古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

万葉集7番歌「秋の野の歌」について 其の一

2014年07月08日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻1の7番歌は、額田王の出世作として知られる歌である。
万7番歌古写本(『元暦校本萬葉集 巻一』二玄社、1983年より)
 西本願寺本など古写本には、特に大きな異同はなく、標目、題詞、歌、左注の原文は次のように書かれている。

 明日香川原宮御宇天皇代 天豊財重日足姫天皇
  額田王歌 未詳
 金野乃美草苅葺屋杼礼里之兎道乃宮子能借五百磯所念
  右検山上憶良大夫類聚歌林曰一書戊申年幸比良宮大御歌但紀曰五年春正月己卯朔辛巳天皇至自紀温湯三月戊寅朔天皇幸吉野宮而肆宴焉庚辰日天皇幸近江之平浦

 これを次のように訓み下している。

 明日香川原宮(あすかのかはらのみや)に天下(あめのした)知らしめしし天皇の代 天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)
  額田王の歌 未だ詳らかならず
 秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治のみやこの 仮廬(かりいほ)し念(おも)ほゆ(万9)
 右は山上憶良(やまのうへのおくら)大夫(まへつきみ)の類聚歌林(るいじうかりん)を検(ただ)すに曰く、「一書に、戊申(つちのえさる)の年、比良宮(ひらのみや)に幸(いでま)すときの大御歌(おほみうた)」といふ。但し、紀に曰く、「五年の春正月の己卯(つちのとう)の朔(つきたち)にして辛巳(かのとみ)に、天皇、紀温湯(きのゆ)より至(かへりいた)りたまふ。三月の戊寅(つちのえとら)の朔、天皇、吉野宮に幸(いでま)して肆宴(とよのあかりきこしめ)す。庚辰(かのえたつ)の日に、天皇、近江の平浦(ひらのうら)に幸す」といふ。

 稲岡耕二『上代の日本文学』(放送大学教育振興会、1996年)に、「額田王作歌にとくに作者に関する異伝を多く見るのはなぜか。この七番歌のみではなく、八番歌、一七番歌にも作者の異伝を記すことについて、王の『代作』論議が続けられてきたが、集団を代表し、集団の人々のすべてに通じる思いを歌った歌人として王の性格を考える方向に落ち着いて来たようである。その作品は集団に共有されたのであって、折に触れ人を変えて口吟されることも少なくなかったであろうから、作者に関する異伝を持つことはむしろ当然だったろう。歌が文字化されることのなかった時期のありようとしても自然だったと思われる」とある。この指摘は、必ずしも今日の研究者に共有されるものではなく、いろいろな議論が行われている。それはそれで結構なことであるが、きわめて当を得た考え方であると筆者は賛同する。すなわち、初期万葉の〈雑歌〉は、宮廷社会の共通感覚、共通意識を歌っているのが特徴である。歌の側からいえば共有される歌ということになり、作者の側からいえば宮廷社会の中心人物、天皇の代詠であり、それが代作と捉えられることもあることになる。これが初期万葉歌の〈雑歌〉の大原則である。
 7番歌の場合は帰京後の宴席で感想を尋ねられたとき、額田王が宮廷社会の人々が共有する気持ちをうまく歌った作品であると評されている。五句目の「仮廬し思ほゆ」にあるシという助詞は、学校文法では強意を表す副助詞とされている。 しかし、むしろ不確実性の表明であると考えられている。そのうえ「思ほゆ」と続いていて、自然と思い出されるというのである。このような歌い方は万葉集にしばしば見られる。宮廷の人々が共有する雰囲気を歌っている。この歌は最古の回想の歌であるとも、「み草刈り葺き 宿れりし」と動詞を畳みかけているところから、むしろ思い出している現在のほうに重心が置かれているとも考えられている。いずれにせよ、素朴ながら鮮やかな写象の表現が巧みであるという。ただ、それ以外には、特段に問題になる点はないとされている。
 一見なにごとも問題がないように見えながら、わからないことは多い。それは我々よりずっと前にこの歌を目にした人々も同じであった。それが脚注や左注になって表れている。万葉葉巻1の最初の部分を編集した人は、標目に天皇の宮都の場所を記すことで時代順に並べようとしている。天皇の名前ではなく、宮都の場所を示している。城主を「殿」と呼ぶのと同じような言い方である。歌というものが、歌われた時代よりも歌われた場所に強く影響を受けたからであると取ることもできる。しかし、単に、厳密さと簡潔さを追求した表記であったのではなかろうか。
 7番歌の標目、「明日香川原宮御宇天皇代」については、8番歌に「後岡本宮御宇天皇代」と区別があることから、皇極・斉明と重祚した女帝のうち、後者は斉明天皇代、前者はそれとは別の書き方ゆえに皇極天皇代に当てる向きが多い。それは、次に抜粋した、紀の皇極・斉明天皇(天豊財重日足姫天皇)に関係する宮都関連の記事から見て、誤りであろう。

皇極天皇
 元年(642)
 九月の……[19日]に、天皇、大臣に詔して曰(のたま)はく、「是の月に起して十二月(しはす)より以来(このかた)を限りて、[飛鳥板蓋宮の]宮室(おほみや)を営(つく)らむと欲ふ。国国に殿屋材(とのき)を取らしむべし。然も東(ひむかし)は遠江(とほつあふみ)を限り、西は安芸(あぎ)を限りて、宮造る丁(よほろ)を発(おこ)せ」とのたまふ。
 是の日[12月21日]に、天皇、[舒明天皇の百済宮より]小墾田宮(をはりだのみや)に遷移(うつ)りたまふ。或本(あるふみ)に云はく、東宮(ひつぎのみや)の南の庭(おほば)の権宮(かりみや)に遷りたまふといふ。
 二年(643)
 夏四月……[28日]に、権宮より移りて飛鳥の板蓋(いたふき)の新宮(にひみや)に幸(いでま)す。
孝徳天皇
 大化元年(645)
 冬十二月の……[9日]に、天皇、都を[皇極天皇の飛鳥板蓋宮より]難波長柄豊碕(なにはのながらのとよさき)に遷す。
 白雉四年(653)
 是歳、太子(ひつぎのみこ)、奏請(まを)して曰(まを)さく、「冀はくは倭の京(みやこ)に遷らむ」とまをす。天皇、許したまはず。皇太子、乃ち皇祖母尊(すめみおやのみこと)・間人皇后(はしひとのきさき)を奉り、併せて皇弟(すめいろど)等を率て、往きて倭飛鳥河辺行宮(やまとのあすかのかりみや)に居(ま)します。時に、公卿大夫(まへつきみたち)・百官(つかさつかさ)の人等、皆随ひて遷る。
斉明天皇
 元年(655)
 春正月の……[3日]に、皇祖母尊(すめみおやのみこと)、飛鳥板蓋宮に、即天皇位(あまつひつぎしろしめ)す。
 冬十月の……[13日]に、小墾田に、宮闕(おほみや)を造り起てて、瓦覆(かはらぶき)に擬将(せむ)とす。又深山広谷(ふかきやまひろきたに)にして、宮殿(みや)に造らむと擬(す)る材(き)、朽ち爛れたる者多し。遂に止めて作らず。
 是の冬に、飛鳥板蓋宮に災(ひつ)けり。故、飛鳥川原宮に遷り居(おは)します。
 二年(656)
 是歳、飛鳥の岡本に、更に宮地(みやどころ)を定む。時に、高麗(こま)・百済・新羅、並に使を遣(まだ)して調(みつき)進(たてまつ)る。為に紺(ふかきはなだ)の幕(あげはり)を此の宮地に張りて、饗(あ)へたまふ。遂に宮室(おほみや)を起つ。天皇、乃ち遷りたまふ。号けて後飛鳥岡本宮と曰ふ。

 天皇と都とを対照させると、7番歌の標目に「明日香川原宮」と明記されているのだから、7番歌は、斉明元年の冬、飛鳥板蓋宮が火災に見舞われ、飛鳥川原宮へ遷都した時から、二年是歳に後飛鳥板蓋宮へ遷都するまでの間に歌われたと考えるべきである。左注や脚注を付けた人も、編者の正確性に付いていけなかったらしい。7番歌を皇極天皇代のこととすると、時代が古くなって額田王の推定年齢があまりにも若くなって、とても歌を歌えるはずはないと考えてしまい、「未詳」なる脚注を付けるに及んでいる。勘違いである。
 標目や題詞、歌そのものを書いた人と、それに脚注を付けた人、さらに、左注を付けた人は、それぞれ別の人であると思われる。左注を付けた人は、手持ちの類聚歌林と日本書紀を見ながら、歌がいつ詠まれたものなのかについて疑問を抱き、宇治へ行幸した時の記録を尋ねることをしている。それほど、この7番歌がいつ詠まれたか、当初からはっきりしていなかったらしい。宇治の行宮へ行幸したのがいつなのか、また、そのとき額田王が付き従っていて歌を詠むに堪えたか、手掛かりになる史料がない。だからまごまごと左注が付けられている。
万葉集の最初の編者が記したのは、標目、題詞、歌だけであったろう。そこには、「明日香川原宮」に都が置かれていた時、「額田王」が歌ったということを過不足なく明記している。

 明日香川原宮御宇天皇代
  額田王歌
 金野乃美草苅葺屋杼礼里之兎道乃宮子能借五百磯所念

 これを「秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治のみやこの 仮廬し念ほゆ」と当たり前に訓んでいる。本当にそれで良いのであろうか。疑問点は二点である。原文の「金野」を「秋の野」、「兎道」を「宇治」と訓む点である。よく知られるように、第一の「金」=「秋」とする理由は、五行思想にしたがったもので、それに対照させようという考え方である。平安時代の古写本にすでにそう訓まれている。
 五行 木・火・ 土 ・金・水
 五時 春・夏・土用・秋・冬
 五色 青・赤・ 黄 ・白・黒
 五方 東・南・中央・西・北
 五声 角・徴・ 宮 ・商・羽
 しかし、万葉集の歌謡の用字において、「金」字全56例のうち、「秋」とする例は6例に止まる。

カネ 補助動詞(難・不勝・不得、するにたえない)
 「忍金手武(しのびかねてむ)」(129)、「止曽金鶴」(とめぞかねつる)(178)、「鎮目金津毛(しづめかねつも)」(190)、「有金手(ありかねて)」(383)、「思金津裳(おもひかねつも)」(503)、「在曽金津流(ありぞかねつる)」(613)、「忘金鶴(わすれかねつる)」(617)、「渡金目八(わたりかねめや)」(643)、「忘金都毛(わすれかねつも)」(1123)、「船縁金都(ふねよせかねつ)」(1401)、「宅毛見金手(いへもみかねて)」(1740)、「里毛見金手(さともみかねて)」(1740)、「荒争金手(あらそひかねて)」(2116)、「言者為金津(われはしかねつ)」(2533)、「待八金手六(まちやかねてむ)」(2543)、「待也金手武(まちやかねてむ)」(2548)、「吾稲金津(われいねかねつ)」(2587)、「忍金津毛(しのびかねつも)」(2590)、「忘金津毛(わすれかねつも)」(2622)、「忍金手武(しのびかねてむ)」(2635)、「汝乎念金手(なをおもひかねて)」(2664)、「忘金津藻(わすれかねつも)」(2714)、「念毛金津(おもひもかねつ)」(2802)、「名草目金津(なぐさめかねつ)」(2814)、「寐宿金鶴(いをねかねつる)」(3092)、「待八金手六(まちやかねてむ)」(3103)、「忘金津毛(わすれかねつも)」(3171)、「宿毛寐金手寸(いもねかねてき)」(3269)、「所詈金目八(のらえかねめや)」(3793)
カネ 名詞(鐘)
 「宿与殿金者(ねよとのかねは)」(607)
カネ 地名音
 「金之三埼乎(かねのみさきを)」(1230)、「御金高尓(みかねがたけに)」(3293)
ガネ 助詞(~ように)
 「語継金(かたりつぐがね)」(364)、「立隠金(たちかくるがね)」(529)、「住度金(すみわたるがね)」(1958)、「在渡金(ありわたるがね)」(2179)、「守登知金(もるとしりがね)」(2219)、「可礼受鳴金(かれずなくがね)」(4182)
ガネ 名詞(石根)
 「磐金之(いはがねの)」(301)、「石金之(いはがねの)」(1332)
カナ 名詞(金門)
 「小金門尓(をかなとに)」(723)、「金門尓之(かなとにし)」(1739)
クガネ 名詞(金属)
 「金母玉母(くがねもたまも)」(803)、「金有等(くがねありと)」(4094)、「金花佐久(くがねはなさく)」(4097)
コム 動詞(来)
 「今還金(いまかへりこむ)」(3322)
アキ 名詞(秋)
 「金風(あきかぜに)」(1700)、「金待吾者(あきまつわれは)」(2005)、「金風(あきかぜに)」(2013)、「金待難(あきまちかねて)」(2095)、「金山(あきやまの)」(2239)、「金風之(あきかぜの)」(2301)
ニシ 名詞(西)
 「金厩(にしのうまや)」(3327)

 最後の3327番歌で、「金」を西とする理由も五行思想による。同歌では、「角」を東する五声との対応による表記も行われ、「角厩」でヒムカシノウマヤと訓んでいる。「金」を秋とする例は、7番歌を除くと、万葉集の巻9~10に集中してある。そのうち、1700・2005・2013・2095・2239番歌については、「右は、柿本朝臣人麻呂の謌集に出づ」などと左注にあって、人麻呂の書記によるものである可能性が高い。万葉集全体でみても金の字にはカネ・ガネの音を借りている例がほとんどであるなか、五行説によって金を秋とする記号変換的な発想が、はたして巻1のはじめからあったと考えるのは、きわめて疑問とされざるを得ない。
 佐佐木隆『上代語の構文と表記』(ひつじ書房、1996年)には、額田王の万葉151番歌の「かからむ□ かねて知りせば 大御船 泊てて泊りに 標(しめ)結はましを」の原文表記、「如是有乃豫知勢婆大御船泊之登萬里人標結麻思乎」の「乃」字にまつわって次のようにある。

 『萬葉集』に十二首しかのこされていない額田王の歌には、五行思想にもとづく〈金野(あきのの)〉〔一・七〕の表記や、漢語の翻訳語であるといわれる「けだし」の語をふくむ「盖哉鳴之(けだしやなきし)」〔二・一一二〕の句や、六朝の閨怨詩との関係が指摘されている「簾動之秋風吹/簾令動秋之風吹」〔四・四八八、八・一六〇六〕という表現などがある。また、漢籍に例がおおい春秋あらそいを題材にした長歌〔一・一六〕や、その表記の背景がほとんど解明されていない「莫囂円隣之大相七兄爪湯気」〔一・九〕という歌句もある。漢籍と縁がふかく、『萬葉集』中の才媛と評されるこの作者であれば、指示副詞に由来する助詞「と」あるいは指示副詞としてのニュアンスをまだ保持していた「と」を、漢籍に指示語としての用法がある〈乃〉字によって[151番歌の第一句を]表記したという可能性を想定しうるのである。(359~360頁)

 才媛とは学があること、それは当時でいえば漢籍の知識があることを指すという発想が根強い。しかし、初期万葉の歌には口承性が指摘されている。稲岡、前掲書中の論文、神野志隆光「額田王作歌(3);春秋競憐歌」に、16番歌の対句表現が、「線状的展開とは異なるのであり、重なりがつくるずれのなかから、論理的には不自然さや飛躍をはらむようなかたちで文脈が紡ぎ出されてゆくこともあるのである。これを口承の歌の表現性として見ることができる」と適切な検討が施されている。文字にべったりの漢文学など関係ないのである。じっさい、額田王の112・488番歌に、巻1に載る彼女の歌の精彩はもはや感じられない。ケダシという語がいわゆる訓読語とされる点についても、訓読語の多様性を検討せねばならず、なにより、訓読語を歌謡に使っているからといって漢籍を読んでいたことにはつながらない。今日でも、アルファベットによる綴り方など知らずとも、スマホだのスノボだのと言っている。また、16番歌を漢籍の春秋争いの歌と捉えることは、歌の本質をも見えていないからであるが、その点については、別に論じる。
 万葉仮名は漢字の音を借りたもの、訓で読むものなどいろいろな訓み方をする。なかには戯書や義訓と呼ばれる機智をはたらかせた文字遣いも見られる。ただし、どこまでが正しい読み方で、どこからが戯れの読み方かの線引きは後代の人が考えたものである。巻1・2で使われている不思議な読み方をいくつかあげてみると、「乞(いで)」(8)、「楽浪(ささなみ)」(29・30・32・33・218)、「左右(まで)」(34・180・230)、「乍(つつ)」(54・79・86・120・135・149・155・159・176・177・196・199・223・225・227)、「二手(まで)」(79)、「去来(いざ)」(10・44・63)、「下風(あらし)」(74)、「社(こそ)」(131)、「神楽浪(ささなみ)」(154・206)「三五月(もちづき)」(196)、「進留水母(ながるるみづも)」(197)、「安定座(しづまりし)」(199)、「髣髴(ほのかに)」(210)、「髣髴(おぼに)」(217)、「彼此(をちこち)」(220)、「自伏(ころふす)」(220)、「且今日ゝゝゝ(けふけふと)」(224)、「石水(いしかは)」(224)、「万代(まで)」(224)、「光儀(すがた)」(229)などとある。万葉集では、後ろの方へいくと捻ったものが登場するが、編纂され始めたと考えられる巻1・2では、せいぜいこの程度である。「去来」、「三五月」、「光儀」のようなものは、文選などの漢籍に出典があったり、掛け算ができなければわからないこともあり、一応の知識が要求されている。とはいえ、概して巻1・2で登場する戯書、義訓と呼ばれるものは、おおよそは頓智、なぞなぞである。それに比して、「金」=「秋」はクイズであって、しかも記号変換である。五行学のテストに出題されそうで、知っていれば面白さに妙味がない。巻1に載る額田王の歌を表記した人は、額田王自身ではなかったと推測されるが、百歩譲って仮に彼女自身であるとしても、その場合は488番歌も彼女自身によって表記されたとする蓋然性が高いはずで、するとそこには「秋風」と記されているところから、7番歌でアキノノをわざわざ「金野」と書く理由は見出せない。したがって、万葉集に大多数の「金」の訓み方にあるとおり、第一句目は、カネノノノと訓むのが正解であろう。(つづく)

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