古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

「なのりそも」起源譚について

2022年05月10日 | 古事記・日本書紀・万葉集
はじめに

 允恭紀に海藻のホンダワラの古語、ナノリソモについての起源説話が載っている。話は允恭天皇が衣通郎姫(そとほしのいらつめ)の暮らす河内の茅渟宮へ通った時、彼女が歌った歌が皇后を恨ませることにから他人に聞かれないようにという件の末で述べられている。皇后の「恨」みは、出産時に衣通郎姫のところへ行こうとしていた時、また、紀65~67番歌謡を聞いた時に起こっている。経験上、天皇は紀68番歌を皇后が聞いたら恨むだろうと思って口止めしている。衣通郎姫と天皇の歌によって皇后が恨んだところ以降を以下に掲げる。

 八年の春二月に、藤原に幸す。密に衣通郎姫の消息あるかたちたまふ。是夕こよひ、衣通郎姫、天皇をしのひたてまつりて独り居り。其の天皇のいでませることを知らずして、うたよみして曰く、
 我が背子せこが べきよひなり ささがねの 蜘蛛のおこなひ 今夕こよひしるしも(紀65)
といふ。天皇、是の歌をきこしめして、則ち感情めでたまふみこころ おはします。而して歌して日はく、
 ささらがた 錦の紐を 解きけて 数多あまたは寝ずに ただ一夜ひとよのみ(紀66)
とのたまふ。明旦くるつあしたに、天皇、井のほとりの桜のはなみそこなはして、歌して曰はく、
 花ぐはし 桜の こと芽出ば 早くは愛でず 我が愛づる子ら(紀67)
とのたまふ。皇后きさきのみや、聞しめして、また大きに恨みたまふ。是に、衣通郎姫、まをしてまをさく、「やつこ、常に王宮おほみやちかつきて、昼夜相ぎて、陛下きみ威儀みよそほひむと欲ふ。然れども皇后は、妾がいろねなり。妾に因りてつねに陛下を恨みたまふ。亦妾が為にくるしびたまふ。是を以て、ねがはくは、王宮を離れて、遠くはべらむと欲ふ。若し皇后のねたみたまふみこころ少しくまむか」とまをす。天皇、則ちたちどころ宮室みや河内かふち茅渟ちぬ興造てて、衣通郎姫を居らしめたまふ。此に因りて、しばしば日根野ひねの遊猟かりしたまふ。
 九年の春二月に、茅渟宮に幸す。秋八月に、茅渟に幸す。冬十月に、茅渟に幸す。
 十年の春正月に、茅渟に幸す。是に、皇后、奏して言したまはく、「妾、毫毛けのすゑばかりも、弟姫を嫉むに非ず。然れども恐るらくは、陛下すめらみこと、屢茅渟に幸すこと、是、百姓おほみたからくるしびならむか。仰願ねがはくは、車駕いでましの数をめたまへ」とまをしたまふ。是の後に、希有まれに幸す。
 十一年の春三月の癸卯の朔丙午に、渟宮ぬのみやいでます。衣通郎姫、うたよみしてはく、
  とこしへに 君も逢へやも いさな取り 海のはまの 寄る時時ときときを(紀68)
 時に天皇、衣通郎姫にかたりてのたまはく、「是の歌、あだしひとになかせそ。皇后、聞きたまはば必ず大きに恨みたまはむ」とのたまふ。かれ、時の人、浜藻をなづけて「奈能利曽毛なのりそも」とへり。(允恭紀十一年三月)

「いさな取り 海の浜藻の 寄る時時を」

 とこしへに 君も逢へやも いさな取り 海のはまの 寄る時時ときときを(紀68)
 等虚辞陪邇 枳彌母阿閉椰毛 異舎儺等利 宇彌能波摩毛能 余留等枳等枳弘
 すっかり安心して、いつも変わらずに、あなたにお逢いできるものではございません。海の浜藻の、浪のまにまに岸辺に近よりただようように稀にしか、お逢いいたしておりません。(大系本327頁)
 いつもあなたはってくださるわけではありません。〈いさなとり〉海の浜藻はまもがたまたま岸に寄って来るように、まれであっても、せめてその時だけでも逢っていただきたいものです(新編全集本121頁)
 常始終、君は(私に)お逢ひになるのでもない。あの海の浜藻の時々寄つて来るやうに、唯時々しか御逢ひにならないのであるものを(橋本1952.181頁、漢字の旧字体は改めた)
 【こうして】いつまでも天皇は【私に】会ってなどいられましょうか。【ですから、せめて】(いさな取り)海の浜藻が【よく岸に流れ】寄るように、【ここへも】たびたびお尋ねを。(佐佐木2010.81頁)

 大系本に、「何時と定めぬ不安を訴えた表現。」(327頁)、新編全集本に、「せめてそのたまの時だけでも逢ってください、という内容。トコシヘニとトキトキとの時間的対照、イサナ(鯨)とハマモ(浜藻)との大小の対比による技法。」(121頁)と解説されている。「時々」については、日葡辞書に、「Toqidoqi.トキドキ(時々) 副詞.時々,あるいは,折々.」(662頁)、「Toqi toqi.トキトキ(時々) それぞれの時.¶ また,何か物事をするのに定まっている時刻,または,時期.」(663頁)の2解が載る。時代別国語大辞典は、「それを遡らせるならば、……[紀68の]「等枳等枳」もときたまの意ではなく、月に一度とか、日を決めて逢うことを願ったものと解した方がよいかもしれない。」(489頁)としている(注1)
 吉野2005.は、「「海の浜藻が時たま寄るように、ほんの時たま」といった意味では、この歌に続けて本文に[述べられる]……皇后の嫉妬を起こさせるとは思われない。しかし、「月に一度とか、日を決めて逢うことを願ったもの」とも思われない。」、「『日葡辞書』の「それぞれの時」の意味の方を参考にして、「海の浜藻が寄ってくるその時その時をいう」(新編日本古典文学全集)と理解したい。すなわち、一首は、
いつもあなたは逢ってくださるわけではありません。(したがって)海の浜藻がたまたま寄って来るように、まれに寄っていらっしゃったその時その時を…。
といった意味であって、言外に、
 恋ひ恋ひて逢へる時だに愛しき言つくしてよ長くと思はば(4・六六一)
 うたて異に心いぶせし事はかり良くせ吾が背子逢へる時だに(2・二九四九)
などのような、「久しぶりに逢えた時には優しいお言葉などぞんぶんに聞かせてください」といったような意味が込められているものとみたい。そうであれば皇后の嫉妬を恐れた天皇の言葉が納得いく。」(193~194頁)としている。
 允恭紀歌謡においてはすでに、紀66歌謡の、「数多は寝ずに 唯一夜のみ」という似通った言い回しがあった。日常的な皇后との夜のお勤めは退屈な労働に化しており、一晩限りの衣通郎姫との逢瀬のような楽しい活動ではなかったと理解される。「時々」の義は、日葡辞書の説明を受けてもいずれ常時ではないことに変わりがない(注2)。皇后との「数多」の営みは生物学的に子孫をもうける必要からある意味やむを得ないものであったが、衣通郎姫との「一夜」は夢のような世界で喜びの渦中にあったと考える。この対照関係が紀68番歌謡にどのように反映しているかについては後述する。滅多に逢えるわけではないからこその楽しさというものである。高揚感を生む源は、実は限られた逢瀬にこそあったのである。そのとき人は、旅にあるかのように浮ついている。「旅(たび)」と「度・遍(たび)」はともにビは甲類で、同根の語であるとも考えられている(注3)。それが「度」重ねて間がなくなり常時ということになると、マンネリ化をもたらし、特別なものであった「旅」の光彩は失われる。「旅」には賞味期限がある。
 そのことはすでに地の文に説明されている。固有名詞に「茅渟宮(ちぬのみや)」とある。チヌは黒鯛のことである。タヒ(鯛、ヒは甲類)とタビ(旅・度)との洒落から、地名が設定されている。節会に口にできる高級魚で、たまにしか食べられないからおいしさが際立つのである。口承文芸ならではのわかりやすさである。

 とこしへに 君も逢へやも いさな取り 海のはまの 寄る時時ときときを(紀68)
 「とこしへに 君も逢へやも」(いさなとり)海の浜藻が寄って来るその時その時のようにお会いいたして、その時その時を大切にいたしましょう。

 塩が満ち引きするように時々に逢うから逢瀬という。非日常の逢瀬の高揚感と所帯じみた日常の気持ちの沈滞感は対照的である。それを端から決めてかかっている言明は、皇后が耳にすれば気に入らないであろう。そこで天皇は、「是歌不他人。皇后聞必大恨。」と諭している。皇后に伝われば、またぞろ皇后は「大恨」するだろうからと言っている。天皇は、皇后に「恨」の心を抱かせる理由を悟っており、それは衣通郎姫の考えるような「嫉」ではないと理解しているのである。
 では、上句はどのように考えればいいのであろうか。「とこしへに 君も逢へやも」については次の二点で検討が必要である。「とこしへに」の意味と、「已然形+やも」の構文の文法的理解である。

「とこしへに」

 初句の「とこしへに」については万葉集に2例見られ、紀68番歌謡の解釈の際に必ずと言っていいほど引かれている。

 とこしへに〔常之倍尓〕 夏冬行けや かはごろも 扇放たぬ 山に住む人(万1682)(注4)
 ……  朝夕に 笑みみ笑まずも うち嘆き 語りけまくは とこしへに〔等己之部尓〕 かくしもあらめや 天地あめつちの 神言寄せて ……(万4106)

 用例が少ないため不詳のところが多い。ずっと、いつまでも、永遠に、しばらくの間、など何とでも解されるとも考えられている。そうしないと紀68番歌謡の理解にかなわないところが生じるからである。しかし、これまでの理解で皇后が聞いて恨むに値する歌意は見出されていない。「とこしへに」には次のような例も見られる。

 古沙の山に登りて共に磐石の上に居り。時に百済の王盟()ひて曰()さく、「若し草を敷きて坐(き ゐし)とせば、恐るらくは火に焼かれむことを。また木を取りて坐とせば、恐るらくは水の為に流されむことを。故、磐石(しへとこ)に居て盟ふことは、長遠(しへとこ)にして朽つまじといふことを示す。是を以て、今より以後、千秋万歳に絶ゆること無く窮まること無けむ。」(神功紀摂政四十九年三月、岩波古語辞典909頁)

 この訓は古訓によるものではなく、大野晋氏によるものと思われる。百済王が恭順を示すに当たり、「磐石とこしへ」に盟うから「長遠とこしへ」に破られないのだという主張は、論理の組み立てとしてもっともなことである。偉大な先学の慧眼に従いたい。
 紀68番歌謡の「とこしへに」も、この「磐石とこしへ」のニュアンスを含むものと考えられる。姉妹の間柄で姉を磐に擬すことは言い伝えのなかに伝えられている。イハナガヒメとコノハナノサクヤビメの話である。

 時に皇孫すめみま、因りて宮殿みやを立てて、是に遊息やすみます。後に海浜うみへた遊幸いでまして、ひとり美人をみなみそなはす。皇孫問ひてのたまはく、「いましこれむすめぞ」とのたまふ。こたへてまをさく、「やつこは是大山祇神おほやまつみのかみの子、名は神吾田鹿葦津姫かむあたかしつひめ、亦の名は木花開耶姫このはなのさくやびめ」とまをす。因りてまをさく、「亦やつこいろね磐長姫いはながひめはべり」とまをす。皇孫の曰はく、「われいましを以て妻とせむとおもふ、如之何いかに」とのたまふ。対へて曰さく、「妾がかぞ大山祇神在り。ねがはくは垂問ひたまへ」とまをす。皇孫、因りて大山祇神にかたりて曰はく、「吾、汝が女子むすめを見す。以て妻とせむと欲ふ」とのたまふ。是に、大山祇神、乃ちふたりむすめをして、百机飲食ももとりのつくゑものを持たしめて奉進たてまつる。時に皇孫、あねみにくしとおもほして、さずしてけたまふ。おとと有国色かほよしとして、してみとあたはしつ。則ち一夜に有身はらみぬ。かれ、磐長姫、おほきにぢてとごひて曰く、「仮使たとひ天孫あめみま、妾をしりぞけたまはずして御さましかば、めらむみこ寿みいのち永くして、磐石ときはかちは有如<rtあまひ>常存とばにまたからまし。今既に然らずして、ただいろどをのみ見御せり。故、其の生むらむ児は、必ず木の花のあまひに、移落ちりおちなむ」といふ。一に云はく、磐長姫恥ぢ恨みて、つはいさちて曰く、「顕見蒼生うつしきあをひとくさは、木の花の如に、しばらく遷転うつろひて衰去おとろへなむ」といふ。これ世人ひと短折いのちもろことのもとなりといふ。(神代紀第九段一書第二)

 つまり、允恭天皇代にあって、皇后はイハナガヒメに当たり、衣通郎姫はコノハナノサクヤビメに当たっている。この対応関係が見据えられているから、紀65番歌謡の「蜘蛛」や紀66番歌謡の「一夜」、紀67番歌謡であだ花の「桜」がキーワードとして使われている。そして反対に、神代紀の訓み方も定められる。「海浜」はさすらう感じのするウミヘタ(注5)よりもウミノハマと訓むのが紀68番歌謡の「海のはま」にかよっていて適切である。「磐石ときはかちは有如あまひ常存とばにまたからまし。(有‐如磐石之常存)」の「有如」字は古事記にしたがってアマヒと訓むことでよいが、「磐石」、「常存」はともにトコシヘで、「磐石とこしへ有如あまひ常存とこしへならまし。」と訓むのが簡にして要を得ている(注6)
 すなわち、「とこしへに 君も逢へやも」について、これまで「君」=天皇が「逢ふ」相手は衣通郎姫のことと考えていたことは誤りで、「磐石とこしへ」なる皇后に「長遠とこしへ」に「逢ふ」のか、そんなことはない、と言っているのである。「君も逢へやも」の「君も」の「も」は、承ける語を不確実なものとして提示する助詞である。あなたさまともあろうお方がまさか、といったニュアンスを示している。

「君も逢へやも」

 「已然形+やも」の構文については佐佐木隆氏の論考により明瞭となっている。まとめを示す。

Ⅰ[已然形+や][已然形+やも]が文末に位置し、そこでひとまず終止した文が明瞭な反語になるもの。
Ⅱ[已然形+や][已然形+やも]が文中に位置し、それ以下に、表現主体にとって信じがたい事態や現象が現実・事実として描写されるもの。
Ⅲ[已然形+や][已然形+やも]が文中に位置し、それ以下に、表現主体にとって不本意な事態や意外な事態が詠嘆・推量のかたちで提示されるもの。
 三種の構文に含まれる[已然形+や][已然形+やも]という結合は、社会常識に反する事態や表現主体にとって意外な事態などを、「…するはずはない。/…であるはずはない。」(Ⅰ)、「…するはずはないのに…/…であるはずはないのに…」(ⅡⅢ)というように、反語によって否定的に提示するのを原則とする。したがって、結果的にそこに強い意外性や驚きのニュアンスがこもることになる……。(佐佐木2016.211頁)

 紀68番歌謡はⅠの形をとっている。佐佐木2003.は、Ⅰの形を示す27例のうち、9例が下に別の文がつづくものとしている。そして、それらの特徴を見てとって文の性質を捉えている。

 とこしへに 君も逢へやも いさな取り 海のはまの 寄る時時ときときを(紀68)
 君が代も 我が代も知れや 岩代の 岡の草根を いざ結びてな(万10)
 …… そこ故に せむすべ知れや 音のみも 名のみも絶えず 天地あめつちの いや遠長く しのひ行かむ ……(万196)
 …… 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや 天のごと 振り放け見つつ 玉たすき 懸けて偲はむ かしこくありとも(万199)
 うつたへに まがきの姿 見まくり 行かむと言へや 君を見にこそ(万778)
 あぶり干す 人もあれやも 濡れ衣を 家にはらな 旅のしるしに(万1688)
 …… 大夫ますらをの 争ふ見れば 生けりとも 逢ふべくあれや ししくしろ 黄泉よみに待たむと ……(万1809)
 …… おほろかに こころ尽して 思ふらむ その子なれやも 大夫や 空しくあるべき ……(万4164)
 ……男のみ父の名負ひて女はいはれぬ物にあれや、立ちならび仕へ奉るしことわりなりとなもおもほす。(詔13)

 「……共通する特徴……[の]第一点は、[動詞已然形+や/やも]の後に来るその別の文は、意志・願望・義務などの、これから実現されるべき事態をあらわすものだということである。第二点は、第一点と連動することであるが、その別の文はどのようなニュアンスで直前の反語表現をうけてもよいというのではなく、「…だろうか、そうではない。だから・・・…」という順接的な関係で直前の表現をうけるということである。……その動詞は動作や作用ではなく状態をあらわすものである。しかも、その状態は恒常的な状態や現在の状態であり、その状態を反語表現をもちいて否定的に提示したうえで、これから実現されるべきことを意志・願望・義務のかたちで「だから…」というニュアンスでのべるというのが、この種の反語終止文の原則だったようである【……第三の特徴である】。しかも、この種の文は、……一般的な社会常識に反することがらを提示してそれを「…する道理がない/…というものではない」と反語で否定するというような用法であったらしい【……第四の特徴である】。」(佐佐木2003.393・405頁)
 佐佐木氏は、第三の特徴にひきずられる形で、この箇所の「逢ふ」を「逢ふ」という行為やそのくり返しではなく、「逢って、一緒にいる」という状態、時間的な幅をもつものと想定している(406頁)。同じく「逢ふ」を用いている万1809番歌の「逢ふべくあれや」の例では、結婚する、夫婦関係を結ぶ、の意である。すると、紀68番歌謡の「とこしへに 君も逢へやも」は、「磐石とこしへ」なる皇后に「長遠とこしへ」に、天皇さまともあろうお方がまさか結婚しつづけていらっしゃるのだろうか、そんなはずはない、と言っているものと定められる。離婚を迫っているのではなく、からかっているものと思われる。

 とこしへに 君も逢へやも いさな取り 海のはまの 寄る時時ときときを(紀68)
 まるでイハナガヒメのように磐石とこしへ的な容貌の皇后に長遠とこしへに、天皇さまともあろうお方がまさか結婚しつづけていらっしゃるのでしょうか、そんなはずはありますまい、(いさな取り)海の浜藻がよく岸に流れ寄るように、ここへたびたびお尋ねください。

 このように解釈することによって、紀68番歌謡が皇后の耳に入れば恨むことになるであろうと天皇が見てとっていた理由ははじめて確かめられる。

「なのりそも」譚

 允恭紀における天皇と皇后と衣通郎姫の、歌謡を伴う逸話はこれをもってほぼ決着している。そして、「故、時人号浜藻奈能利曽毛也。」という謂れとする譚に収斂している。「奈能利曽毛(なのりそも)」とは「勿(な)告(の)りそ藻(も)」の意とされている。ホンダワラのことで、「莫告藻(なのりそ)」(万946・1167)、「莫告(なのりそ)」(万509)などと書かれ、「莫鳴菜 本朝式に莫鳴菜〈奈々利曽(ななりそ)〉と云ふ。楊氏漢語抄に神馬藻〈奈能利曽(なのりそ)、今案ふるに本文は未だ詳(つばひら)かならず。但し神馬は莫(な)騎(の)りその義なり〉と云ふ。」(和名抄)とも記されている。説話の終結を地名や諺などの名称譚として終えるスタイルに収めていて、文章構成力が高いと評価されよう。この話はこれをもって終わりである。
左:ホンダワラ類(Sargassum、https://en.wikipedia.org/wiki/Sargassum)、右:名づけのイメージ
 この「なのりそも」という呼び名の提示法については、佐佐木2003.が突っ込んだ議論をしている。

 これ[允恭紀十一年三月条]は、「(人に)告げてはいけない」という意味の禁止表現である「勿告なのりそ」が「はま」の呼び名になった、という説明である。「なのりそも」の末尾の「も」が「浜藻」の「藻」と同じ語であることは、改めて言うまでもない。
 右の記事の内容について、いささか気になることがある。それは、「なのりそも」という呼び名が、允恭天皇が衣通郎姫に「あだしひとになかせそ」と言ったことに由来するのであれば、それは「なのりそも」ではなく「なきかせそも」という呼び名になるのが自然ではないか、ということである。このように言うと、些末なことを問題にすると思われるかも知れないが、実はそうではない。「な聆かせそ」はほかならぬ天皇の発言であり、それかそのまま「海の浜藻」の呼び名になったのだと語る方が、起源伝承としてずっと重みを持つはずである。天皇の「な聆かせそ」という表現を、これとほぼ同意の「勿告りそ」に言い換え、その「なのりそ」の方に説明を加えることは、それを受けとめる側にちぐはぐな話だという印象を与えるだけでなく、起源伝承としての価値をひどく減じることでしかないのである。
 実際の呼び名と右の記事との間に見られるこのずれは、既に存在していた「なのりそ」という呼び名を説明するために、あえて古い伝承に擬して後次的に右のような話を作り上げた、ということを物語る。このように後次的に話を作り上げることは、地名の起源を説明しようとする場合に最も多く採用される、ごく一般的な手法である。(384~385頁、注のルビは省いた)

 この解説はわかるようでわからない。地名の起源を説明しようと後から付け加えているからちぐはぐな感じがするが、そういうことはよく行われたものであるとしている。決めてかかられ、上っ面な解説となっている(注7)
 「不可聆他人」を、書陵部本古訓にあるように「あだしひとになかせそ」と訓んでいる。ナキカセソとナノリソとが似ているからということで話の構成が成り立っていると考えている。しかし、「不可聆他人」とある文章をふつうに訓めば、「あだしひとかすべからず」となる。そういう訓み方は早くから行われている(注8)
 「な……そ」という言い方は、日本書紀では「請ふ、な視ましそ(請勿視之)」(神代紀第五段一書第六)、「此よりな過ぎそ(自此莫過)」(神代紀第五段一書第六)などと、「勿」や「莫」字を以て書かれている。「不可」と書いた場合、日本書紀ではベカラズ、ベカラジなどと訓まれる例が非常に多い。それ以外の訓み方の例をあげる。

 ヨカラズ
 「からず、からじ・くもあらず(不可)」(神代紀第十段一書第三・垂仁紀三十二年七月・雄略紀五年二月・雄略紀二十年冬・推古紀八年二月・斉明紀四年十一月)
 アシキコト等
 「不可あしきこと(不可)」(天武紀六年六月是月)
 エ……ズ(ジ)の形
 「え勝つまじ(不可勝)」(景行紀十二年十月)、「え渡らず(不可渡)」(景行紀四十年是歳)、「え勝ちまつるまじきこと(不可勝)」(景行紀四十年是歳・神功前紀仲哀九年十一月)
 ズ
 「くだやぶらず(不可摧毀)」(敏達紀十三年是歳)
 「違ひまつらじ(不可違)」(神代紀第九段本文)
 マジ
 「あさむることまじ(不可得諫)(垂仁紀四年九月)(注9)
 アタラズ
 「不可あたらず(不可)」(顕宗紀二年八月・欽明紀十五年十二月)
 マナ
 「おこたらむこと不可まな(不可緩)」(舒明前紀)
 ナ……ソ
 「ゆめ不可怠なおこたりそ(慎不可怠)」(天武前紀元年六月)

 ナ……ソの形で訓んでいるのは、天武前紀の例の兼右本訓によるものである。「慎」字をもってユメと訓むと、「不可怠」もナ……ソ形で訓みたくなるわけである。似た形は、「慎之莫怠也」(景行紀四十年十月)とあり、「つつしめ、なおこたりそ。」と訓んでいる。「莫」字をもって書かれているのでこの訓みは正解のように感じられる。そこでは「慎」はツツシムという動詞に当てている。日本書紀の「慎」字は、固有名詞の「粛慎みつはせ」にあてる以外、動詞のツツシムを表すのが多いなか、「努力慎歟ゆめゆめ」(神武前紀戊午年九月)(注10)、「慎矣慎矣ゆめゆめ」(皇極紀四年四月)とも訓まれている。語気を強くした物言いから助字を加えて使っているように思われる。ユメは、万葉集では、「勤」(10例)、「謹」(4例)、「忌」(1例)のほか、「由米」(9例)、「湯目」(6例)、「由眼」(1例)の仮名書きがある。
 「不可怠」も「莫怠也」も同じような言い回しを表記したものと思われる。そこで古訓にナオコタリソとある。ここから、允恭紀の「不可聆他人」も、「あだしひとになかせそ」と訓むことが通説化している。とはいえ、「あだしひとかすべからず」、「あだしひとかすこと不可まな」、「あだしひとかすことからず」などと訓んではいけない理由はない。
 そしてまた、佐佐木氏の考えにあるように、起源伝承の価値を高めるために「あだしひとりそ」と天皇に発言させてみると、全体の話構成はちぐはぐなものとなってしまう。衣通郎姫は歌を歌っている。歌は「る」ものではない。女性が名を聞かれてみだりに答えず、OKであるときばかり名告るように、「る」とはきちんと相手に伝えること、聞かせることを目途としている。漏れ聞こえるように聞かれる場合、それをもって「る」とは言わない。「不可聆他人」は、他人に聞かれないように注意しろという意味である。ナキカセソ→ナノリソと意味変換してナノリソモという名の海藻の起源話にしているとする見方は誤りだと理解されよう。
 紀68番歌謡を皇后に聞かれて恨まれるであろう理由は、皇后の容貌について、イハナガヒメにように醜いと、婉曲的にではあるが伝承を典故として重々しく陳述している点である。こういった歌を歌っている衣通郎姫に対して発言を戒めるには、「なかせそ」よりも、「かすべからず」、「かすことからず」のほうが適格ではある。天皇は衣通郎姫と人格的に同列にあったのではなく、少し引いて言っている。皇后が問題にして「恨」むこととなったのは、皇后の出産時に衣通郎姫のところへ行こうとしていたため、また、紀67番歌謡で自分と衣通郎姫の関係をイハナガヒメとコノハナノサクヤビメになぞらえたことを聞いたためであった。天皇が茅渟宮の衣通郎姫のところへ何度も行ったことについては、「妾、如毫毛、非弟姫。然恐陛下屢幸於茅渟。是百姓之苦歟。仰願宜除車駕之数也。」と言って諫めているばかりである。美貌な衣通郎姫のことを「嫉」んでいても仕方がないと割り切れているが、伝承のイハナガヒメとコノハナノサクヤビメになぞらえてからかわれては、「磐長姫恥恨」(神代紀第九段一書第二)同様に「恨」み骨髄になるというのである。容姿に関して当事者の美人が悪口を言っていつまでもさげすむのを聞かされては興ざめするところがある。この名称譚で話が終わることは、二人の関係も終わることを暗示しているのであろう。
 したがって、浜藻のことを「なのりそも」と呼んだ理由は、「りそ」ではなく、「りそ」の意であるとわかる。絶世の美人だから他に似ていないけれど、遠くに留め置かれてお召しもままならない、そんなふうになってはいけないから「りそ」であるし、自分の美貌を誇って姉であり、皇后にもなっている人に対してさげすむようなことを歌にまでして歌って憚らない、そんなふうになってはいけないから「りそ」なのであろう。そういう話に素材として持ち上げられているのが浜藻である。今日、ホンダワラと呼ばれる海藻で、気泡を持ち、岩礁に生えて大きく成長し、また、流れ藻になることもある。ゆでるとしゃきしゃきした歯ごたえで歯切れがよく、美味である。気胞がプチプチするところは大きな海ブドウのようである。吸い物や酢の物、サラダにして食べている。他の海藻とは類を異にした味わいで、「りそ」と称していて間違いない。

おわりに

 本稿では、允恭紀にある衣通郎姫の「とこしへに……」(紀68)歌謡と、それにつづく海藻のホンダワラの古語、ナノリソモの起源説話について考察した。これまでの解説では整合性が得られていなかったが、その誤謬を正すことができた。記紀に所載の説話はヤマトコトバで伝えられている。ヤマトコトバに考えて、ヤマトコトバに理解されるものだから、ヤマトコトバの言葉自体を念入りに検証することでのみ納得がいくものである。記紀に生きた人々は、記紀に伝えられた言い伝えをヤマトコトバの体系として受け入れていた人たちであり、新しい説話はそれ以前から伝えられている言い伝えを基にして組み立てられた。神々の伝承を信じていて典故に活用していたのである。無文字時代のヤマトコトバ“語族”の人たちは、その一つの閉じた系のなかでトートロジカルに思考をくり広げ、くり返していたのであった。

(注)
(注1)契沖・厚顔抄に、「帰時々ヲナリ浜藻ノイツトナク来依ルコトク常ニ我方ニ依リ来テ逢タマヘトナリ」(国文学資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200001746/viewer/118)とあって、そのような捉え方も行われていた。内藤1997.は、「稀有の行幸に対する嘆き、激しい嫉妬で自分を天皇から遠ざけようとする皇后への思い、そうした様々な郎姫の想念が歌謡に集約されていると考えねばならない。」(2頁)、「海の浜藻が寄るように天皇の心が郎姫の方に寄ろうとしているに違いないという確信と、皇后の嫉妬により稀有に逢うことしか出来ぬ現実、そうした狭間の中で、ひたすら天皇のお出ましを持[ママ]つ郎姫の嘆きが見事に歌に込められているのである。」(8頁)としている。
 橘守部・稜威言別に、「一首の意は、行末長く見すて給はず、君もあひ給へかし。此茅渟チヌの海に西ふきて、稀に浜藻のより来る如く、あまりにシゲからずただをりふしごとに、となり。」、「 抑衣通姫の、然か詔ひしは、自身ワガミオトとして、姉皇后の御念ミオモヒを痛めては、姉妹の間にして、あるまじき事とおもほして、和泉国まで遠ぞき給ひたるに、猶あまりシバシバ給ふが、うたてさに、如此カクしげしげは、問せたまはすな、海の浜藻の、たまさかに依来る如くに、只時々に訪来給ひて、皇后の御恨を休め、長くトコしくに、相変らず逢給へと、詔るにて、今俗言に、ほそく長く、逢給へと云ほどの、意にこそあれ。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1069688/166、漢字の旧字体は改めた)とあって、常に逢うのか時々逢うのかという撞着を巧みに解消したともみられた。ただし、それでは、この歌が皇后の耳に入っても「恨」ことにはつながらない。
 佐佐木2010.は、「海の浜藻が寄って来るように、たびたび(のお出ましを)。……ここは、(海の藻が常に浜辺に流れ寄るように)たびたびお尋ね下さい、の意に解すべきもの。文末に位置する「已然形+やも」のあとには、これから実現すべきことを提示するのが原則。……「時時」は、「ときどき」という連濁形ではなく、「ときとき」という不連濁形。その時その時に・事に触れてなどの意。」(81頁)とする。
(注2)常時のときは「時なく」という。
(注3)時代別国語大辞典に、「【考】度(タビ)は旅(タビ)の意より転じたものではなかったかという。南フランスで voyage がタビの意に用いられ、旅を意味するドイツ語 Reise も低地ドイツ語ではタビに用いられるということは、その推定の傍証となるだろう。」(437頁)とある。
(注4)万1682番歌は、通説では仙人が描かれている絵を見ての歌とされているが誤りである。コウモリのことを詠んだ歌である。拙稿「万1682番歌の「仙人」=コウモリ説」参照。
(注5)神代紀第十段にヒコホホデミノミコトが「行きつつ海畔うみへたさすらひたまふ。」(本文)、「行きつつ海浜うみへたに至りて、彷徨たたず嗟嘆なげきます。」(一書第一)、「海浜うみへたに往きて、うなだめぐりて愁へさまよふ。」(一書第三)、「愁へ吟ひて海浜うみへたす。」(一書第四)とある。
(注6)拙稿「コノハナノサクヤビメについて」にアマヒという語について検討を加えた。今回の“発見”によって前後の訓み方にも配慮が必要であると知った。後日を期す。
 なお、記には、「是に、天津日高日子番能邇々芸能命あまつひこひこほのににぎのみこと笠紗かささ御前みさきに、うるはしき美人をとめひたまひき。爾くして問ひたまはく、「誰がむすめぞ」ととひたまふに、答へてまをさく、大山津見神おほやまつみのかみの女、名は神阿多都比売かむあたつひめ、亦の名は、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめと謂ふ」とまをす。又、問ひたまはく、「なむじ兄弟はらから有りや」ととひたまふに、答へて白さく、「我が石長比売いはながひめ在り」とまをす。爾くして、りたまはく、「あれ、汝と目合はむと欲ふ。奈何いかに」とのりたまふに、答へて白さく、「やつかれは白すこと得ず。僕が父、大山津見神、白さむ」とまをす。故、其の父大山津見神に乞ひつかはす時に、大きに歓喜よろこびて、其の姉石長比売を副へ、百取ももとり机代つくゑしろの物を持たしめて奉り出づ。故、爾くして、其の姉はいと凶醜みにくきに因りて、見かしこみて返し送り、ただに其のおと木花之佐久夜毘売のみ留めて、一宿ひとよあひ<rubyを>為したまふ。爾くして、大山津見神、石長比売を返したまふに因りて、大きに恥ぢ、白し送りて言はく、「我が女、ふたり並べて立て奉るゆゑは、石長比売を使はば、天つ神の御子の命は、雨り風吹くとも、恒にいはの如く、ときはかちはに動かずいまさむ、亦、木花之佐久夜毘売を使はば、木の花の栄ゆるが如く栄え坐さむとうけひて、貢進たてまつりき。く、石長比売を返さしめて、独り木花之佐久夜毘売のみ留めたまふが故に、天つ神御子の御寿みいのちは、木の花のあまひのみ坐さむ」といふ。故、是を以て今に至るまで、天皇命すめらみことたち御命みいのちは、長くあらぬぞ。」(記上)とあり、「恒如石而常堅不動坐」の字面をトコシヘと書いた結果と見ることはできない。トコシヘという語をもって話を展開したのは、紀(の種本)の作者、ないしは紀の編纂者であると考えられる。
(注7)土橋1976.は、「ナノリソ藻という名の起源を付会的に説明したもの……で、必ずしもこの歌が皇后の恨みを買うような歌だということにはならない。」(219頁)としていた。
(注8)すでに熱田本や兼右本に、「不他人」と返り点がある。
(注9)助動詞のマジは平安時代以降に現れる形で、古形はマシジであったと考えられている。
(注10)兼右本の本文に「努力慎」とあり、ユメツツシメと訓むのが正解とする説(中川2009.356頁)もある。

(引用・参考文献)
相磯1962. 相磯貞三『記紀歌謡全註釈』有精堂出版、昭和37年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典』岩波書店、1974年。
佐佐木2003. 佐佐木隆『上代語構文論』武蔵野書院、平成15年。
佐佐木2010. 佐佐木隆『日本書紀歌謡 簡注』おうふう、平成22年。
佐佐木2016. 佐佐木隆『上代日本語構文史論考』おうふう、2016年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新編全集本 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』小学館、1996年。
大系本 坂本太郎・井上光貞・家永三郎・大野晋校注『日本書紀(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
土橋1976. 土橋寛『古代歌謡全注釈 日本書紀編』角川書店、昭和51年。
内藤1997. 内藤英人「衣通郎姫の歌─紀六八番歌謡の機能について─」『甲南大学紀要 文学編』第103号(一九九六年度)、平成9年。
中川2009. 中川ゆかり『上代散文 その表現の試み』塙書房、2009年。
日葡辞書 土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1995年。
橋本1982. 橋本信吉『上代語の研究』岩波書店、昭和26年。
吉野2005. 吉野政治『古代の基礎的認識語と敬語の研究』和泉書院、2005年。

※本稿は、紀68番歌謡について2021年4月稿の誤りを2022年5月に正し、「なのりそも」の記され方とともにまとめたものである。

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