(2024/8/11)
『地獄極楽 絵本』
諸橋精光 小学館 2014/9/11
・小坊主の真観(しんかん)さんが、お地蔵さんに手を引かれて地獄めぐりをする。その千変万化するテーマパークの絵本が仕上がった。地獄の百面相をたっぷりみせてくれる。
・むかし、あるお寺に真観という絵の上手な小僧さんがいました。
・真観は自分の描く仏さまの絵に、なにか満足できないものがあって悩んでいたのです。
・その夜も遅くまで筆をとっているうちに疲れはてて、いつのまにか眠ってしまいました。すると……
だれかが目の前に立っています。「あなたは……?」「わたしは地蔵菩薩」
・「それはまず地獄を見ることだ」「じ、地獄?」「そう地獄にこそ人間の心のほんとうの姿があらわれている。真観よ、おまえにこれから地獄を見せてあげよう。さあ、わたしについてくるがよい」
<中有(ちゅう)の旅>
・きがつくと、二人は暗い地の底のようなところにおりていました。
・「死んだ後の世界といってもいいし、おまえの心の底といってもいい。人は死ぬと、今のように真っ暗な闇の中を落ちるようにしてここにたどりつく。そしてここから中有の旅がはじまるのだ」
・「そう、ここはあの世でもない、この世でもない。死んでから生まれ変わるまでの中間の世界、だから中有というのだ」
・「中有ではあともどりはできない。いったんここに入ったらもとの世にはけっしてもどれないのだ」
・「真観よ、あれは死出の山だ。人は死ぬとまずあの山を越えていかねばならない」
<死出の山路>
・その山路をおおぜいの亡者がのぼっていきます。
<三途の川>
・その山を越えると大きい黒い川が見えてきました。おおぜいの亡者がその川を黙々と渡っていきます。
・「その場合、彼らは生きていたときの行いによって三つの渡し場にふりわけられる」
<橋渡し>
・「生前、よい行いをしてきたものは、この立派な橋を歩いて楽々と向こう岸へ渡ることができる」
<浅水瀬(せんすいせ)>
・「生前の罪業が浅い人間は、この浅瀬を渡っていく」
<強深瀬(ごうしんせ)>
・「悪い行いをしてきた罪深い人間は、深くて流れの激しいこの瀬を泳いで渡らなければならない」
・三途の川の向こう岸には奪衣婆(だつえば)・懸衣翁(けんえおう)は待ちかまえています。「残らず脱いでいけ」婆が着物をはぎとり、翁がそれを衣領樹(えりょうじゅ)という木の枝にかけていいます。「枝がたわむのはおまえの罪が重い証拠だ」
・二人はさらに歩き続けました。「かれらは閻魔大王の宮殿に向かっているのだ」「かれらはそこで閻魔大王の裁きを受けるのだよ」
・「これから先というのはどのような世界があるのですか」「それには六つの世界がある。すなわち地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道だ」
「地獄道は苦しみの極限の世界。餓鬼道は空腹に苦しむ世界。畜生道は弱肉強食、生存の恐怖に追われる世界。修羅道はつねに怒り、争い、戦いに休まることのない世界。人道はわたしたちのこの現世、苦もあり楽もある世界。天道はただただ楽しいだけの世界だ。人は死後この中有の旅の中で閻魔大王の裁きを受け、生前の行いの善悪によってこれらの世界のどこに生まれ変わるか、それが決められるのだよ」
・「因果応報といって、よいことをした人間は楽の多い天道に生まれ、悪い行いをした人間は地獄道・餓鬼道・畜生道などの苦しみの多い世界に生まれ変わる」
・「真観よ、あれが閻魔大王の宮殿だ」
・その都の門の前では、門番の牛頭(ごず)・馬頭(めず)がおびえている亡者たちに向かって大声でどなっています。
・閻魔大王の宮殿は七重の城壁にかこまれた大きな城です。「閻魔大王はここで18人の将官と8万の獄卒を従えて、日夜亡者たちに判決をくだしておられる」
<閻魔大王>
・閻魔大王はとみると、その大きなお顔は真っ赤で、怒りの表情をうかべ、お目は月か日のようにおそろしい光を放っています。閻魔大王の左右には
倶生神(くしょうしん)という首だけの神さまがそれぞれ、竿の上にのっています。
・閻魔さまは、ひとりの亡者に判決をくだしていました。「そなたは盗みの罪を犯した。地獄へ落ちねばならない」
・閻魔大王はいいました。「亡者よ、倶生神の記録に間違いはない。罪を認めるがよい」
・「これは生前の行いをすべて映し出す浄玻璃(じょうはり)の鏡。悪を隠すことはできないのだ」
・「この少年僧は仏画を描く修行をしています。この少年がほんとうのみ仏を描けるようになるためにも、少年に地獄を見せてやりたいのです」
・閻魔大王に別れをつけてお地蔵さまと真観は地獄へと向かいました。
「真観よ、地獄には8つの大地獄があって、このように縦に重なっている。上から等活地獄、黒縄地獄、衆合地獄、叫喚地獄、大叫喚地獄、焦熱地獄、大焦熱地獄、阿鼻地獄という。下に行くほどそこに落ちた罪は重く、責め苦は増していく。またそれぞれの地獄には16の小地獄がついていて、罪によってさまざまな責め苦がまっているのだ」
・鬼たちが扉を開けると地獄が目の前にひろがりました。
<等活(とうかつ)地獄>
・「人や生きものを殺した人間が落ちる地獄だ」
「うあああ……むごい。人間がまるで料理されているみたいですね」
・「そして与えた苦しみの何百倍、何千倍の苦しみを受けるのだ」
・「真観よ、この地獄では罪人同士が激しい害心をもって傷つけあう。これも人間のあさましい姿なのだ」
・「いや、地獄では罪人は死ぬことができないのだ」
・「真観よ、ここの罪人の寿命は5百年だ。その間延々と責め苦がつづく」
・「真観よ、この等活地獄には犯した罪によって、16の小地獄がある」
<屎泥処(しでいしょ)>
・そういうことをした人間は地獄に落ちて、この煮え立つ汚い糞尿の池であえぐことになる。
<刀輪処(とうりんしょ)>
・「そういうことをした人間は鉄壁に囲まれたこの小地獄で、炎に焼かれ、刀の雨に身を切り裂かれる。しかし、これらの鉄壁も炎も刀の雨も、すべて自分自身の貪欲の心が作り出したものなのだよ」
<不喜処(ふきしょ)>
・「ここは鳥や獣を怖がらせて殺した人間が落ちる小地獄だ。あの火をふく巨鳥に罪人は追いかけられ、身をずたずたにされる」
<黒縄(こくじょう)地獄>
・「鉄の黒縄だ。あれで罪人に縄目をつけて、それにそってのこぎりや刀や体を切り刻む。それゆえ黒縄地獄というのだ」
・「この黒縄地獄に落ちた罪人の寿命は1千年を数える」「その寿命が尽きるまで死んでは生き返り死んでは生き返りしながら責め苦を受け続けるのだ」
<「等喚受苦処(とうかんじゅくしょ)>
・「ここでは罪人は刀剣の谷に突き落とされ、地獄の犬に食われる」
<畏鷲処(いじじゅしょ)>
・「ここは人の食糧をうばって飢え死にさせた人間が落ちる小地獄なのだ」
<衆合(しゅうごう)地獄>
・「真観よ、ここは殺生・盗みに加えて不倫・浮気・強姦などみだれた男女関係、すなわち邪淫を行った人間の地獄だ。衆多の責め苦が集合して身に迫る、だから衆合地獄という」
・「衆合地獄の罪人の寿命は2千年。ここにも16の小地獄がある」
<叫喚(きょうかん)地獄>
・「あるいは猛火の満ちる鉄の部屋に追い込んで焼く。あるいは溶けた銅の汁を飲ませて五臓を焼き尽くす」
・「酒を飲んで、殺生・盗み・邪淫を犯した人間だ。酒の代わりにあのように銅の汁を飲ませるのだ。この叫喚地獄の罪人の寿命は4千年になる」
<火末虫処(ひまつちゅうしょ)>
・「罪人の体の中に火末虫という虫が無数にわき、罪人の肉や骨まで食べ尽くす」
・「ここに落ちるのは、酒に水を入れて売るなどして不正なもうけをした人間だ」
<雲火霧処(うんかむしょ)>
・「真観よ、人を酒で酔わせてもてあそび辱めた人間はこの小地獄に落ちる。高さ四百尺の大火炎に投げ込まれ、一瞬のうちに頭から足まで焼け消えるが、すぐまた生き返り、同じ苦しみをくりかえす」
<剣林処(けんりんしょ)>
・「この小地獄では、燃える焼石が天から雨のように降ってきて、罪人を砕き、つぶし、その体を焼く。また熱沸河(ねつふつが)という極熱の河がある」
・「曠野を旅する人に酒を飲ませて酔わせ、その財産を奪い取る、そういう悪行をした人間だよ」
<大叫喚(だいきょうかん)地獄>
・「真観よ、ここはウソをついた人間が落ちる地獄だ。見るがいい。鬼たちはウソをついた罪人の舌をひきぬき、口を縫い、真実を見ても見ぬふりをした目をくりぬき、そしてしかる」
・「この大叫喚地獄に落ちた罪人の寿命は8千年だ」
<異異転処(いいてんしょ)>
・「真観よ、ここは大叫喚地獄の中にある小地獄のひとつだ。人からの信頼を利用してウソをついた人間がここに落ちる。罪人はここの河の中に父母・妻子・親友など親しい人々の姿を見る。彼らの優しい言葉に誘われかけよろうとすると、罪人は地面のとげにつまずき、鬼につかまってのこぎりでひかれる」
<焦熱(しょうねつ)地獄>
・「真観よ、これから行く焦熱地獄は、邪見、すなわち間違った考え方をもって殺生・盗み、邪淫などの悪行を行った人間が落ちるところだ」
・「間違った考え方とは因果の法則を否定することだ。たとえば、努力することには意味はないなどと考えることだ」
・「ここでは罪人は熱した鉄の地面におかれ、真っ赤に焼けた鉄棒で打たれ、鉄の槌で搗かれる」
「あるいは、鉄のやぐらの上にのせられ、下からおそろしい地獄の炎に焼かれる」
「あるいは、大きな鉄釜で骨までぐつぐつ煮られる」
「1万6千年の間、責め苦を受け続ける。それがこの地獄の罪人の寿命なのだ」
<分茶梨迦処(ぶんだりかしょ)>
・「ここは焦熱地獄に付随する小地獄だ。ここに落ちるのは「戒禁取見(かいごんしゅけん)」、すなわち「断食して餓死したら天に生まれる」とか、「人を殺せば悟りを開ける」などという、間違った考えをもった人間だ。罪人は無量百千年の間、炎で焼かれる。
・「それには、そのうぬぼれに気をつけ、つねに謙虚であるように心がけることだ」
<大焦熱(だいしょうねつ)地獄>
・「真観よ、大焦熱地獄は今までの悪行に加えて、尼僧など、清く正しく生きる女性を犯し、汚れのない人の人生をふみにじった人間が落ちる地獄だ」
「罪人は首に縄をつけられて、中有の世界から広さ二百由旬、高さ五百由旬のこのみわたすかぎりの大火炎のところに引いてこられる」
「そしてこの極熱の大火炎の中に投げ込まれる」
・「大焦熱地獄に落ちた罪人の寿命はおよそ半中劫だ」
<普受一切資生苦悩処(ふじゅいっさいしせいくのうしょ)>
・「大焦熱地獄に落ちた罪人たちは、この地獄にある16の小地獄をすべて回らされる。ここはその小地獄のひつとだ。罪人は炎の燃える力で皮をはがされる」
<火髻処(かけいしょ)>
・「この小地獄では似髻虫(にけいちゅう)という虫を肛門から入れられる。虫は罪人の内臓、肉、骨をことごとく食べて、中をがらんどうにする」
<無間闇処(むげんあんしょ)>
・「この小地獄では何でもかみくだいて強い嘴をもった地盆虫(じぼんちゅう)という虫に全身を食べられる。この虫にかまれる痛さは地獄一だ」
・「真観よ、今の大焦熱地獄など、次の阿鼻地獄と比べたら天界のようなものだ。千分の一にも満たない」
<阿鼻(あび)地獄>
・「その阿鼻地獄に向かってまっさかさまに落ちていくのだ。二千年もかけて」
・「ここにくるのは悪の限りを尽くした人間。父母を殺し、仏の体を傷つけ、阿羅漢という悟りを得た聖者を殺すなど、最も重い罪を犯した人間だ」
・「炎の底は阿鼻城。たてよこ八万由旬(ゆじゅん)の七重の鉄城だ」
・「阿鼻城には18人の大鬼がいる。64の目をもち、頭上にたくさんの鬼面をのせ、それぞれの角からは炎がふき出している。大鬼は日夜休むことなく罪人を責める」
・「ここには、いままで見てきた地獄のあらゆる責め苦、それらを千倍しても足りない苦しみがある」
<渇愛(かつあい)の火>
・「しかしね、真観、この地獄は単に遠い死後の世界なのではない。それはわたしたちすべての人間の心の現実でもあるのだよ」
・「この地獄に燃えている火はじつは渇愛といって、わたしたちすべての人間の心の、意識もとどかない奥底にある生命の力そのものなのだ」
・「この意識下の深い欲動、それを無明ともいうのだが、その激しい盲目的な欲動がわたしたちの心を燃え立たせ、さまざまな善と悪の行いへと駆り立てる。そしてその行いによって現出するのが、地獄・餓鬼・畜生・修羅、人、天という六道の世界なのだね」
・「そして同時に、この六道というのはわたしたちすべての人間の心の姿なのだ」
・「真観よ、わかるだろう。六道が人間の心の中にもあるということが。そして、この六道は欲と執着に覆われた苦しみの世界なのだ」
・「天道には苦や不足がないから、苦を克服する努力がない。その結果、衰え、寿命尽きるときの大苦悩は地獄の苦より大きいのだ。天道もまた苦の世界なのだよ」
・「安らぎの世界はある。それこそが欲と執着を離れた仏の世界、すなわち極楽だ」
・「欲望の火そのものがなくなっているのではない。欲望の火はそこでは智慧の光明となって輝いている」
・「真観よ、それはこういうことだ。欲望が燃えさかる地獄は、言い方を換えれば愚かさに覆われた心の暗い世界。一方、極楽は欲を離れているから心が清く澄んで光明に満たされた明るい世界だ。欲にとらわれれば心暗く、欲を離れ、心澄めば智慧の光が輝く。それがこの世の真理なのだ」
・「地獄と極楽は、はるかに遠く隔たった世界だ。わたしたちの住む六道の世界に対して極楽は十万億土のかなたにある。しかしね、真観、その極楽はじつはわたしたちの心の中にもあるのだ。そして、まるで正反対のこの地獄と極楽、欲望の火と智慧の光明はじつは別々のものではない、ひとつながりのものなのだよ」
・「死後の世界においてはるかに隔たった地獄と極楽、六道と極楽はわたしたちの心の中ではひとつながりなのだよ。欲望の火と智慧の光明とそのひとつながりのものがすべての命あるものの心の奥底にあるんだ」
・「真観よ、それはおまえの心の中にもある。欲望の火と智慧の光明、そのどちらをあらわすかは、おまえの心のもち方にかかっているんだ。おまえの心が六道のどこにあってもおまえの中に極楽はあるのだから、生き方ひとつで極楽は輝き出る。だからおまえは、つねに自分の心を正しく見つめ、また他者に対してはやさしい心で接しなければならない。どんな状況の中にいようとね」
・「さあ、真観よ。もう一度、目をつむるがいい。今度はおまえに極楽を見せよう」
「人間の心の中には地獄だけでなく、正しく美しい心の世界もあるのだ。それを見ていくがいい。どちらも同時に見なければ、人間の真実はつかめないのだから」
<極楽>
<地獄の百面相 山折哲雄>
・小坊主の真観さんが、お地蔵さんに手を引かれて地獄めぐりをする。その千変万化するテーマパークの絵本が仕上がった。
地獄の百面相をたっぷりみせてくれる。みているうちに、自分のこころが大きな鏡にうつしだされていく。
それにくらべて極楽の方は、最後の最後の場面でちょっぴり顔をのぞかせるだけだ。
・作者が苦労しているのは、地獄行きの列車から、いったいどうして極楽行きの新幹線に乗りかえるか、ということだったようだ。
・ハッと胸をつかれているうちに、最後の極楽の場面になると、その亡者たちがいつのまにかみんな赤ん坊の姿、赤ん坊の可愛い顔になっていることに気づく。小さな、小さな仏さんに生まれ変わって、まんなかの大きな仏さんをとりまいているのである。この絵本作家の、いちばん大切な思想である。
<あとがき>
・この絵本と前作の『般若心経絵本』は姉妹編である。前作では世界を水で喩え、今作では火でとらえる。
・この絵本は制作をはじめてから9年もかかってしまった。
・地獄に行きたいわけではない。わたしは地獄は本当にあると思っている。だから正直死後がおそろしい。
『日本人の心のふるさと(かんながら)と近代の霊魂学(スピリチュアリズム)』
(近藤千雄)(コスモス・ライブラリー) 2006/3
<サマー・ランド、ブルー・アイランド>
・ 言って見れば、「因果律による審判が行なわれるわけであるが、皆が皆、素直に更正するわけではないから、三つの階層に収まることになる。
・ しかし、ここは、まだ虚構の世界で、死後の世界ではあっても、実相の世界ではないことが、肝心なところで、死ねば地獄か極楽へ行くとか、無で帰するというものではない。当分は、地上時代そのままの意識と姿で生活を続ける。驚くことに、自分が死んだことすら気づかず、地上時代と同じ感覚のまま生活している者がいるほどである。信じられないことであるが、それほど、幽体と幽界がうまくマッチしているということであろう。
・(コナン・ドイルが死後まとめて送ってきた死後の階層の実相)
「幽界」
・ 1、邪悪で、自己中心的な欲望しか持たない。
・ 2、邪悪性はないが低級な煩悩から抜け切れない者が集まっている。
・ 3、何事も思うがままに、叶えられる世界(サマー・ランド、ブルー・アイランド、極楽)
「第二の死」。無意識状況を体験して霊界に入る。
1、 知的な理解の世界。
2、 直感的な悟りの世界。
3、 形体なき存在への変化。神界へ上がる資質の不足な者は、再生する。
再生への手続きが行なわれ、他の者は、神界へ行く。
1、 宇宙の造化活動への参加と活動
2、 宇宙的存在としての普遍的愛の活動
3、 ニルバーナ、涅槃(ねはん)
それ以上は、(超越界)で、人間的な理知では知りえない。
<「幽界では障害者はいない」>
・さて、幽体は肉体の成長と共に大きくなり、肉体の細胞の一つ一つに浸透している。幽体はさきに説明した通り、基本的には感情の媒体であるから、感情の持ち方が肉体に反応し、その逆、すなわち健康状態が幽体に影響することにもなる。これからますます、盛んになると予想される臓器移植の関係も、いずれはこの事実と直面することになると推察されるが、ここでは深入りしない。
・死によって、幽体が肉体から抜け出ると、ちょうど地上に誕生したときのあの肉の魂のような身体が、2、3年で一人前の体型を整えて地上生活が営めるようになるのと同じで、幽体も徐々に幽界の環境に応じた体型と機能を整えて、幽界生活を営むことができるようになる。
・地上時代との一番の大きな違いは、肉体の障害が全て消えてしまうことで、眼が見えなかった人は、自由になり、知能に障害のあった人は、正常に復する。そうした障害と不自由さがカルマと呼ばれている因果律によるものだっただけに、そのカルマの試練に耐え抜いた今、それがさまざまな幸せとなって報われる。
・その一方では、その正反対の報いを受ける者もいるであろう。他人に精神的苦痛を与えた人、殺人や障害の罪を犯した人は、言うに及ばず、いけないこととは知りつつ間違った生き方を続けた人。学者であれば、面子や名声をかばって、真実を真実として認めなかった人、宗教家であれば、間違いであることを知りつつ、もっともらしい、教説を説いてきた人。こうした人々は、その過ちに応じた報いを精神的苦痛の形で受けることになるという。こうした、いわば地上生活の清算は、さきに掲げた死後の界層の図にある中間境において行われる。
<幽界>
・ 物質的身体に宿って、生活する場が物質界であるのと同じ原理で、幽質の身体に宿って生活する場は、幽界となる。身体が幽質の半物質で構成されているように、環境も同じ波動の半物質体で構成されていて、地上の人間が地球環境を実感を、持って認識しているように、幽界で生活する者はその環境を実感を持って認識している。
・決して地上の人間が想像しがちなように実態のない、フワフワとした取り止めのない世界ではないことを知っていただきたい。中には死んだことに気がつかない者がいるほど、地上生活と同じ主観と客観の生活が営まれているのである。
・そのことが、なかなか信じられないのは、実は今生活している地上界を構成している「物質」そのものについての理解ができていないからに過ぎない。最新の物理学が教えるところによれば、我々が、実感があるかに感じている物的環境は、究極的には「波動」で構成されているという、これはもはや常識といってよいほど、知られていることであるが、ではなぜ実態があるのに感じられないのか。
・それは、環境と身体が同じ波動でできあがっていて、五感によって、その存在が認識できる仕組みになっているからである。般若心経にいう「色即是空、空即是色」とは、このことであろう。ただ、認識できる範囲にも限界があり、その範囲外の波動は、認識できないから、幽界や霊界は存在しないのと同じことになる。
<死後の界層>
<四魂説>
・人間の自我の本体が<霊>であることは、すでに述べた。その霊的存在が地球という物質世界で生活を営むための媒体として授かるのが、物的霊体、俗に言う肉体である。これまでの人間科学は、肉体的欲望はもとより、人間の人間たる所以である精神的活動もすべてその肉体、具体的に言えば、脳の機能の反映であるというのが、基本的概念であった。それが、スピリチュアリズムによって、完全に覆され、肉体以外に三つの媒体があって霊がそれらを駆使して生活している。脳はそのネットワークに過ぎないことが判明した。
・ 四魂説というのがそれであるが、論理的な帰結として、肉体の活動の場として、物質界が存在するように、眼に見えない他の三つの身体にもそれぞれの活動の場があるはずだということになる。そして、それを明解に解いた霊界通信が入手されている。
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