加藤敏春ブログ:21世紀の経済評論を語る!

2000年度東洋経済・高橋亀吉最優秀賞等を受賞。地域通貨「エコマネー」提唱者。

高瀬川のふち瀬を散策する:森鴎外の小説『高瀬舟』を思い出す

2005-10-30 00:16:39 | Weblog
 10月20日、21日京都に出張した折、21日の早朝に高瀬川のふち瀬を散策しました。
 高瀬川の見どころは、木屋町通沿いの町並みです。ほんの10数メートル間隔で小さな橋がかけられています。南の四条から「四条小橋」、「新橋」、「十軒橋」、「紙屋橋」、「備前前島橋」、「蛸薬師橋」、「南車屋橋」、「車屋橋」、「山崎橋」、「材木橋」、「大黒橋」、「三条小橋」、「恵比須橋」、「姉小路橋」、「上車屋橋」、「押小路橋」とつながり、三条に出ます。
 四条通に近いところにあるのが立誠小学校の跡地ですが、ここは旧土佐藩邸だった所で、幕末坂本龍馬や中岡慎太郎が活躍したところです。
 高瀬川は慶長16年(1611年)角倉了以・素庵父子の力によって開墾された運河でした。今は川幅4,5メートル、水深20センチメートルくらいの川ですが、江戸時代においては、川幅8メートル、水深は倍以上はあったそうです。明治の中ごろに鉄道が敷かれるまでは、薪炭、木材、米、塩、醤油などを運ぶ重要な機能を果たしていました。
 もともと「高瀬」とは「川底の浅いところ」、「浅瀬」を意味する言葉ですが、そういう川で物資を運ぶ舟のことを「高瀬舟」と呼びました。高瀬川という名前は、この高瀬舟に由来するそうです。
 高瀬川のふち瀬を散策しながら、高校時代に読んだ森鷗外の小説『高瀬舟』を思い出しました。『高瀬舟』は次のような書き出しで始まっています。
 「高瀬舟は京都の高瀬側を上下する小船である。徳川時代に京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷に呼び出されて、そこでいとまごいをすることが許された。それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪に回されることであった。それを護送するのは、京都町奉行の配下にある同心で、この同心は罪人の親類の中で、主立った一人を大阪まで同船させることを許す慣例であった」
 森鷗外はこの作品の中で、護送を命ぜられた同心、羽田庄兵衛と罪人の喜助という男のやり取りを見事に描いています。喜助は病気で働けなくなった弟が自殺を図ろうとしてもがき苦しんでいるときに帰宅し、弟がなんとしてお楽にして欲しいということを懇願するあまり、剃刀を弟の咽喉から抜いてやったという話をします。今風に言えば、安楽死です。庄兵衛は、高瀬舟で護送しながら「これが殺人というものだろうか」と自問します。
 京都には、アイコンを押せば歴史や小説のシーンを思い出させるところが随所にあります。次回は、同じときに散策した祇園小路、建仁寺、八坂神社、円山公園、知恩院について書いてみようと思っています。