古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

万葉集7番歌、額田王「金野乃……」について 其の二 

2023年07月07日 | 古事記・日本書紀・万葉集
(承前)
 とはいえ、「兎道」は直截にはウヂとしか訓めない。ヤマトコトバでウヂは、氏のことである。豪族の名前を指す。蘇我氏、物部氏、大伴氏、中臣氏などのウヂである。豪族の連合体がヤマト朝廷で、氏氏が合議し、推挙することで天皇は即位していた。そのような合議が行われた場所といえば、言い伝えにいう八重洲の場所、「あめやす河原かはら」「あまの安河辺やすのかはら」であったろう。それぞれの洲にそれぞれの氏の豪族がいて、間には水があるから互いに取っ組み合いの喧嘩はできない。だから穏やかに論議することができた。委員長席に詰め寄ることなどできない作りになっている。

 是を以て、八百やほよろづのかみたちあめやす河原かはら神集かむつどつどひて、高御産巣日神たかみむすひのかみの子、思金神おもひかねのかみに思はしめて、……(記上)
 時に、八十やそよろづのかみたちあまの安河辺やすのかはら会合つどひて、其のいのるべきさまはからふ。(神代紀第七段本文)

 豪族間で論議する最大の問題は、次の天皇に誰を選ぶかである。皇極天皇がどういう経緯から即位に至ったかについては、はっきりしないところがある。夫君の舒明天皇(田村皇子、息長足日広額天皇)は、先帝、推古天皇の遺言のちのみことのりをどう解釈するかで山背大兄王との間で継承争いが起こっている。もめにもめて舒明紀の過半を即位前紀が占めている。その舒明天皇が13年統治して、いまだ山背大兄王は健在の時、舒明天皇が亡くなるとあたかも自動的に皇后の皇極天皇が皇位を継いでいる。

 息長足日広額天皇おきながたらしひひろぬかのすめらみことの二年に、立ちて皇后きさきと為りたまふ。十三年の十月かむなづきに、息長足日広額天皇かむあがりましぬ。元年の春正月の丁巳の朔辛未に、皇后、即天皇位あまつひつぎしろしめす。蘇我臣蝦夷を以て大臣おほおみとすること、もとの如し。(皇極前紀~元年正月)

 安泰な政権移譲が行われたように見えているが、再度紛争になることを恐れ、当座の間は皇后が天皇位を継いだ形にしておこうということにしていたのではないか。そして、蘇我蝦夷、ならびに息子の入鹿の専横ぶりが描かれている。皇位に関する条項としても、新嘗祭まで不思議な形で催行されている。天皇が行うばかりではなく蘇我蝦夷大臣までが各自執り行っている。天皇位の権威づけが薄弱化してしまう。

 丁卯に、天皇新嘗にひなへきこしめす。是の日に、皇子・大臣、各自新嘗す。(皇極紀元年十一月)

 皇極天皇が天皇として確かな存在となるためには、ほかにも少しばかり方法があった。先帝の本葬儀と代替わりの遷都である。

 甲午に、初めて息長足日広額天皇のみもおこす。是の日に、小徳巨勢臣徳太、大派皇子に代りてしのびことまをす。次に小徳粟田臣細目、軽皇子に代りて誅す。次に小徳大伴連馬飼、大臣に代りて誄す。乙未に、息長山田公、日嗣ひつぎしのび奉る。……壬寅に、息長足日広額天皇を滑谷岡なめはさまのをかに葬りまつる。是の日に、天皇、小墾田宮をはりだのみや遷移うつりたまふ。或本あるふみに云はく、東宮ひつぎのみやの南のおほば権宮かりみやに遷りたまふといふ。(皇極紀元年十二月)

 皇族の間のうち皇位継承に名乗り出たり、一家言持つような人物は葬儀の席から排除したい。また、蘇我蝦夷大臣も操り人形としてしか皇極天皇を見ておらず、自ら天皇に代らんとしているかのようで排除したい。そこで、突然先帝の葬儀を始め、問題となる人物の誄は自らの権勢下にある人に代行させている。そして、その日のうちに小墾田宮に遷都してしまっている。蘇我大臣は出し抜かれた形となっている。舒明天皇の最後の宮、百済宮にいた。新しく「宮室」を造営しようと建設にとりかかっていた。ところがその完成を待たずに、小墾田宮を新都に定めてしまい遷都している。遷都は天皇の専権事項ということである。小墾田の旧都は言ってみれば「仮廬(借五十)」のようなところであったかもしれないが、天皇はミヤにいて、そこがミヤコであることに違いはない。巨勢臣徳太、粟田臣細目、大伴連馬飼、息長山田公らは政権内で要職にはなくとも、氏氏が集って話をして天皇が決まったという形を踏襲するに十分である。その時のことを思い出しているのが万7番歌ということになる(注11)
 万7番歌の「金野」のカネについては、曲尺・矩尺と書くかねじゃくの略語とも関係があるのだろう。和名抄に、「曲尺 弁色立成に曲尺〈麻賀利賀祢まがりがね〉と云ふ。」とある。安閑紀に「大倭国勾金橋」、「勾金橋宮」とある。一般に、これをマガリノカナハシ(ノミヤ)と訓んでいる。兼右本に傍訓があり、今日の橿原市曲川町に当たり、JR線に金橋という駅名もある。しかし、穂久邇文庫本の傍訓によれば、マガリカネノハシ(ノミヤ)と訓んだようである。曲尺を使って作った橋、ないしは、曲尺の形がいくつもつづくような階に因んでいるとも考えられる。万7番歌の場合、「好興事」んだ斉明天皇時代のことである。精密に計算して設計し、曲尺を使って正確に計測しながら、新しく宮闕・宮室を建設しようとしたことを暗示しているようである。
曲尺(春日権現験記模本、板橋貫雄模、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1287489/1/8をトリミング)
 回想のなかの「カネノ野」は、カネと訓ずる苞という字のことを兼ね表しているだろう。

 禍心まがのこころかくして、ふたはしらいろどそこなはむことを図る。(綏靖前紀、北野本)
 三統きみのみちつらぬきて、先聖さきのひじり宏猷おほきなるのりに簒ぎ、三宝さむぽうつつしうやまひて、黎元おほみたからたしなみを救ひたまひき。(推古紀二十九年二月是月、北野本)

 名義抄にも、「苞 カヌ、ツヽム、コモル、アツマル、モシ、フトコロ、ユタカニ、ウタク、ツム、ツツ(ママ)」とある。包と通用しており、「乾符をりて六合をべ、天統を得て八荒をねたまふ。」(記序)とある。
 苞という字は、第一に、植物のアブラガヤを指す。説文に、「苞 艸也、南陽に以て▲(草冠に麤)履を為る。艸に从ひ包声」とあり、同じく説文に、「▲ 艸履也、艸に从ひ麤声」とあって草履の材料にしている。和名抄に、「草履 楊氏漢語抄に草履〈和名は屩と同じ、俗に佐宇利ざうりと云ふ〉と云ふ。」とある。カヤツリグサ科ホタルイ属の多年草で、各地の山地や丘などの湿地に生える。高さが1mほどになり、葉は長さが40~60cm、幅が1cmぐらいの線状をなす。9~10月頃、油漬けしたような茶褐色の黄金色をした、油のような匂いを持つ花穂をつける。ナキ、ナリキ、カニガヤ、ミチクサといった別名を持つ。野が一面に黄金色になるとすると、カネノ野という言い方はマッチしているであろう。稲羽の素菟の伝承に蒲が出ていたが、同様の場所に生える。その場所は、小墾田=ヲハリ田である。耕作が放置された休耕田は放っておかれて湿地になり、アブラガヤが生えているらしい(注12)。もとは、四角く整形された水田だったところが野放しにされている。曲尺で作られたような形の野であることからしても「カネノ野」と呼ぶのにふさわしいのである。
左:アブラガヤ(洗足池公園、2014年9月)、草履(春日権現験記摸本、板橋貫雄模、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1287500/1/6をトリミング)、右:下駄(平城京東大溝(SD2700、昭和3年調査)出土、溝辺文昭氏蔵、平城宮いざない館「のこった奇跡 のこした軌跡─未来につなぐ平城宮跡─」展展示品)
 草履の話になっているのは、材料がアブラガヤであるというだけではない。ぬかるんだヲハリ田たる湿地のカネノを進むのは困難をきわめる。カネ(難)+ノ(野)である。そこで、田下駄のような履物を履いた。田下駄は水田稲作農耕の必需品であり、弥生時代から出土例がある。潮田1973.に次のようにある。

 田下駄の使用を今日の民俗例からみると、そのほとんどが芦刈り、葭刈り、萱刈りなどに使われており、……大足(枠型田下駄)の足板が出土しているのに対し、一枚板の板下駄の出土例が少なく、いずれも足より大きく長方形を呈しているのは、今日、静岡県浮島沼辺で履かれているアゼプクリ(畦木履)の田下駄のように、湿田作業の際に畦をこわさないために履かれたものと思われる。当時[弥生時代]の水田遺構が川に近いことや、足と同じ大きさの板下駄の出土数が少ないこと、当時の竪穴住居の屋根が、藁よりも丈夫な萱を用いて葺かれたであろう……ことなどから考えて、板下駄の多くは屋根材の萱・芦・葭などを川原で刈るときに、足裏を痛めないために履かれたと考えてもよいのではないだろうか。……下駄型田下駄は主に芦・萱などの草刈りに切株で足を痛めぬために川原で履かれ、板型田下駄は稲刈りに深田でもぐらぬために履かれた。(77~86頁)

 履物の用途とは、何よりも足の保護である。最も嫌なのは踏み貫きである。

 信濃道しなのぢは 今の墾道はりみち 刈株かりばねに 足踏ましなむ くつ履け我が背(万3399)

 つまり、万7番歌の表記に「兎道」と書くことは、裸足で道を歩くことから履物のことを思い起こさせる効果にもなっている。下駄類の履物の呼称については、当初からゲタないし、ケタと呼ばれていた可能性がある。その状況証拠をあげてみる。

 小墾田の 板田の橋の こほれなば けたより行かむ な恋ひそ吾妹わぎも(万2644)

 家や橋などで、柱や橋脚などの上に架け渡して他の材を受けるものをけた(ケの甲乙不明)という。下駄は、人間を受けるために歯の上に板の架け渡された履物である。また、ケダ(角・方、ケは乙類)とは、方形を表す語である。副詞のケダシ(蓋、ケは乙類)はその派生語で、推量の語とともに使われて、きっと、おそらく、たぶん、もしかして、の意になったとされる。

 …… くもがと 我が見し子に うたたけだに 向ひるかも い添ひ居るかも(記42)
 いにしへに 恋ふらむ鳥は 霍公鳥ほととぎす けだしや鳴きし 我がおもへるごと(万112・額田王)

 1例目の「転た」は、形状語のウタを重複させたウタウタの約とされる。重なっているから2つで1セットの謂いであり、長方形の下駄の片足ずつが玄関に揃えられれば四角くなる。右足左足が向き合っている。左右が反対の場合、背を向けていると見て取れる。木造家屋の桁は柱の上に渡して垂木を受ける材だから、左右に一対である。この桁が歪まないようにするのが梁である。梁を張るから桁がケダなるように四角く構成される。アブラガヤによく似たカヤツリグサは、茎を割いて引っ張ると蚊帳を吊るすときのように方形になる。子どもがそれで遊んで名づけられたという。事は、万7番歌同様、履物か屋根かである。上下から苞のように包まれることになる。稲羽の素菟の逸話は「気多(ケは乙類)」に渡ってきていると強調されており、架け渡された桁や下駄のことを暗示している。海の道となっていた和邇は、唐臼の杵、横杵のことを表していた(注13)。竪杵が柄と同じ方向に作用するのと異なり、ちょうど曲尺(矩尺)のように直角になっている。搗くべき杵部分は、ちょうど90°に付いている。
 和名抄に、「屐 兼名苑に云はく、屐〈音は奇逆反、阿師太あした〉は一名に足下といふ。」とある。これが下駄の古称であり、板製履物の総称とされ、一般に、アシダと濁音で呼ばれている。秋田2002.に、アシダの語の初見は和名抄で、一般的に用いられるのは空穂物語や枕草子からであり、それまで下駄が500年もの長きに当たって書き留められなかったことを指摘する。「祭祀や呪術に深くかかわる遺物、すなわちカミマツリに使用された聖なるはきものである」(92頁)からであると説いている。しかし、これは考えすぎであろう(注14)。和名抄中のアシシタ(足下)の約なる説や、アシイタ(足板)の約なる説もあるから、筆者は古くアシタと清音で呼ばれたと推測している。今日、下駄と呼ばれる歯のついた高い履物にせよ、田圃で使う農耕用の履物にせよ、足を汚泥から防ぐための代物である。基本、水除けである。萱葺屋根も素材がアブラガヤ(苞)であったとしても雨に対する水除けである。萱葺屋根を丈夫にして雨漏りを防ぐには、囲炉裏で薪を焚いて煙を出して油分を屋根裏にめぐらせるのがよい。その意味でも、アブラガヤは屋根材に適していたといえるのではないか。
 また、アシタには朝の意があり、朝早くの意には「つと(トは甲類)に」という言葉がある。

 …… あしたには 取り撫でたまひ ゆふへには いり立たしし ……(万3)
 つとに行く 雁の鳴く音は わが如く もの思へかも 声の悲しき(万2137)

 万7番歌では、履物にも利用される草を刈って仮廬の屋根に葺いている。当日の葬儀は早々に済ませ、朝早くから作業を行っていたのであろう。和名抄に、「履屧 野王案に曰はく、屧〈思協反、久都和良くつわら、一に久都乃之岐くつのしきと云ふ〉は履の中の薦なりといふ。楊氏漢語抄に云はく、履屧は一名に履苴〈七余反、又、苞苴の苴、厨膳具に見ゆ〉といふ。」とある。それが 苞の字の第二の意味、つと、にへ、のことである。和名抄に、「苞苴 唐韻に云はく、苞苴〈包書の二音、日本紀私記に於保邇保おほにほと云ふ、俗に阿良万岐あらまきと云ふ〉は魚肉を裹むなりといふ。」とある。魚肉をアブラガヤに包んだものである。名義抄に、「苞苴 オホニヘ、アラマキ、ツヽム 上 カヌ、アツマル、モシ、フトコロ、ツヽム、ツヽモノ、ユタカニ、ウタク、コモル、ツム」とある。油紙にくるんで中身を保護するように進んでいる。魚肉を裹んで守るつと(トは甲類)と、足という肉を守る履物とは、同じ役割を果たしていることになる(注15)
背負う荷物のなかにある苞(一遍聖絵写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2591578/1/12をトリミング)
 仁徳天皇時代のこととする言い伝えのなかで、このオホニヘ(苞苴・大贄)のやりとりをした相手は、川の向こうの沖(奥)の菟道宮にいた菟道稚郎子(宇遅能和紀郎子)である。苞は包むものである。新撰字鏡に、「該 〈備也、咸也、苞也、皆也、譖也、平也、兼也、加祢太利かねたり〉」、名義抄に、「包 カヌ」、「并 アハセタリ、カヌ」、「兼 カネテ」とある。白川1995.の「かぬ〔兼(▽(兼の旧字体))・該・予(豫)〕」の項に、「二つのことをあわせる。将来のことをも合せて考え、期待することから、あらかじめの意となる。「かねて」はその副詞形。「かねて」の予定に合うものが「かなふ」である。その予定の外れないことを「必じ」「必ず」という。」(239頁)とある。つまり、カヌ・カネという語は、時間的な向こう側、将来のことをいうオキ・オクという語と密接に関連する。

 伊香保ろの そひ榛原はりはら ねもころに おくをな兼ねそ 現在まさかしよかば(万3410)
 梓弓 末に玉巻き かく為そ 寝なな成りにし 奥を兼ぬ兼ぬ(万3487)
 
 この「奥」という語は、時間的に遠いところのこと、将来のことを言っている。「奥を兼ね」とは、将来を心配する意である。

 かねの野の み草刈り葺き 宿れりし おきのみやこの 仮廬し思ほゆ(万7)

 これは、将来のことを心配していた皇極朝当時のことを振り返って、大丈夫であったではないか、今回も何とかなるに違いないということを周囲に鼓舞しようとする意図が感じられる。それが本当のことになるとの証拠に、下駄の左右が揃うような、2つのものを兼ね合わせた巧みな歌を作ることができている。言葉が文字よりも音声に重きを置いた時代である。そのとき人々の言語使用のルールは、言は事と同じこととする言霊信仰によっていた(注16)。言葉自体に言葉遊びともとれるなぞなぞを弄することが出来さえすれば、それにしたがって現実の事柄までも構えることになっていっていたのである。すなわち、この万7番歌は、古代における政治的アジテーションであり、その傑作である。
 カネノ野という言葉も、時間的な変遷を言い含めている。足利2012.に、「野と呼ばれるのは、比較的平らな地形なのですが、小高いところのため、水がかりが悪く、耕地にすること、特に水田に開くことが困難で、そのため雑木林や竹林になっていたところが多いようです。しかし必ずしも小高いところに限らず、川が合流する付近の広大な低湿地も、未開拓で鳥や小動物が多かったためか、野として歴史にあらわれることがあります。」(205頁)とある。灌漑技術の進歩によって、水がかりの悪かった場所が水田として拓かれ、しかし、小墾田宮の造営にあたって放置されて野に復していたところである。そこにアブラガヤが繁茂していて、荒れていた宮の修復の用にかなった。「かね」ての予定が思いがけなくかなうように、時間はうまい具合に味方してくれていて、すべては時間が解決してくれると言っている。だから、「念ほゆ」などとわざとらしい言い方で歌は結ばれている。思惟、思考を縛ろうとしている。
 万7番歌を記した万葉集の当初の編者は、オキの音に「兎道」なる戯書、義訓の当て字を施した。あまりにもこじつけの、その場限りのスポークスマンの歌について批判的であったからかもしれず、また、当局の検閲を恐れたからとも思われる。ただし、天皇以下、額田王はじめ宮廷社会の人々のいだいていた共通認識は分かち合っていた。いま、飛鳥板蓋宮から焼け出されて仮に宮としたのは、以前、倭飛鳥河辺行宮と言っていたところである。河辺と同じカハヘには、肌・膚の意があり、ハダヘともいう。和名抄に、「肌膚 陸詞切韻に云はく、膚〈音は府隅反、字は亦、肤に作る、波太倍はだへ〉は体の肌なり、肌〈居夷反、賀波倍かはへ〉は膚の肉なりといふ。」とある。獣の皮のことで思い起こされるのは、稲羽の素菟が和邇に捕って毛皮を剥ぎ取られてしまったことである。すなわち、万7番歌の歌中の回想されている時の小墾田宮と、歌っている現在の河辺行宮とを兼ね合わせて表記するには、「兎道」と記すことが最もふさわしい用字であり、それによって歌の歌われた時点を特に示さずとも、過不足なく表すことができている。左注の人の目さえ誤魔化すことができたのであった。

(注)
(注1)稲岡1996.に、「額田王作歌にとくに作者に関する異伝を多く見るのはなぜか。この七番歌のみではなく、八番歌、一七番歌にも作者の異伝を記すことについて、王の「代作」論議が続けられてきたが、集団を代表し、集団の人々のすべてに通じる思いを歌った歌人として王の性格を考える方向に落ち着いて来たようである。その作品は集団に共有されたのであって、折に触れ人を変えて口吟されることも少なくなかったであろうから、作者に関する異伝を持つことはむしろ当然だったろう。歌が文字化されることのなかった時期のありようとしても自然だったと思われる。」(73頁)とある。この指摘は、必ずしもすべての研究者に共有されるものではなく、なお議論は続いているものの、きわめて当を得た考え方であると筆者は考える。すなわち、初期万葉の〈雑歌〉は、宮廷社会の共通感覚、共通意識を歌っているのが特徴である。歌の側からいえば共有される歌ということになり、作者の側からいえば宮廷社会の中心人物、天皇の代詠であり、それが代作と捉えられることもあることになる。これが初期万葉歌の〈雑歌〉の大原則ということになる。
(注2)佐佐木1996.は、額田王の万151番歌の「かからむ□ かねて知りせば 大御船 泊てて泊りに しめ結はましを」の原文表記、「如是有乃豫知勢婆大御船泊之登萬里人標結麻思乎」の「乃」字にまつわって次のようにいう。

 『萬葉集』に十二首しかのこされていない額田王の歌には、五行思想にもとづく〈金野あきのの〉〔一・七〕の表記や、漢語の翻訳語であるといわれる「けだし」の語をふくむ「盖哉鳴之けだしやなきし」〔二・一一二〕の句や、六朝の閨怨詩との関係が指摘されている「簾動之秋風吹すだれうごかしあきのかぜふく/簾令動秋之風吹」〔四・四八八、八・一六〇六〕という表現などがある。また、漢籍に例がおおい春秋あらそいを題材にした長歌〔一・一六〕や、その表記の背景がほとんど解明されていない「莫囂円隣之大相七兄爪湯気」〔一・九〕という歌句もある。漢籍と縁がふかく、『萬葉集』中の才媛と評されるこの作者であれば、指示副詞に由来する助詞「と」あるいは指示副詞としてのニュアンスをまだ保持していた「と」を、漢籍に指示語としての用法がある〈乃〉字によって[151番歌の第一句を]表記したという可能性を想定しうるのである。(359~360頁)

 才媛とは学があること、それは当時でいえば漢籍の知識があることを指すという考え方が根強く残っている。しかし、初期万葉の歌には口承性が指摘されている。神野志1996.に、万16番歌の対句表現が、「線条的展開とは異なるのであり、重なりがつくるずれのなかから、論理的には不自然さや飛躍をはらむようなかたちで文脈が紡ぎ出されてゆくこともあるのである。これを口承の歌の表現性として見ることができる。」(98頁)と適切な検討が施されている。文字にべったりの漢文学など関係ないのである。じっさい、額田王の万112・488番歌に、巻1に載る彼女の歌の精彩はもはや感じられない。ケダシという語がいわゆる訓読語とされる点についても、訓読語の多様性を検討せねばならず、なにより、訓読語を歌謡に使っているからといって漢籍を読んでいたことにはつながらない。今日でも、アルファベットによる綴りスペルなど知らずとも、スマホだのスノボだのと言っている。また、万16番歌を漢籍の春秋争いの歌と捉えることは、歌の本質も見えていないこととなる。
(注3)クガネノノという訓みも候補ではあるが、後述のとおり表記の術として有意ではない。
(注4)拙稿「天の石屋(石窟)の戸について─聖徳太子の創作譚─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/01642f78ed47d43d3fb93c31b4f8f1fc参照。
(注5)紀に詳述されている。

 田身嶺たむのみねに、かがふらしむに周垣めぐれるかきを以てす。また、嶺の上の両槻樹ふたつのつきのきほとりたかどのを起て、号けて両槻宮ふたつきのみやとし、亦天宮あまつみやと曰ふ。時に興事おこしつくることを好む。廼ち水工みづたくみをしてみぞ穿らしめ、香山かぐやまの西より石上山いそのかみのやまに至る。舟二百隻ふたももふなを以て、石上山の石をみて、みづまにまに宮の東の山に控引き石をかさねて垣をす。時の人のそしりて曰はく、「狂心たぶれこころの渠。功夫ひとちからおとし費すこと、三万余みよろづあまり。垣造る功夫を費し損すこと、七万余。宮材みやのき爛れ、山椒やまのすゑうづもれたり」といふ。又、謗りて曰はく、「石の山丘を作る。作るまにまに自づからにこぼれなむ」といふ。若しは未だ成らざる時に拠りて、此の謗をせるか。又、吉野宮を作る。……岡本宮にひつけり。(斉明紀二年是歳)

(注6)小墾田宮の所在地については、雷丘の東方の遺跡から淳仁天皇時代の「小治田宮」という墨書土器が出土しており、その付近を指すものと推測されている。和田2014.に、「古代の百済川は、今では米川と称されて、耳成山の北東隅で曲流して西方へ流れ、少し下流の橿原市新賀町附近で、再び九〇度も曲流して北方へ流れる。こうした米川の流れは、奈良盆地では珍しい。奈良盆地を流れる諸河川は、平城遷都後には条里制地割に沿うものが多い。しかし桜井市域や橿原市域を流れる戒下(ママ)かいげがわ米川よねかわ(古代には共に百済川)の流域は、条里制施行以前の地割りをよく留めており、注目される。」(8頁)とある。確かにその通りで、逆に言えば、原則、桜井市や橿原市、明日香村付近の河川は条里制に従わない。ところが、明日香村を流れる中の川は、北流する百貫川と合流する際に、西に直角に曲流し、あたかもそこだけ条里制を示しているようである。つまり、曲尺で測ったような地形である。その地は、雷丘の東方、字を奥山という。本稿のオキノミヤコの在ったところとの推論の状況証拠である。そして、飛鳥中心地からみれば、オキの向こう側に、百済川、百済野があることになっていて、稲羽の素菟や論語・千字文の伝来の言い伝えと合致する地理関係になっている。
左:雷丘から奥山を望む、中左:2007年2月航空写真パネル(大官大寺跡の南東に整形された川が見える)、中右:真っ直ぐ北流する川(天の香具山が見える)、右:屈曲地にある桜と水門(写真右側に屈曲直後の若干の蛇行が生じており、整形した痕跡が知り得る)
(注7)この間の事情については、拙稿「聖徳太子のさまざまな名前について 其の二」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/edc18e5c801bad27eb2c246eb5a72295参照。
(注8)古事記の古い写本、真福寺本には、稲羽の素菟の用字には、「◇(草冠に菟、﹅部分はムか)」字が用いられている。意図的な作為が感じられる。
意図的、作為的な「菟」字(真福寺本古事記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1184132/1/22をトリミング)
(注9)拙稿「怕物歌三首」参照。
(注10)オキ(キは甲類)の意としては、沖(奥)、息、隠岐、置き、があげられる。置きの意には、葬ること、残しとどめること、設置すること、などがあり、沖の意としては後代の例であるが、ひろびろと広がる田畑のことも言っている。
(注11)初期万葉の額田王の歌は、宮廷社会の総意、とりわけ天皇の意向を反映した歌で、政治的アジテーションの色彩を持っている。皇極天皇時代のどさくさ葬儀、氏氏の合議、遷都のことが思い出されると歌っていたことを、証拠に残る形で書き記すことはとても憚られることであったろう。伝えたいという気持ちと糾弾されるかもしれないという気持ちとの間で、難訓的な義訓を行うことで責めを負うことから免れようとしていたようである。
(注12)谷城2007.によると、アブラガヤはカヤツリグサ科クロアブラガヤ属に当たり、高さ1.2~1.5m、多年草で、低地~山地の湿地に生育し、果期は8~9月とする。同属に、アイバソウ、ヒゲアブラガヤ、マツカサススキ、コマツカサススキを含めている。また、カヤツリグサ科の生える環境については、第一に休耕田や畦があげられている。「休耕後間もない田では、しばしばカヤツリグサ科植物がいっせいに発芽する。ガマ、オモダカ、チョウジタデ等に混ざってハリイ、ホタルイ、イヌホタルイ、マツバイ等が確認できる。このような場所はしだいにガマ、ヨシ等の大型の多年草が優占する群落へと遷移し、カヤツリグサ科の一年草は衰退し、消滅する。」(200頁)とある。アブラガヤは多年草であり、数年かの間はガマなどに負けずに蔓延ることがあるだろう。
(注13)拙稿「「稲羽の素菟」論」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/0370f594b4ea21b5a5b2650bd73ff13c参照。
(注14)本村2022.も水の祭祀との関連を考え、強い祭祀性をうかがっている。古墳から石製模造品が多数見つかるのであるが、同じく石製模造品の刀子の場合、刀子自体を模造したというよりもその革袋のサックを造形している。糸の縫い目を表す例が多いのである。古墳時代に使用されていた刀子は一つ一つ大きさ、長さ、幅が異なる。一つ一つにぴったり合うサックが作られて仕事をした後になくしたものがないか確認したと思われる。下駄を石製で模造する場合も、一つ一つがオリジナルサイズである下駄を表しているのではないかと類推される。そのように作ることは、実用の便や製造過程のハンドメイドが理由として考えられる。その特徴は、祭祀性とつながるものではない。
(注15)足を包む履物に行縢むかばきがある。祝詞の例で、「向股」はムカバキ(九条本)と訓まれることもある。
(注16)拙稿「上代語「言霊」と言霊信仰の真意について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/955ded4d1144615f6285da75461eaaea参照。ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という考え方は大いに参考になる。

(引用・参考文献)
秋田2002. 秋田裕毅『下駄』法政大学出版局、2002年。
足利2012. 足利健亮『地図から読む歴史』講談社(講談社学術文庫)、2012年。(『景観から歴史を読む』日本放送出版協会、1998年。)
稲岡1996. 稲岡耕二「額田王作歌(1)」同編著『上代の日本文学』放送大学教育振興会、1996年。
潮田1973. 潮田鉄雄『はきもの』法政大学出版局、1973年。
神野志1996. 神野志隆光「額田王作歌(3)─春秋競憐歌─」稲岡耕二編著『上代の日本文学』放送大学教育振興会、1996年。
佐佐木1996. 佐佐木隆『上代語の構文と表記』ひつじ書房、1996年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
谷城2007. 谷城勝弘『カヤツリグサ科入門図鑑』全国農村教育協会、2007年。
本村2022. 本村充保『下駄の考古学』同成社、2022年。
和田2014. 和田萃「大和の古道─筋違道とコグリ石─」『季刊 明日香風』第132号、公益財団法人古都飛鳥保存財団、平成26年。

※本稿は、2014年7月稿を、2023年7月に大幅に改稿しつつルビ化したものである。

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