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上は立派な美しい成人した振袖姿の女性であるとか、煙草を吸う「座敷女」がいるという話まで(1)

2015-10-31 22:07:37 | 森羅万象

 

『遠野のいまと昔』

もうひとつの『遠野物語』を歩いて

金原左門   有志舎    2015/7/30

 

 

 

<「平民の記録」と信仰>

・柳田国男は『遠野物語』を書いた後、1913年(大正2)に雑誌『郷土研究』を創刊し、民俗学を方法的に鍛え上げようとしていた。その発想の底には、かつて農商務省の官吏であり農政学者として生きてきた彼の農政理論が生きつづけていたのである。彼の発想法の一つは、農村の名望家ではなく、村の主要な構成員である農民の現状をどのように変えていくか、小農の利益をいかにはかっていくか、「地方農民」の私的共同事業を産業組合の思想に自主的に高め、いかに普及していくかを目指していた。わたしは、この農商務省の官吏の時期に芽生えた史実を重くみたい。

 

<喜善が語る「ザシキワラシ」>

・わたしは前述したように静岡県西部の浜松市近郊の農村に育ったが、そこには水田が四方八方に広がり、1キロメートルほど南に都田川が流れていた。とくに入梅どき(つゆの季節)、シトシト雨が降る晩に「おせん」と「かつ」の青色・赤色のひとだまが現れるとよく聞かされた。たわいのない話であるといえばそれまでである。しかし、岩手県の南部地域に分布する精霊、または妖怪の一種である「ザシキワラシ」(座敷童

衆)の話となると、あなどりがたいものがある。

 これは、神と妖怪の間を行ったり来たりする類のものである。おそらく信仰と恐怖がいりまじったものであろう。柳田国男が佐々木喜善の話を基に『遠野物語』をまとめた時には誰も「ザシキワラシ」などを問題にする者はいなかった。のちにそれがブームのような変化をもたらし、「学問のための1箇の高千穂峰」となったと紹介されている。

 

・この佐々木喜善の著書の冒頭にある二つの論文「奥州のザシキワラシの話」「ザシキワラシの話」は興味ぶかいものがある。『遠野物語』の第17話に載っているのは、土淵村大字飯豊の今淵家と同村大字山口の佐々木家の二つの事例であるが、「ザシキワラシ」の神が宿る家々は「富貴自在」になるという。第18話では、「ザシキワラシ」と思われる「童女の神二人」と土淵村山口の旧家山口孫左衛門の悲運について次のようにふれている。

 「(見なれぬ童女二人と道端で出会った男が)お前たちはどこから来たかと問えば、おら山口の孫左衛門がところから来たと答う。此から何処へ行くのかと聞けば、それの村の何某が家にと答ふ。その何某は稍離れたる村にて、今も立派に暮せる豪農なり。さては孫左衛門が世も末だなと思ひしが、それより久しからずして、此家の主従二十幾人、茸の毒に中(あた)りて一日のうちに死に絶え、七歳の女の子一人を残せしが、其女も亦年老いて子無く、近き頃病みて失せたり」。

 

・また、『遠野物語』の第17話に戻ると、佐々木の家では母がひとりで縫物をしていると、東京へ出かけて不在であるはずの主人の部屋で「がさがさと云う音」がして、これは怪しいと思い、板戸を開けてみると何の影も無く、またしばらくして、しきりに鼻をならす音が聞こえたので、この家にも「ザシキワラシ」がいるに相違ないと母は思うようになったという。

 

・佐々木喜善の前掲の『遠野のザシキワラシとオシラサマ』によると、一般に、「ザシキワラシ」は、その土地の豪農や名主などの旧家の奥座敷に棲みつくということで、その家の「富貴繁昌」が続き、「ザシキワラシ」が居なくなると、家運が傾く前兆であるといわれてきた。

 ところで、「ザシキワラシ」の別名をあげると、「ザシキワラジ」「ザシキボッコ」「ザシキボコ」「ザシキモッコ」「ザシキワラス」「ザンギリコ」「カブキレワラシ」「カラコワラシ」「クラワラシ」「クラボッコ」「コメツキワラシ」「ノタバリコ」「ウスツキコ」「チョウビラコ」「ホソデ」「ナガテ」と17も別の表現がある。この別名は、前掲の『遠野のザシキワラシとオシラサマ』所収の「奥州のザシキワラシの話」に紹介されている。

 柳田が『妖怪談義』で佐々木喜善の研究が群を抜いていたと激賞していたように、佐々木の「ザシキワラシの話」などをみると、「ザシキワラシ」が一筋縄で解釈できるとは思われない。まず童であるが、12、3歳どころか、下は4、5歳かと思えば、上は立派な美しい成人した振袖姿の女性であるとか、煙草を吸う「座敷女」がいるという話までさまざまである。

 

<喜善の説く「オシラサマ」>

・いずれにしても、精霊や妖怪が子どもの姿に似ていることは間違いない。一説によると、子どもは神と人間をつなぐ存在であるという、民間信仰に発しているようである。このような説は、庶民の世界において納得のいく見解を示していよう。

 

・さらに「ザシキワラシ」の神霊とならんで佐々木喜善が強調しているのは「オシラサマ」である。前掲の『遠野のザシキワラシとオシラサマ』によると、「オシラサマ」の神体は「桑樹の四枝」出せる枝、すなわち四体にしてこの四体を手離すと罰を受けると信じられている。

 

<河童の話と間引き説>

・その河童は、ときにはユーモラスに、あるときは人間生活に役立つ功徳をほどこす。『遠野物語』によると、河童の話は第57話を中心にその前後に出てくる。この本によると、河童は実在する動物としてえがかれているが、それはもちろん柳田の意図によるものである。

 遠野郷の川という川には河童が多く住んでおり、猿ヶ石川は特に多いといわれている。

『遠野物語』の第55話はこう切り出してから次のようにのべる。

 

 「松崎村の川端の家にて、二代まで続けて河童の子を孕みたる者あり。生れし子は斬り刻みて一升樽に入れ、土中に埋めたり。其形極めて醜怪なるものなりき。女の聟の男は新張村の何某とて、これも川端の家なり。其主人人に其始終を語れり。かの家の者一同ある日畠に行きて夕方に帰らんとするに、女川の汀に踞りてにこにこと笑ひてあり。次の日は昼の休に亦此事あり。斯くすること日を重ねたりしに、次第に其女の所へ村の何某と云ふ者夜々通ふと噂立ちたり」。

 この伝承については、前掲の『注釈遠野物語』は、前近代において毎年のように襲いかかる凶作・不作による飢饉にさいし、間引きを正当化するために河童を利用したのではないかと、うがった見方をしている。河童は、人の世に役立っているという事にもなるが、その河童の生棲の場が常堅寺の裏を流れる足洗川のカッパ淵である。

 

・足洗川は、猿ヶ石川の支流の一つで、いまでも澄んだ水が流れ、木々の茂みに覆われた川だった。この川淵に棲む多くの河童の愛らしさとほほえましさについて、『遠野物語』の第58話はこんな話を載せている。

 

 「小烏瀬川の姥子淵の辺に、新屋の家と云ふ家あり。ある日淵へ馬を冷しに行き、馬曳の子は外へ遊びに行きし間に、河童出てゝ其馬を引込まんとし、却りて馬に引きずられて厩の前に来たり、馬槽に覆はれてありき。家の者馬槽の伏せてあるを怪しみて少しあけて見れば河童の手出たり、村中の者集りて殺さんか宥さんかと評議せしが、結局今後は村中の馬に悪戯をせぬと云ふ堅き約束をさせて之を放したり。其河童今は村を去りて相沢の滝の淵に住めりと云ふ」。

 なお、カッパ淵の岸辺には、河童神を祀った小さな祠があり、子持ちの女性が乳がでるようにと願をかけるとかなうといわれている。願かけには、赤い布で乳の形をつくり祠に収めるのが習いであるとされていた。

 

・遠野の河童は、他所の河童の顔が青いのにくらべて、面が赫いといわれている。その河童がここでは生き抜いていく庶民の力になっていることに注目したい。遠野と河童のつながりはふかく、『遠野物語』での第59話にはこうある。

 「遠野の河童は面の色赫(あか)きなり。佐々木氏の曾祖母稺(おさな)かりし頃友だちと庭に遊びてありしに、三本ばかりある胡桃の木の間より、真赤なる顔したる男の子の顔見えたり。これは河童なりしとなり。今もその胡桃大木にて在り。此家の屋敷のめぐりはすべて胡桃の樹なり」。

 

・また、河童は猿の足と同じように「親指は離れて人間の手の跡に似たり」という。柳田国男の説である。この柳田説について、前掲の『注釈遠野物語』は『定本柳田国男集27』を引用して、イタチの足跡ではなかったかと批判する高橋喜平のような向きもあるという。いまもって『遠野物語考』は未見であるが、『注釈遠野物語』のよいところは、この両説を引用しているだけでなく、幻想である妖怪まがいの河童の足跡などあろうはずはないといいきっているところである。

 

<三島の文学上の評価>

・さて、三島由紀夫が『読売新聞』(1970年6月12日付)の「名著再発見」に載せた文章のなかで『遠野物語』について書いている。三島の死の5ヵ月前頃である。

 

・それにしても、長年にわたって読んできたとはいうものの、三島の美文調は、世間を騒がせた割合には色あせていない。本来の美意識のなせる業であるのか、それとも三島の素質によるものであろうか。三島の本心がでている、最初の文章がふるっている。『遠野物語』は「日本民俗学の発祥の記念塔ともいうべき名高い名著であるが、私は永年これを文学として読んできた」。なかでも、その序文は名文で何回となく読みかえしてきたという。それは、名文であるだけでなく、柳田の「若き日の抒情と哀傷が滲んでいる。魂の故郷へ人々の心を埒し去る詩的な力」にみちみちている。

 三島が『遠野物語』を文学として読んでいたのは事実である。『遠野物語』が三島の文学手法の手本になっていることは、短文でありながら、密度が濃いこの文章にうかがえる。

 わたしは、ある著名な作家から短文をまとめることについて懇々と話をうかがったことがある。長文に染まったわたしは短文が不得手である。柳田の学がすべてそういうわけではないが、三島は、柳田を、「言葉を吝(お)しむこと金を吝しむが如くするエコノミーの極致が見られる」と称揚している。

 

<三島の『小説読本』>

・三島の「没後40年記念出版」として前掲の『小説読本』が刊行された。そのなかの文章で、三島は昔、感銘を受けた書物を再読して、気づかなかった点を豊かに発見する実例として『遠野物語』をあげている。

 三島は自決するころになって「自分のたのしみのためだけの読書」としての柳田の『遠野物語』を再読していた。文中の「だけ」がなにを意味していたかは不明である。自決を覚悟していたのか、それとも予期せざるをえなかったのか、あまりにも距離がありすぎてわたしなどは想像さえできない。

 

・ただ一ついえるのは「たのしみ」かたが三島独特のものであるということだ。三島は名文だとして序文を推すと同時に躊躇なく『遠野物語』の第22話をとりあげている。この話は、佐々木喜善の曽祖母が亡くなった夜のできごとである。喪の間は火を絶やすことができないので、祖母と母が二人して大きな囲炉裡の両側に座り母が炭を継ぎ足していた。その時に、死去したはずの曾祖母が二人の女の脇を通り、親戚の人々が寝ている座敷に近よろうとした。その時、その場にいた「乱心のため離縁せられたる婦人」が「おばあさんが来た」とけたたましき声で叫び、その声で眠りをさました人々は、ただただおどろくばかりであったというもの。

 

・話の筋道はたったこれだけである。三島が、『小説読本』のなかで、「あ、ここに小説があった」と三嘆したのは、「(曾祖母の霊が)裾にて炭取にさはりしに、丸き炭取なればくるくるとまはりたり」というくだりである。

 この「怪異譚」の焦点、いいかえれば「日常性との疑いようのない接点」は三島自身が縷縷説明しているけれど、わたしなどには「炭取の廻転」に思いは達しないであろう。三島のいうように、小説がもともとは「まことらしさ」の要請に発したジャングルであるとすれば、「現実を震撼させる」ことによって幽霊(言葉)を現実化する根源的な力を備えていたのである。三島に言わせれば、それは長たらしい叙述から生まれるものではなくして、わずか1ページの『物語』がみごとな小説をつくりだしていたのである。

 

 

 

 

 

 

『国際化時代と『遠野物語』』

石井正己     三弥井書店     2014/9

 

 

 

 

 

「『遠野物語』における人間と妖怪のエコロジー   金容儀」

 

<人間と妖怪のエコロジー>

・私は2009年2月に柳田国男の『遠野物語』を韓国語で翻訳して紹介した。

 

・『遠野物語』で語られる人間と自然の共生において、特に私が興味を持ったのは、人間と妖怪の共生である。『遠野物語』には多様な妖怪が登場している。私の調査によると、『遠野物語』に収録されている119話の話の中で、妖怪が登場する話は合わせて73話にのぼる。『遠野物語』は、「妖怪物語」と言っても過言ではないだろう。

 

<『遠野物語』における妖怪伝承の類型>

・山の怪には、山人、山男、山女、山神、山姥などが登場する。動物の怪には狐、鹿、猿などがある。家の怪にはオクナイサマ、オシラサマ、ザシキワラシ、カクラサマなどがある。水の怪の典型的なものが河童(川童)である。雪の怪としては雪女があげられる。

 

<山に棲む妖怪>

・「山の怪」の中でも、特に山男や山女が頻繁に登場している。山男と山女は、それぞれ一人で現れる場合もあり、山男と山女がいっしょに登場する事例を取り上げてみたい。

 

(事例1;第3話)

・山々の奥には山人住めり。栃内村和野の佐々木嘉兵衛という人は今も七十余にて生存せり。この翁若かりしころ猟をして山奥に入りしに、遥かなる岩の上に美しき女一人ありて、長き黒髪を梳りていたり。顔の色きわめて白し。不敵の男なれば直に銃を差し向けて打ち放せし弾に応じて倒れたり。そこに駆けつけて見れば、身のたけ高き女にて、解きたる黒髪はまたそのたけよりも長かりき。のちの験にせばやと思いてその髪をいささか切り取り、これを綰ねて懐に入れ、やがて家路に向いしに、道の程にて耐えがたく睡眠を催しければ、しばらく物蔭に立寄りてまどろみたり。その間夢と現との境のようなる時に、これも丈の高き男一人近よりて懐中に手を差し入れ、かの綰ねたる黒髪を取り返し立ち去ると見ればたちまち睡は覚めたり、山男なるべしといえり。

 

・(事例1)には、山男の姿形について具体的に語られていないが、『遠野物語』の他の事例と合わせて考察すると、山男は背が高くて目がきらきらしているのがふつうである。

 

・即ち『遠野物語』の第7話、第28話、第29話。第30話、第92話に登場する山男は、例外なく背が高くて目が鋭いという特徴を持っている。そして山女の姿形は、長い黒髪に顔の色が極めて白いという特徴を持っている。

 

・また『遠野物語』には、山男に近い存在として山の神が語られている。『遠野物語』の第89話、第91話、第102話、第107話、第108話などに山の神が登場するが、ここに登場する山の神の姿形は背が高くて顔が赤く、目が鋭いという定型化されたイメージで語られている。即ち山の神のイメージは山男のイメージと重なっていることがわかる。これは遠野の人々の間で、山男と山の神が同類の存在として認識されていたことを意味する。

 

<この世とあの世を往来する亡霊>

・妖怪の類型から言うと、亡霊は山の怪に次いで第二位を占めている。それらの中でも、第22話、第23話、第54話、第77話、第78話、第79話、第81話、第82話、第86話、第87話、第88話、第99話などは、現実世界(この世)に現れた亡霊をその親戚にあたる人や知り合いの人が目撃したという筋になっている。つまり目撃者(あるいは話者)が出会った亡霊の話がかなり具体的に述べられている。

 

 これも一種の人間と妖怪の「共生」と受け止めることができるであろう。即ち少なくとも『遠野物語』の世界では、この世とあの世は完全に断絶されておらず、何かのきっかけがあれば、亡霊(死霊)がこの世に現れ、人間との共生をはかっていたと言える。

 

・逆に人間のほうがあの世に出向いた後、この世に戻ってくる場合もある。例えば『遠野物語』の第97話はいわゆる臨死体験に関する話である。死んだと思われた菊池松之丞という人があの世を体験してから、この世に戻ってくる。

 

・(事例2:第54話)は、川井という村の長者の奉公人が山に木を伐りに行って、水中に斧を取り落したことがきっかけになって、水中という異郷を訪問し、2、3年前になくなった主人の娘に出会った話である。

 

・長者の奉公人が水中を訪問したことによって、「その方身上良くなり、奉公をせずともすむように」なったところは興味深い。なぜならば説話の世界では、主人公が異郷を訪問したことによって、異郷のもの(援助者)の助けによって金持ちになるというモチーフが多いからである。つまり人々の間で、異郷とは現世に富をもたらす世界として認識されていたのである。

 

<人間の家に棲む妖怪>

・『遠野物語』には、家の怪として、オクナイサマ、オシラサマ、ザシキワラシなどが伝えられる。これらの妖怪はどれも家の興亡を左右する家の神としての属性をも持っている。

 

<河童のエコロジー>

・河童は日本の水の怪の代表的な存在である。河童を素材にしたキャラクター商品が出回り、漫画やアニメーションなどにも頻繁に取り上げられていることを考えると、日本人の間にかなり親しまれている妖怪であることがわかる。

 

・一般に河童の属性としては、駒をひく、肝を抜く、相撲を好む、富を授ける、キュウリを好むなどが取り上げられるが、それら河童の属性は、人間と河童の間に行われてきた交渉ないしは共生を意味すると言える。つまり人間側から見て、河童とは駒をひく厄介な存在、子どもの胆を抜く恐ろしい存在であるが、交渉がうまくいった時には、富を授けてくれるありがたき存在でもあったのである。

 

<事例7:第55話>

・川には川童多く住めり。猿ヶ石川ことに多し。松崎村の川端の家にて、二代まで続けて川童の子を孕みたる者あり。生まれし子は斬り刻みて一升樽に入れ、土中に埋めたり。その形くわめて醜怪なるものなりき、女の婿の里は新張村の何某とて、これも川端の家なり。その主人人にその始終を語れり。かの家の者一同ある日畠に行きて夕方に帰らんとするに、女川の汀に踞りてにこにこと笑いてあり。次の日は昼の休みにまたこの事あり。かくすること日を重ねたりしに、次第にその女のところへ村の何某という者夜々通うという噂立ちたり。始めには婿が浜の方へ駄賃附に行きたる留守をのみ窺いたりしが、のちには婿と寝たる夜さえくるようになれり。川童なるべしという評判だんだん高くなりたれば、一族の者集まりてこれを守れどもなんの甲斐もなく、婿の母も行きて娘の側に寝たりしに、深夜のその娘の笑う声を聞きて、さては来てありと知りながら、身動きもかなわず、人々いかにともすべきようなかりき。その産はきわめて難産なりしが、或の者のいうには、馬槽に水をたたえその中にて産まば安く産まるべしとのことにて、これを試みたれば果たしてその通りなりき。その子は手に水搔あり。この娘の母もまたかつて川童の子を産みししことありという。二代や三代の因縁にはあらずという者もあり。この家も如法の豪家にて何の某という士族なり。村会議員をしたることもあり。

 

・(事例7)は、人間と妖怪の間に行われた様々な交渉の中でも、婚姻を媒介とした交渉を物語っている。いわゆる「異類婚姻譚」に属する話で、松崎村に住む川端家の女が河童の子をみごもった話である。類話でも、ほとんど河童のほうが男性、人間のほうが女性として語られているが、(事例7)でも、河童のほうが男性、人間のほうが女性になっている。

 

<『遠野物語』における妖怪伝承の特徴>

・以上『遠野物語』の妖怪伝承について概観した。『遠野物語』に伝わる妖怪の特徴として、おおよそ以下の三つをあげることができるであろう。

 第一に、妖怪が現れる場所として、山の中が圧倒的に多いことである。

 

・遠野の人々の間でも、山は妖怪などが棲んでいる非日常的な空間として認識されていた。多くの場合、妖怪に出会った人たちは、山の中に仕事場を持っていた人たちである。即ち岩焼きや狩りを生業としていた人たちによって、妖怪に出会った体験が語られている。

 

・第二に、話に登場する妖怪の姿形がかなり具体的に述べられていることである。これは『遠野物語』に限らず、日本の妖怪伝承の一つの特徴であると言えるであろう。例えば山男は、背が高くて目が鋭いという定型化されたイメージで語られる。また山女のイメージは、長い黒髪に顔の色が極めて白いという特徴を持っている。他の妖怪の場合も、ほとんど決まったイメージで語られている。

 

・第三に、人間と妖怪の共生である。もともと妖怪とは非常に恐ろしい存在であるが、前近代の共同体に欠かせないダイナミックな共同体を作ってきたといえる。

 

 

 

<●●インターネット情報から●●>

「青空文庫」からの『遠野物語』

 

「五四」 閉伊川(へいがわ)の流ながれには淵(ふち)多く恐ろしき伝説少なからず。小国川との落合に近きところに、川井(かわい)という村あり。その村の長者の奉公人、ある淵の上なる山にて樹を伐るとて、斧(おの)を水中に取(と)り落(おと)したり。主人の物なれば淵に入りてこれを探(さぐ)りしに、水の底に入るままに物音聞ゆ。これを求めて行くに岩の陰に家あり。奥の方に美しき娘機(はた)を織りていたり。そのハタシに彼の斧は立てかけてありたり。これを返したまわらんという時、振り返りたる女の顔を見れば、二三年前に身まかりたる我が主人の娘なり。斧は返すべければ我がこの所(ところ)にあることを人にいうな。その礼としてはその方身上(しんしょう)良(よ)くなり、奉公をせずともすむようにして遣(や)らんといいたり。そのためなるか否かは知らず、その後胴引(どうびき)などいう博奕(ばくち)に不思議に勝ち続(つづ)けて金溜(かねたま)り、ほどなく奉公をやめ家に引き込みて中(ちゅう)ぐらいの農民になりたれど、この男は疾とくに物忘れして、この娘のいいしことも心づかずしてありしに、或る日同じ淵の辺(ほとり)を過(す)ぎて町へ行くとて、ふと前の事を思い出し、伴ともなえる者に以前かかることありきと語りしかば、やがてその噂(うわさ)は近郷に伝わりぬ。その頃より男は家産再び傾(かたむ)き、また昔の主人に奉公して年を経たり。家の主人は何と思いしにや、その淵に何荷(なんが)ともなく熱湯を注そそぎ入れなどしたりしが、何の効もなかりしとのことなり。

 

○下閉伊郡川井村大字川井、川井はもちろん川合の義なるべし。

 

「九七」 飯豊(いいで)の菊池松之丞(まつのじょう)という人傷寒(しょうかん)を病み、たびたび息を引きつめし時、自分は田圃に出でて菩提寺(ぼだいじ)なるキセイ院へ急ぎ行かんとす。足に少し力を入れたるに、図らず空中に飛び上り、およそ人の頭ほどのところを次第に前下(まえさが)りに行き、また少し力を入るれば昇ること始めのごとし。何とも言われず快(こころ)よし。寺の門に近づくに人群集せり。何故(なにゆえ)ならんと訝(いぶか)りつつ門を入れば、紅(くれない)の芥子(けし)の花咲き満ち、見渡すかぎりも知らず。いよいよ心持よし。この花の間に亡(な)くなりし父立てり。お前もきたのかという。これに何か返事をしながらなお行くに、以前失いたる男の子おりて、トッチャお前もきたかという。お前はここにいたのかと言いつつ近よらんとすれば、今きてはいけないという。この時門の辺にて騒しくわが名を喚(よ)ぶ者ありて、うるさきこと限りなけれど、よんどころなければ心も重くいやいやながら引き返したりと思えば正気づきたり。親族の者寄り集(つど)い水など打ちそそぎて喚(よ)び生(い)かしたるなり。

 

 

『天使クラブへようこそ』

(山川紘矢) (マガジンハウス) 1999/9

 

 

 <宇宙人に会える日がすぐそこに来る予感がします>

・「そういうこの僕も、一度だけ、確かにUFOを見たことがあります。それはもう10年ほども前のことですが、ある日、知り合いの方で、UFOをいつも見るという若い女性が、赤坂の我が家を訪ねてきたことがありました。彼女には、いつもUFOがくっついていて、彼女を守っているらしいのです。でも、彼女以外には見えないなんて、ちょっと残念、その若い女性が、帰る時、地下鉄の青山1丁目駅まで送っていきました。草月会館の横から青山通りに出て、高橋是清公園のところを左に曲がったときのことです。前方の西の空に、何か不思議な光が見えるのです。あまり大きくない光間のですが、その動きがとても奇妙、クルクルと輪を描くような動き方で、今まで見たこともないようなものです!思わず彼女の顔をのぞき込んで、「あれ、あの光は何?」と聞いてしまったんです。「UFOよ」と彼女は平然として、別にとりたてて驚くことも、喜ぶこともなげでした。やれやれ。

 

・というわけで、僕もとうとう、彼女と一緒にいたおかげで、UFOを見てしまったらしいんです。そんなに大きなものでもなく、単なる光で、たいしたものではなかった、というのが、僕の感想です。もっとちゃんとしたコーヒー皿みたいな形のUFOか、ぜいたくかもしれませんが、UFOが編隊を組んで飛んでいるのとかを見てみたいのです。

 

・最近、アリゾナ州で大勢の人が目撃したそうですが、日本ではあまりニュースになりませんでしたね。皆さんの中で、UFOだけでなく、宇宙人が見える人がいますか?この間、バシャールあや子さんという方に会ったら、彼女は、アリゾナ州のセドナに行った時、宇宙人に会ったのだと言ってました。背が低くて可愛いのだそうです。そして、とても友好的なんだということで、その宇宙人と話をしたとも言っていました。彼女は、宇宙人の口真似、動作までもしてくれたのです。でたらめな作り話をする人とも思えないから、きっと本当のことなんだろうと思います。彼女は、エササニ星の住人、バシャールをチャネルする人なのだから、宇宙人にあっても、不思議ではないということでしょうか。しかし、同じ場所にいた人でも、その宇宙人が見えない人もいるそうです。特定の人にだけ見える透明人間のようなものなのかな? やっぱり、見えない僕にとっては不思議です。

 

・UFOを見たという人の話はよく聞きます。有名なちゃんとした人もいっぱいいるんです。一人一人の体験は、本当にそれぞれです。僕たちが最初に翻訳したシャーリー・マクレーンの『アウト・オン・ア・リム』(地湧社、角川文庫)には、UFOを見た人の話、さらにはマヤンという名の宇宙人に会ったという話が出てきます。マヤンは小柄な女性で、アーモンド形の眼をしていたそうです。その『アウト・オン・ア・リム』には精霊も出てくるのですが、僕は訳している時、精霊の話も、宇宙人の話も、まさか、そんなことはありうるはずがない、って思っていました。

 

・そうしたら、精霊のほうは本当に出てきちゃったんです。サン・ジェルマン伯爵という人《?》です。最初はアメリカ人のリア・バイヤースというチャネラーを通してでてきたのですが、初めて、サン・ジェルマン伯爵と話した時、『近い将来、チャネラーを通さないで、直接、お前たちと交信するから』と言われたのです。でも、その話は、とても信じられなかった。しかし、それは本当だったのです。サン・ジェルマン伯爵からのメッセージを、直接テレパシーで受け取ることが出来るようになり、それを自動書記でノートに書き写し、いろいろなことを教えてもらいました。講演会やセミナーの時は、僕たちのまわりにいて、精霊たちがすべてを取り仕切ってくれるのです。実際に自分に起こっていることですから、これはもう疑いことはできません。このことから察しえるに、友好的な宇宙人だって、いつ何時、僕の目の前に現れるかもしれない、ということになります。

 

・ある知り合いの男性のことなんですが、彼は宇宙船の中で行なわれた国際会議ならぬ、宇宙会議に出席したことがあると、声をひそめて僕に言ったんです。彼は何か怖がっている様子で、詳しい話はしてくれませんでした。他人には話してはいけないと口止めされていると言っていました。怪しいよね。この話は、いくらこの僕でも、素直には信じられないのですが・・・・・。でも仮に、この僕が自分には天使がくっついていて、いろいろ教えてくれるんだ、とそこらの人に言っても、『まさか、そんなこと』と人には思われることでしょう。僕も、宇宙人に会った、と言う人ぐらいまでなら信じられるけれど、宇宙船の中で、会議に出席したという話を聞いても、『まさか、そんなこと』となかなか信じられません」。

 

 

 

『三島由紀夫の霊界からの大予言』

(霊界通信が警告する地球破局後の人類)

(太田千寿)  (にちぶん文庫)   1994/7

 

 

<死後の三島由紀夫は、太田千寿を通じて自動書記で霊界通信を送ってきた。>

 

・編集部「霊界へ行ってから、肉親とか親類とかいう血縁者や、生前親しくしていた人たちに会えるのでしょうか?」

 三島「めぐり会える人と、なかなか会えない人といます。霊界へ行くと輪廻転生のもとへもとへと帰っていくのです。だから、かならずしも会えるというものではありません。霊界に来て、すぐに三段も四段も上がってしまう霊魂もあるのです。それは、霊界では霊力の強い魂が修行している段階に、引っ張られていってしまうのです。そういう仕組みになっていますから、肉親と霊界でのサイクルが、よっぽど同じでなければ会えないでしょうね。僕は、妹にはすぐに会えましたけれど、まだ父にも祖母にもめぐり合っていません。いつか会うときがあるかもしれませんが、それがすぐくるのか、何十年、何百年先か分からないのが実情です」。

 

 「たとえば、幽霊の出るのも、霊界の一種の演技です。霊界には完全にコンピュータ式になっている映像システムがあって、それを使って幽霊を人間界に送り込んでみる」。

 

 

 

 


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