日本は津波による大きな被害を受けるだろう UFOアガルタのシャンバラ

エーテル界の人類の源郷か?神の国か?天上のエルサレムか?
チャネラーとコンタクティの情報を集めています。森羅万象も!

なにしろ、日本で一番皇族を殺めている氏族といえば、「藤原」なのであり、それはなぜかと言えば、「気に入らない者」「邪魔になった者」は、たとえそれが皇族でも容赦しない。(5)

2019-11-20 06:16:23 | 森羅万象


『闇の魔多羅神』   変貌する異神の謎を追う
川村湊  河出書房新社   2008/11/19



<山王一実神道の秘儀>
・山王権現と天照大神は同体とされているから、東照大権現を中心とする東照三所権現では、山王権現=天照大神と、魔多羅神(日光権現)=三輪明神(=山王権現)が、その信仰を支えることになる。

<転輪聖王としての魔多羅神>
<日光の魔多羅神>
・東照宮に魔多羅神が祀られていることは、日光山常行堂に魔多羅神宝殿があり、そこで秘仏としての魔多羅神が鎮座していることからも明らかだ。

・文献的にも、東照大権現の「御本社」、山王権現の「山王」、「魔多羅神」の三つの御輿が、久能山から日光山へと遷座したことが記録されている。

・日光東照宮では、これら三柱の神は東照三所権現として祀られるのだが、主祭神の「御本社」、すなわち東照大権現はともかくとして、山王権現と魔多羅神とは、なぜ東照宮に祀られることになったのだろうか。山王権現は、天海が天台宗の僧であり、ほかならぬ山王一実神道の提唱者であったことを思い合わせれば当然ともいえるが、魔多羅神については、その必然性が今ひとつ見当たらないのである。

・ここでの天海の主張は、家康が自分の遺骸を日光山に移す前に、先ず久能(久野)山に葬ることを遺言したのは、久能山が観音浄土としての補陀落であり、その守護神として魔多羅神がいるのだが、日光山の奥の院もまた同じ名前の同じ神(魔多羅神)が守護神であるということによっているというものだ。そのことを家康が予め知っていたかということは疑問である。

・最澄が入唐し、青龍寺に到達した時に魔多羅神が守護神として現れたものであり、金毘羅神でもあり、その“本地”(仏教主体の本地垂迹説とは逆に、神体が“本地”なのである)は、三輪明神だと名乗ったというのである、

<山王・大三輪・釈迦・天照大神>
・三輪明神は、日本最古の神といってよく、大和の大神神社の祭神である。この神社の御神体は、三の鳥居から仰ぎ見る三輪山の山そのものであり、日本の神道においてもっとも古い形の自然崇拝(山岳信仰)を表しているといわれている。大物主命ともいわれ、大国主命のこととされているが、三輪山伝承にあるように、蛇体の神であり、古くは三輪山に棲息する蛇を神とするアニミズム的な信仰に基づいているものと思われる。

・金毘羅神の父が素戔嗚尊というのは、いささか面妖だが、これは素戔嗚尊が朝鮮渡来の韓神、唐神であって、牛頭天王などと習合する異神の要素をもともと持っていたことを示しているのかもしれない。異神、外国神としての魔多羅神が素戔嗚尊の“本地”としてあるのも、そういう意味では金毘羅神=三輪神という関係よりも、同質的なつながりを持つものといえるのである。

・ところで、天照大神は、記紀神話の世界(伊勢神道の世界)において最高神とされているのだが、この神に対抗できるのは、最古の神とされる大神神社の祭り神である三輪明神にほかならないだろう。山王権現は、日吉大社の本宮(西の本社=大宮権現)である大己貴命(おおなむち)(素戔嗚尊の子孫=三輪明神)を主祭神としている。つまり、山王神は、三輪明神にほかならず、東照三所権現の一柱である山王権現は、三輪明神であって、それは、山王一実神道や『本朝神社考』の記述によれば、魔多羅神と同一の神ということになる。

・また『延暦寺護国縁起』や『渓嵐拾葉集』では、山王権現と天照大神は同体とされている。

・上代は、天皇も神道によって政権祭祀を行っていたが、仏法が伝来されて以降、王臣とともに、仏道に帰依することとなった。それは、仏教の経書にある「輪王」、つまり八千大千世界の支配者であると同時に、釈迦の唱えた仏法の最大の守護者としての「転輪聖王」(てんりんじょうおう)をイメージさせるものであり、山王一実神道は、天子(天皇)―大織冠(藤原鎌足)-徳川家康ーという系譜を作り上げ、そこに転輪聖王の面影を重ね合わせようとするものなのである。家康を祀る寺院が「輪王寺」と名付けられたのは、まさに、この「輪王」から来ていることは間違いない。

・武力による世界制覇の主たる転輪聖王と、仏法による全宇宙の主である釈迦如来とを、一身に体現する東照大権現という図柄がそこでは描かれようとしているのであり、神道にしか基づかない天照大神よりも、仏法にも基づく東照大権現のほうがもっと優位の存在であることを、そこでは主張しているのである。

・魔多羅神は、転輪聖王と釈迦とを結びつける媒介の役割を果たす存在なのだ。



『「日本の神さま」おもしろ小事典』
久保田裕道     PHP研究所   2008/11/22



<魔多羅神(またらじん)>
<職人の神さまー後ろに潜む芸能神!>
<一般の人はあまり目にすることのない神さま>
・実際に仏教では悟りの妨げになる神であるとされています。なぜそんな神が祀られるようになったのかというと、慈覚大師円仁が唐の国から帰って来る時に、魔多羅神から「私を拝まないと往生できないぞ」とのお告げがあったというのですね。そのため、天台宗の本山である延暦寺の中にある「常行堂」に祀ったのが最初だとされています。

・このようにひっそりと祀られていた魔多羅神ですが、やがて「修正会」と呼ばれる正月の法要に、芸能の神さまとして担ぎ出されたのです。

・魔多羅神を描いた像を見ると、普通に日本の貴族のようなスタイルをしています。そしてお付の童子が2人。この童子たちは笹を手に踊る様子が描かれています。また立体的な神像では、鼓を持って歌う様が彫られていて、いずれにしても芸能との関わりが考えられそうです。

・それから、魔多羅神は天台宗の「玄旨帰妙壇」という儀礼の中でも中心的な役割を果たしました。この儀礼では、北斗七星(あるいは北極星)を祀ることから、魔多羅神もまた星神とする説もあります。事実、魔多羅神の絵画には北斗七星の図が入ったものが多いのです。

・いずれにしても、一般の人はあまり目にすることのない神さまだと言うことができますが、京都ではこの魔多羅神が大々的に登場する祭りがあります。それは、京都の奇祭として知られる太秦にある広隆寺で十月におこなわれる「牛祭」。

<氏神    先祖の神さま  何かとお世話になってます!>
・初詣に七五三、「氏神さま」にお参りに行くという人は多いでしょう。もちろん、氏神という名前の神さまがいるわけではありません。その地域を代表する神社で祀っているのが、氏神ということになるのです。自ずと、そのエリアに住んでいる人が「氏子」とされるわけですね。

・ただし本来の氏神とは、文字通り「氏」、つまり一族の神さまであって、地域の神さまではありません。たとえば、平安時代に権勢を誇った藤原氏の氏神と言ったら、春日大社。源氏の氏神は、鎌倉に鶴岡八幡宮があることから判るように八幡神社、平家の場合は広島にある厳島神社、というように一族ごとに祀る神さまが決まっているわけです。

・そんなふうにして氏神は、地域の神として語られるようになりました。もともと地域の神さまを指すのに「産土神」という言葉もあったのですが、いつしか両者は同じものを指すようになったわけです。



『江原啓之 本音発言』
江原啓之    講談社    2007/10/19



<スピリチュアル基礎用語>
・(あの世)
死後の世界。この世との境にある幽現界を経て、幽界、霊界、神界へ移行する。

(カルマ)
因果律、業ともいう。自分の行動は善いことも悪しきこともいつか自分に返ってくることを意味する。

(グリーフケア)
家族や身近な人を亡くして悲しむ人(遺族)の心の痛みを癒す作業。江原の場合、亡くなった人のメッセージを伝えることによって悲しみを和らげる。

(幸福)
スピリチュアリズムにおける幸福とは、出世や収入などの物質的な成功ではなく、霊的真理によってたましいが浄化され、失う恐怖をなくすことを指す。

(シッティング)
霊能者が霊媒となり、霊的世界とコンタクトを取り、相談者から話を聞く前に一方的に相談者の属性や身の回りのことを言い当てていくこと。

(宿命と運命)
国籍や性別、家族など生涯変えることのできない人生の要素が宿命。それに対し、運命は自分の努力や周囲の協力で変えることのできる要素を指す。

(守護霊)
現世に生きる人間を見守っている霊的存在。

(スピリチュアリズム)
死後の世界や霊の存在を前提とした世界観および思想体系。スピリチュアリズムの真理(霊的真理)に基づいてカウンセリングを行うのがスピリチュアル・カウンセラー。

(大我と小我)
見返りを求めずひたすら他者に与えようとする考え方が大我で、自分のことを最優先する考え方が小我。

(たましい)
すべての人間の中に宿る霊魂のこと。スピリチュアリズムでは肉体はたましいの乗り物にすぎないと考えられる。

(波長)
たましいが生み出す想念のエネルギーを指す。波長には高低があり、偶然ではなく必然だと考えられている。

(物質中心主義的価値観)
すべての判断基準をお金やモノなどの物質に置いてしまう考え方、価値観。霊的価値観の対極にあるもの。時に物質主義的価値観、物質的価値観と省略して使われる。

(未浄化霊)
この世に未練や執着を残しているため、死後もあの世に帰れずにさまよっているたましいのこと。未浄化霊が生きている人間のたましいに撮り憑くことを「憑依」という。

(類魂(グループ・ソウル))
霊的世界におけるたましいの集合体。誰もが類魂の一部であり、類魂の全体の進化向上を目指している。

(霊界通信)
守護霊と交信することにより、メッセージを受け取ること。相談者などにとって、その必要がある場合のみ。メッセージがもたらされる。守護霊のメッセージから得られる教訓を広く「霊訓」と呼ぶ。

<スピリチュアリズム8つの法則>
1、 (霊魂の法則)自分が霊的な存在であることを意識して生きること。

2、 (階層の法則)肉体の死後、たましいは現世でいかに成長したかによって、それに応じた階層へと向かう。肉体を捨て「幽体」となると、最初は現世と幽界の中間地点である「幽現界」へ向かい、そこから「幽界」へ進み、やがて幽体をも脱ぎ捨て光となって「霊界」へと上昇する。死後の世界は明るい天国のような層から暗い地獄のような層まで幾重にも分かれており、現世での成長に応じて移行する層が変わる。

3、 (波長の法則)一言で言えば「類は友を呼ぶ」、波長の高いたましいはポジティブな出会いを引き寄せ、波長の低いたましいはネガティブな出会いを引き寄せる。みずからの魂を向上させることで波長を高めれば、志の高い仲間と出会うことができる。逆に魂の錬磨を怠ると、周囲にやる気のない人間が集まってしまう。

4、 (守護の法則)自分を見守ってくれる守護霊の存在を信じて生きること。依存してはいけないが、守護霊はどんなに苦しい試練の中にある時も、大きな愛で見守ってくれている。守護霊は役割によって4つに分けられる。生前から死後まで見守る中心的存在の「主護霊」、職業や才能を指導する「指導霊」、数年先までをコーディネイトする「支配霊」、これらを手伝う「補助霊」がいる。

5、 (類魂の法則)どのたましいも、帰るべき故郷として類魂(グループ・ソウル)を持っている。類魂をコップの水にたとえるなら、それぞれのたましいは一滴の水。現世での修行を終えたたましいは霊界に戻り、グループ・ソウルに混じり合う。すべての経験が類魂全体の叡智となり、それぞれのたましいが純化することでコップ全体の透明度を上げることを目指している。

6、 (因果の法則)自分のまいた種は、自分で刈り取らなければならない。自分の行動は必ず自分に返ってくる。自分がネガティブな想念を持っていれば、やがてネガティブな結果がもたらされる。自分が誰かを嫌うと、相手もまた自分を嫌うという現象はこのため、逆に、人に親切にすればいつか自分に返ってくるという「正のカルマ」もある。

7、 (運命の法則)運命とは変えられないものではなく、自分の力で作り上げていくもの、たましいを磨く努力によって人生を切り拓くことができる。一方、国籍や性別など自分の力では変えられないのが宿命、ケーキにたとえるなら、宿命がスポンジで運命がクリーム。スポンジの特性に合わせてクリームでデコレーションするように、どんな宿命であろうと、自分の努力で運命を拓けば人生を輝かせることができる。

8、 (幸福の法則)これまで挙げた7つの法則は欠けることなく実践すれば、霊的真理によって幸せを得ることができる。お金や出世などの物質主義的な成功を求めるのではなく、試練を克服しながら愛を学び、たましいを向上させることにより、「失う恐怖」から自由になることができる。それこそが、スピリチュアリズムにおける真の幸せを意味する。



『続 スピリチュアリズム入門』
高級霊訓が明かす霊的心理のエッセンス&霊的成長の道
  (心の道場)  平成8年4月15日



<宇宙人の存在とその様子>
<異次元の物質世界>
・高級霊の霊界通信は、宇宙に関する驚くような事実を明らかにしています。それは同じ物質世界でありながら、物質の状態が異なる別の物質世界(宇宙)があるということです。目に見える宇宙と目に見えない宇宙が存在している、次元の異なるさまざまな宇宙が重複して存在している、という宇宙像を描いています。

・こうした霊界通信が明らかにしている異次元の物質世界は幽界(最下層の霊的世界)と似ているように思われますが、そこは霊的世界ではありません。どこまでも物質次元に属する世界なのです。そうした異次元の物質世界が天体を取り囲むようにして存在し、そこに地球人とは肉体の次元を異にする人間(宇宙人)が住んでいると言うのです。

・太陽系のそれぞれの惑星にもこうした異次元の物質世界が展開していて、人間的存在(惑星人)が住んでいると霊界通信では述べています。そして、異次元木星には地球よりずっと進化した人間が存在し、異次元火星には最も進化の遅れた人間が存在しているということです。私たちの地球は、火星に次いで二番目に進化の遅れた惑星であると言われます。

・無数の異次元宇宙(そのどれもが物質次元の世界であって霊的世界ではない)があって、それらが重層して存在していると考えられます。

・異次元木星や異次元火星などを中心とした異次元宇宙が存在しているということです。その異次元惑星は私たちの地球人からは認識できません。

・宇宙人の進化の階段は第1レベルから第10レベルまであり、地球は第1レベルで、現在地球は、第2レベルへと上昇進化しているところだから、将来の地球人は、その潜在意識の心の力の10分の2を活用できるようになります。それは、DNAをもう1条活性化することが必要です。



『スピリチュアリズム入門』
スピリチュアリズムが明かす霊現象のメカニズム&素晴らしい死後の世界       (心の道場)  平成7年5月10日




<シルバー・バーチ霊の語る霊界の美しさ>
・「あなた方は、まだ霊の世界の喜びを知りません。肉体の牢獄から解放され、痛みも苦しみもない、行きたいと思えば、どこへでも行ける。考えたことがすぐに形をもって眼前に現れる、追及したいことにいくらでも専念できる。お金の心配がない、こうした世界は地上の生活の中には譬えるものが見当たらないのです。
 その楽しさは、あなた方には分かっていただけません、肉体に閉じ込められた者には、美しさの本当の姿を見ることができません、霊の世界の光、色、景色、木々、小鳥、小川、渓流、山、花、こうしたものがいかに美しいか、あなた方は、ご存じない。

・すでに死んで霊界にいる者の方が、生命の実相についてはるかに多くを知っています。住民の心には真の生きる喜びがみなぎり、適材適所の仕事に忙しく携わり、奉仕の精神にあふれ、互いに己の足らざるところを補い合い、充実感と生命力と喜びと輝きに満ちた世界です。

・ここは光と色彩にあふれ、芸術の花咲く世界です。この世界に来て芸術家は、地上で求めていた夢をことごとく実現させることができます。

・金銭の心配がありません。生存競争というものがないのです。弱者がいじめられることもありません。霊界の強者とは、弱者に救いの手を差し伸べる力がある、という意味だからです。失業などというものもありません。スラムもありません。利己主義もありません。宗派も経典もありません。あるのは神の摂理だけです。それがすべてです。
 地上のいかなる天才画家といえども霊の世界の美しさの一端なりとも地上の絵の具では表現できないでしょう。いかなる音楽の天才といえども、天上の音楽の旋律の一節たりとも表現できないでしょう。いかなる名文家といえども、天上の美を地上の言語で書き表すことはできないでしょう。

・あなた方は、地上の大自然の美を見て感嘆されますが、その美しさも霊の世界の美しさに比べれば、至ってお粗末な色あせた摸作程度でしかありません。地上の誰ひとり見たことのないような花があり色彩があります。小鳥もいれば植物もあり、小川もあり山もありますが、どれ一つとして地上のそれとは比較にならないほど、きれいです。そのうちあなた方も、その美しさをじっくりと味わえる日がきます。その時、あなた方は、霊になっているわけですが、その霊になった時こそ、真の意味で生きているのです」



『の異神と芸能』
谷川健一  河出書房新社  2009/6/9



<宿神と魔多羅神>
・秦河勝を祀るといわれている大酒(大避)神社は広隆寺の守護神の役割をもっており、実は地主神にほかならなかった。地主神は敬意を払われないときは、障礙神として妨碍するおそろしい神であった。この場合秦河勝は宿神であり、大避神社の地主神としての魔多羅神と一体化した「大荒神」であったと考えることができる。シュク神は在来の土地の神として荒神の側面を備えている。荒神は外来の悪霊の侵入を防ぐと共に、自分の占める土地を主張し、自分を共敬しないものに対しは敵対者、すなわち障礙神としてふるまう。魔多羅神は芸能神としてしての宿神であり、また荒神としての宿神であったと思われるのである。

<魔多羅神  障礙と祝福の地主神>
<魔多羅神の微笑>
・上方には北斗七星が描かれている。魔多羅神が猿楽の鼓打ちに似た格好をし、二童子も笹と茗荷を持って舞うことは、魔多羅神が芸能神であったことを推測させるに足る。

<魔多羅神の神秘>
・魔多羅神の正体は明らかではない。本田安次は『神楽』の中で出雲の鰐淵寺について「天台の寺であるだけに、常行堂に魔多羅神をまつっているが、その信仰は今も固く、常行堂は常の日も、調査団から希望が出ても、扉を開けることもしない。魔多羅神の名を口にのぼすことさえも恐れられていたようである」と云っている。このように魔多羅神が恐れられるのは、それが障礙神の一面をもつからである。障礙というのは、人に幸福を与えるのではなく、障りや災いをもたらす神ということである。

<障礙神から福神へ>
・比叡山の魔多羅神と同類とされる大黒天もダキニ天も人の精気を奪って死にいたらしめる「奪精鬼」とされている。とはいえ、これらの神は障礙神としての否定的な機能を発揮することがあっても、その神通力のゆえに、転じて福神に変るという道筋をたどる。この不思議な逆転の役まわりを演ずるのは、魔多羅神も同様である。障礙神のもつ負のエネルギーを利用して、修業を妨げる天魔や天狗などを除去する立場に転換する。つまり、魔多羅神は、自分に不敬があれば、人間の往生を障礙する神であるが、一方では往生を引導するという両面をもつ神である。
・これまでの一般的な見解と異なる魔多羅神の本質がここには語られているが、折口の論点をいくつかを抽出してみる。

一 魔陀(多)羅神は、土地の精霊であり、地主神である。

二 土地の精霊は最初は人びとに反抗するが、やがて祝福するような姿勢に変わる。

三 太秦の広隆寺で、魔陀(多)羅神は土地の先住者であった。それが牛祭のときは、寺の仏を祝福しにやってくる。

四 大和猿楽でも、翁が春日の大宮、若宮へ祝福しにやってくる。翁はあとでは位の高い神という印象を受ける伝説を作りあげているが、それは変化した形であり、翁ももとは地主神とか土地の精霊にほかならなかった。



『日本人の心のふるさと(かんながら)と近代の霊魂学(スピリチュアリズム)』
(近藤千雄)(コスモス・ライブラリー)  2006/3



<サマー・ランド、ブルー・アイランド>
・言って見れば、「因果律による審判が行なわれるわけであるが、皆が皆、素直に更正するわけではないから、三つの階層に収まることになる。

・しかし、ここは、まだ虚構の世界で、死後の世界ではあっても、実相の世界ではないことが、肝心なところで、死ねば地獄か極楽へ行くとか、無で帰するというものではない。当分は、地上時代そのままの意識と姿で生活を続ける。驚くことに、自分が死んだことすら気づかず、地上時代と同じ感覚のまま生活している者がいるほどである。信じられないことであるが、それほど、幽体と幽界がうまくマッチしているということであろう。

・(コナン・ドイルが死後まとめて送ってきた死後の階層の実相)
「幽界」
・1、邪悪で、自己中心的な欲望しか持たない。
・2、邪悪性はないが低級な煩悩から抜け切れない者が集まっている。
・3、何事も思うがままに、叶えられる世界(サマー・ランド、ブルー・アイランド、極楽)

・「第二の死」。無意識状況を体験して霊界に入る。
1、知的な理解の世界。
2、直感的な悟りの世界。
3、形体なき存在への変化。神界へ上がる資質の不足な者は、再生する。

・再生への手続きが行なわれ、他の者は、神界へ行く。
1、宇宙の造化活動への参加と活動
2、宇宙的存在としての普遍的愛の活動
3、ニルバーナ、涅槃(ねはん)
それ以上は、(超越界)で、人間的な理知では知りえない。



『ブルーアイランド』
エステル・ステッド  ハート出版  1992/11



<ブルーアイランドの建物>
・霊界というと、非現実的で夢のような世界を想像なさるに違いありません。が、そうではなく、みなさんが外国に行くのとまったく同じなのです。地上と同じように実体があるのです。おまけに、比較にならないくらい興味のつきない世界です。
 やがて私たちは大きなドームのような建物の前に来ました。中を覗いてみると、ここも素敵なブルーで彩られていました。地上で見かける建物と変わらないのですが、その美しさが違うのです。

・そこにしばらく滞在して、それから軽い食事を取りました。私が地上でよく食べていたものに似ている感じがしました。ただし、肉類は見当たりませんでした。
 奇異に思えたのは、食事は必ずしも取る必要がないように思えたことです。目の前に置いてあるのですが、どうやらそれは必要性からではなくて、地上の習慣の名残にすぎなかったようです。

・父の説明によれば、あの建物は一種の休養施設で、地上からの新来者がよく集まるところだそうです。地上界の生活条件に近いものがいろいろと揃っていて、外観も地上の建物に似ているので、よく使用されるということです。同じ目的をもった建物は他にもたくさんあります。別の用途を兼ね備えたものもあります。

・それらの外観は一つ一つ異なり、似たものはありません。要するに“大きなビル”と考えればよろしい。博物館や美術館、あるいは巨大なホテルを想像されてもよろしい。だいたいそんなものに近いと思ってください。おとぎ話に出てくる夢のような宮殿を想像してはいけません。きわめて地上的で、変わったところは一つもありません。

・このブルーアイランドにはそうした建物が実にたくさんあるのです。というのも、この世界の第1の目的は、地上を去ってやってくる者が地上の縁者との別離を悲しんだり、無念に思ったり、後悔したりする気持ちを鎮めることにあり、当分の間は本人が一番やりたいと思うこと、気晴らしになることを、存分にやらせることになっているのです。

・元気づけるために、あらゆる種類のアトラクションが用意されています。地上時代に好きだったことなら何でも――精神的なものでも身体的なものでも――死後も引き続いて楽しむことができます。目的はただ一つ――精神的視野を一定のレベルまで高めるためです。
 書物を通じての勉強、音楽の実習、各種のスポーツ、‥‥何でもできます。乗馬もできますし、海で泳ぐこともできます。狩りのような生命を奪うスポーツは別として、どんなスポーツ競技でも楽しむことができるのです。もっとも、こちらでは地上で言う“殺す”ということは不可能です。狩りと同じようなことをしようと思えばできないことはありませんが、この場合は“死”は単なる“みせかけ”にすぎないことになります。

・そうした建物は新来者の好みの多様性に応じて用意されているわけです。こちらでは疲労するということがありませんから、思う存分それぞれに楽しむことができます。が、やがてそればっかりの生活に不満を抱き始めます。そして、他に何かを求め始めます。興味が少しずつ薄らいでいくのです。
 それと違って、たとえば音楽に打ち込んだ人生を送った者は、こちらへ来てからその才能が飛躍的に伸びて、ますます興味が深まります。その理由は、音楽というのは本来霊界のものだからです。ブルーアイランドに設置されている音楽施設で学べば、才能も知識も、地上では信じられないほど伸びます。

・さらには“本の虫”もいます。地上では失われてしまっている記録が、こちらでは何でも存在します。それがみな手に入るのです。ビジネスひとすじに生きた者にも、その才能を生かす場が用意されています。
 これには理由があります。こちらへ来たばかりの者は、多かれ少なかれ悲しみや無念の情を抱いております。それが時として魂の障害となって進歩を遅らせます。そこで、とりあえず悲しみや無念の情が消えるまで、当人がやりたいと思うことが何でも好きなだけやれるようにとの、神の配慮があるのです。それが実は進歩への地固めなのです。
 が、純粋に地上界に属する趣味は、やがて衰え始めます。一種の反動であり、それがゆっくり進行します。こちらでも物事は段階的に進行し、決して魔法のように一気に変化することはありません。

・その反動が出始めると、興味が次第に精神的なものへと移っていきます。もともと精神的なものに興味を抱いていた人は、引き続きその興味を維持し、拡大し、能力が飛躍的に伸びます。地上的な性格の趣味しか持たなかった人にも、いずれは変化の時期が訪れます。
  このように、ブルーアイランドにいる間は、多かれ少なかれ地上生活との関連性が残っています。最初は、ただ面白いこと、愉快なことによって自分を忘れているだけですが、やがて霊的向上のための純化作用が始まります。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿