す」は、六韜・文韜・盈虚に、「役作の故を以て、民の耕織の時を害せず。心を削り志を約し、事に無為に従ふ。(不役作之故、害民耕織之時、削心約志、従事乎無為。)」とある字面を下敷きにしている。古訓のシヅカニでもって何もしないことを言い表している。

 世尊の身の支は安定と(?)しづかに敦重といつくしくして曾て掉動せず。(観弥勒上生兜率天経賛・巻下)
 是に、男大迹天皇(をほどのすめらみこと)、晏然(しづか)に自若(つねのごとく)して、……(継体紀元年正月、前田本)

 文選読みで「安全」をシヅカニと訓み、また、日本書紀に、「晏然」をシヅカニと訓んでいる。「晏」字は本稿の前の方で見た。皇極紀の「大極殿」の岩崎本傍訓に、「オホ晏トノ」とあった。大極殿は、大いにシヅカナル殿、何もしない善政を敷く御殿という意味になる。動きがなくて落ちることもないことを“見える化”するにはオバシマがあるとわかりやすい。だから天皇が課役を課さずに御殿にいる場合、オハシマスと訓むのがふさわしい。
 翻って蘇我入鹿とオハシマスの関係を探ってみる。彼の人物像は、皇極紀元年条に記されている。

 [蘇我蝦夷]大臣の児(こ)入鹿、更(また)の名は鞍作。自ら国の政を執りて、威(いきほひ)父(かぞ)より勝れり。是に由りて、盜賊(ぬすびと)恐懾(おぢひし)げて、路に遺(おちもの)拾(と)らず。(皇極紀元年正月)

 勝手に国政を専横する人物で、盗賊でさえ、道に落ちているものも拾おうとしなかった、それほど威力があったという。監視カメラで見張られているのではなく、入鹿が道を行くとき、ただならぬ気配を感じたという意味であろう。大臣クラスの人は、隊列を組んで出御する。大名行列でも、お先棒が、「下にー下に」と言いながら進んだ。警蹕の声をとどろかせている。古く警蹕(みさきおひ)には、「おし」、「おはしますおはします」と言ったようである。

 警蹕(けいひち)など「おし」といふこゑきこゆるも、うらうらとのどかなる日のけしきなど、いみじうをかしきに、……(枕草子・第二十三段)
 三日、また、申(さる)の時に、一日(ひとひ)よりもけにののしりて来るを「おはしますおはします」と言ひつづくるを、一日のやうにもこそあれ、かたはらいたしと思ひつつ、……(蜻蛉日記・中・天禄二年一月)
 あさましき人、わが門(かど)より、例のきらぎらしう追ひちらして、渡る日あり。行ひしゐたるほどに、「おはしますおはします」とののしれば、例のごとぞあらむと思ふに、……(蜻蛉日記・中・天禄二年五月)

 この「おはしますおはします」というののしり声は、蘇我入鹿の警蹕の声の伝統を継いでいるように思われる。威力がある。行列の真ん中に、入鹿は馬に乗って行進しているようである。建物で言えば基壇のような高い位置にあり、周りには護衛兵が守って近づくことができない。オバシマ(檻)を四囲にめぐらせている。入鹿と言うぐらいだから、鹿が入る檻のような感じである。オバシマごと移動している。オハシマスオハシマスと警蹕の声があってふさわしい。だから、オハシマスほどの存在として畏怖されている。暴れん坊は「為人多疑」であるから警護が固い。そうあってくれたほうが周りとしても実は助かる。暴れられたらかなわないからであり、檻に入っているのとよく似ている。馬が乗用に用いられていて、馬の鞍を自作しているという風刺から「鞍作」と綽名がついたのであろう。馬の鞍に御(おはしま)すとは、オ(御)+ハシ(橋)+マス(居)こと、その橋とは、両側に欄干のついた反橋、太鼓橋のことで、鞍の形に相当する。
模造鞍橋(原品:静岡県周智郡森町院内古墳出土、古墳時代、6世紀、東博展示品)
オバシマのついた反橋(年中行事絵巻、土佐光長絵、谷文晁写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591099/39)
 乗り馬の上にかけたオバシマのついた反橋を、鞍橋と書いている。落っこちないようにめぐらせている。大極殿で、斬りつけられた入鹿は、オバシマにしがみついて直訴している。「入鹿、御座(みもと)に転(まろ)び就きて、叩頭(の)みて曰さく、「当に嗣位(ひつぎのくらゐ)に居(ましま)すべきは、天子(あめのこ)なり。臣(やつこ)罪を知らず。乞ふ、垂審察(あきらめたま)へ」とまをす。」とある。天皇は大極殿内にいる。帳台の中なのであろう。古人大兄も大極殿の基壇上にいる。朝廷で儀式をするために、倉山田麻呂は下の庭から表文を読み上げ、入鹿も同じく庭にいた(注12)

八、鞍と足駄

 鞍作の鞍作りたる所以は、第一に、前輪・後輪と居木との組み合わせ方に負っている。正倉院に残る鞍橋については、西川2019.に、「居木はいずれも四枚で、前輪および後輪の下面に設けられた切りこみに塡め込み、革紐で絡げて結着する。」(296頁、ルビは省略した。)と解説されている。組み立てるのに革紐を使っている。
萩螺鈿鞍(平安時代、12世紀、東博展示品、現況では麻紐か?)
 一方、記紀において、「呉床」、「大御呉床」、「胡床」といったアグラと呼ばれる倚座具がある。天皇や皇子など、身分の高い人が使ったようで、埴輪や出土木器からは、使用姿勢として、座面上に趺座(あぐら)をかく形態と腰掛けるものとがあった。簡単な造りの腰掛をみても、台座にあけた枘穴に脚をはめ込むようにして作られている。組み物としてうまく納まれば良いが、接着剤があるのなら補強的な目的で用いられたに違いない。連結の主目的に、釘や螺子は用いられず、また、革であれ繊維であれ紐をもって結いつけるものでもなかった。
儀式イメージ(旧儀式図画帳第41巻、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0038348)
高御座内の倚子(ウィキペディア・コモンズ、首相官邸HP、https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Imperial_throne.jpg)
 儀式において、座具としてのアグラに坐すのは、その場の最高位の人物だけであり、それ以外はムシロやシキヰ(「席」、「座」)に坐していた。天皇がいるのなら天皇はアグラに、他は大臣であろうがムシロやシキヰに座す。乙巳の変の三韓の調の儀式においても、蘇我入鹿は「入侍于座」している。庭に莚を敷いて、その上に座している。この立場の違いは忠実に守られなければならない。その象徴として、蘇我入鹿の屍には、「席障子(むしろしとみ)」をかけて覆ったのである。座具に差をつける傾向は、延喜式には入念に定められている(注13)
 ここで注目されるべきなのは、膠という糊を使ったところに就くのが天皇や皇族、天つ日嗣の尊位を示すものであるということである。なぜ、そのように解されて然るべきなのか。それは、ヒツギ(日嗣(日継)、ヒ・ギは甲類)というからには、次の日の朝が来ることが絶対条件だからである。アシタ(朝)が来なくてはならない。それは、足駄(あした)に同じ音であるから、足駄の製作法と同じように作られているはずである。
差歯下駄(ふくやま草戸千軒ミュージアムhttps://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/rekishih/24w00900.html)
足駄作り(職人尽歌合(七十一番職人歌合)模本、狩野晴川・狩野勝川模、東京国立博物館研究情報アーカーブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0017469をトリミング)(注14)
高下駄(足駄)を履いた様子(伴大納言絵詞模本、冷泉為恭模、東京国立博物館研究情報アーカーブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0047004をトリミング)
 和名抄に、「屐 兼名苑に云はく、屐〈音は奇逆反、阿師太(あした)〉は一名に足下といふ。」とある。古くから一木を刳り抜くに限らず、枘(ほぞ)を穿ってはめ込んで全体を構成したものが存在していた(注15)。その際、部材が揺るがないことを考えるなら、糊付けが行なわれたと推測される。近代に化学剤が現われるまでの木工用ボンドとしては、膠(にかは)が重宝されていた。すなわち、足駄は、膠を使って接いでいる。膠は、飴のような色合いにしてどろっとしている素材である。アメミマ(天孫)は皇統を接いでいく、飴のような膠的存在であると言える(注16)。和名抄に、「飴 説文に云はく、飴〈音は始、阿女(あめ)〉は米糵(よねのもやし)にて之れを為るといふ。」とある(注17)。色的には、黄牛(あめうじ)のような黄褐色をしている。日嗣は膠によって保たれている。だから足駄があり、朝がある。そして、足駄を使用する際は、製作時の、歯を上にした状態からひっくり返して台の上に乗る。座具の製作法、使用法と同じことである。
腰掛(17705:平城京下層、17807:平城宮下層、17808:大阪府瓜生堂、17809:奈良県十六面・薬王寺出土、『木器集成図録 近畿原始篇』奈良文化財研究所、1993年、PL.177~178をトリミング)
腰掛(登呂遺跡、静岡市立登呂博物館HPhttps://www.shizuoka-toromuseum.jp/toro-site/people/episode03/)
 それに対して、蘇我入鹿が名に負っているのは、鞍作である。馬の上に座にする仕掛けが鞍であり、それを作る細工職人が鞍作りである。その鞍橋の作り方は、前輪と居木と後輪とを接ぐのに、革の紐を結うことでとめている。アシタ(朝・足駄)とユフ(夕・結)は正反対であるし、ニカハ(膠)とカハ(革)は似て非なるものである。馬上で揺れることの激しい鞍の接着を、膠によって確かならしめることなど不可能である。すぐにバラバラに壊れてしまう。しかも、足駄は前後の歯を下にして使うのとは反対に、前輪・後輪を上にしたままその間に乗って使う。それが鞍作の鞍作りたる第二の所以である。姿態として本末転倒している。だから、「鞍作、天宗(きみたち)を尽し滅して、日位(ひつぎのくらゐ)を傾けむとす。豈天孫(あめみま)を以て鞍作に代へむや」という中大兄の発言は、言語学的に、なぞなぞの語用論(pragmatics in riddling)上、理に適っているのである。「将傾日位」とは、鞍の造りが足駄の造りを転倒しているから、ということであり、状況から言葉を逆定義していることにもなっているのである。翻って蘇我入鹿(鞍作)の主張を見返してみると理解がゆく。「当(まさ)に嗣位(ひつぎのくらゐ)に居(ましま)すべきは天の子(みこ)なり。臣(やつこ)罪を知らず。乞ふ、垂審察(あきらめたま)へ」という言葉は、足駄の上に居すべきなのは朝を迎えるのにふさわしい天の子であるべきで、私めは鞍作りであって関係がございません、よくよくご検討くださいませ、と捉え返すことができるとわかる。入鹿(鞍作)がそのような意図をもって発した言葉ではなくて、中大兄が言葉尻を捕まえたとき、天皇はなるほどそのようであると受け取られると悟り、構図が一変して、世界は反転して見えたのであった。足駄と鞍の関係の反転状態が対話の中に絡みこまれている。入鹿が天皇に訴えたときの状態は、「傷其一脚。入鹿、転就御座、叩頭曰」であった。脚を斬られて転んでいる。足駄の足がなければ転ぶことが見て取れるのである。足が取れるとは、接着剤が効かなくなることである。糊が溶けて流れている。脚から血糊が溶けて流れている。「将傾日位」とはどういうことか、天皇は翳を外させて目の当たりにできたのである。このように、無文字時代のヤマトコトバは、舞台芸術上のロゴスそのものであった。
ルビンの壺(ウィキペディア・コモンズhttps://commons.wikimedia.org/wiki/File:Rubin2.jpg)
(つづく)

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