朝から激しい雨が降り、長野オリンピックスタジアムで行われる予定だった、全国高校野球選手権(甲子園)の県予選、須坂高校との試合が、残念ながら順延になりました。
小さい頃、野球が大好きで、テレビのプロ野球中継を楽しみにしていましたが、雨で試合が中止になると、「プロ野球スター列伝」とか何とか、別の番組が放送されることになり、ほかに観るものもないので、あまり気が進まないまま仕方なく観ていた記憶があります。
実は、そのおかげで、リアルタイムでは聞いたこともないような選手のことを知ることができたのですが、それはそれとして、今日は、このブログで言おうと思っていた野球の話題がなくなってしまったので、「軽井沢高校新聞」の題字について書きたいと思います。
軽高生徒会発行の新聞の題字が、尾崎行雄(咢堂)によるものであることは、以前このブログで触れたとおりです。
尾崎行雄という人は、近代日本の議会政治を語るときには避けて通れない人です。
明治23年、国会開設とともに第1回総選挙で衆議院議員に当選して以来、昭和28年の総選挙で落選するまで、連続25回当選、63年の長きにわたって議員をつとめ、「憲政の神様」とか「議会政治の父」とか呼ばれた人で、憲政記念館には尾崎行雄像や尾崎メモリアルホールまであります。
東京からワシントン市に桜の苗木を贈ったという有名な話がありますが、その時に東京市長として2回にわたって5000本の桜を贈ったのが、この尾崎行雄でした。
そんな「すごい人」がなぜ軽高の生徒会新聞の題字を書いたのか。
ここでまたまた登場するのが『軽井澤高等学校四十年の歩み』です。
本当によくできた本で、読み物としても面白いし、勉強にもなります。
昭和26年、「軽井沢高校新聞」の創刊号を発行するにあたり、新聞部の生徒3人が、尾崎行雄の別荘を訪ねます。
尾崎は、軽井沢を愛し、当時馬に乗って軽井沢町内を歩く姿が町の人たちに親しまれていました。
別荘から出てきた若い人に訪問の趣旨を伝えると、なんと10分ほどで題字を書いてくれ、その上「話をしたいから上がっていけ」と言います。
登場した「眼鏡をかけ、大きくひげを生やした白髪のおじいさん」は、学校の様子を聞いた後、2時間にわたって独特のカナ文字論と日本文化論を話し続けます。
生徒たちは緊張して、手を膝に乗せたまま、アブに食われてもかくこともできなかったそうです。
前回、軽高に来て初めて「軽井沢高校新聞」を見たとき、その題字がかの尾崎行雄によるものであることはすぐにわかりました。
それは、私が尾崎の筆跡を知っていたからではなく、写真からわかるように「おザキゆキヲ」と署名がしてあったからです。
著者の署名を新聞の題字に残すことはまずあり得ません。
当時もやはり、署名を削るかどうかでもめたようですが、結局、残しました。
その理由は、なんと「おじいさんに悪いから」だそうです。
なんともほのぼのとした話です。
創刊号には「生徒会の反省」と題した論説が掲げられ、戦後民主主義が与えられてまだ日が浅いことはあるとしても、「学生生徒が真の民主主義を体得せずして、誰が先にこれを行うか。現在学ぶ者より真の民主主義は生まれる」「理想は常に広く大きく、実行は常に足下にあることを忘れてはなるまい」と語っています。
この当時の生徒の積極性、謙虚さ、やさしさ、そして気概。
それを受け止めた尾崎の懐の深さと情熱、そして若者に対する眼差し。
先人に見習うことがたくさんあるように思います。