『占の文化誌』 ウラ世界の不思議
棚木恵子 三弥井書店 2012/9/19
<心の構造と入巫のプロセス>
・ウラは人間でないものが支配する世界である。だから人は日常人格のままではウラを知ることはできない。しかし鍛え上げられた自我があり、さらにウラと対話する能力と方法を獲得することができると、それはウラを知る一つの強力な条件となる。
なぜだろうか。心を媒介にしてそれらを考えてみよう。
人の「心」は限定的でせまい意識の部分と、広大な無意識の部分から成り立つ。さらに無意識は個人的無意識と、その遥か奥にある集合的(普遍的)無意識から成り立っている。
個人的無意識は個々の人が忘れ去ったものや、意識していたくなくて遠ざけた結果、無意識領域に追いやられたものから組成されている。したがってこれは個々人に固有の無意識である。集合的無意識とは、個人を超え人類が共通に持っている人類の心の原郷ともいえる無意識のことである。
・この恐るべき世界に出会ったとき、自我喪失もせず逃亡もせずに対話を開始できる者は、確固たる自我の持ち主である。対話は対象と自我の間に生じるものだから、自我が脆弱だと、強大な対象との間には成立しないのだ。
強い自我とは、柔軟で自在、ねばり強い人格のこと。これが条件である。この条件にかなう者のみが、対話を通して集合的無意識のもつ富をくみ上げることが可能になる。
そのときには、こうした状態―自我が集合的無意識と出会い、葛藤を経て折り合いがつけられるようになるまでのプロセスを「入巫病」と称する。
さらにこの病を経た者が巫者の力を持つ者となる。
巫者とは、ウラの力をこの世に示すことのできる者のことである(ときにはそれは技術の媒介なしに行われる)。
またウラの世界から入巫病にいざなわれることは「召命」といわれる。
・こうした言説の主体(集合的無意識そのもの)が人格化されれば超越者や神になる。
開祖たちは物理的社会的心的苦境の中で無意識の噴出を体験し、さらに強靭な自我をもって自我を解体させずにここを潜り抜けた。集合的無意識の体験は、神的なもの聖なるものとの出会いである。聖なるものの本質についてルドルフ・オットーは、戦慄的であり、恐怖を伴うが、また魅惑的であり、圧倒的な畏怖の感情を呼び起こすものと定義し、それを「ヌミノース」と呼んだ。開祖たちは対話を通してヌミノースなものに開かれていった。
憑依し、ときに自ら神となって語ったが、神との対話は失われることはなく、自我を捨て去ることもなかった。憑依の後は人間としての個に戻ることができた。
集合的無意識は、深遠なウラの情報の沃野である。入巫病を経ることで可能になった集合的世界と関わる力を用いて、開祖たちは汲み上げたウラの情報を発信し、社会化したのだった。
<一尊きのと如来教>
・はじめに一尊きのと如来教をみていきたい。如来教は幕末維新期に展開した民衆宗教の、先駆けともいえる宗派である。
きの(1756-1826)は、江戸中期の宝暦六年尾張国熱田の農村に生まれる。幼少から孤児であった。13歳で女中奉公し、23歳で農村に嫁入るが夫に裏切られ、子を持たないまま離婚して再び女中奉公に戻る。
・享和二(1802)年、47歳できのは突如神がかり(憑依)状態になり説教を行なった。幕末より50年ほど前のことである。
・このような社会情勢の矛盾は武士商人職人農民を問わず、全階層を直撃したが、とりわけ先鋭に受けたのは貨幣経済の恩恵に浴さない零細没落百姓であり、わけても農村の単身者女性であった。単身者きのは貧困窮乏の困苦に陥ったが、助けはどこにも求められなかった。きのには経済だけでなく、もう一つの苦悩があった。それは「先祖」と「子孫」がないことだった。
・一方、供養を受けない霊は成仏できないと考えられた。そうした未成仏霊は「三界万霊」と呼ばれた。この時代、家という観念からはこぼれ落ちてしまい、安心立命を得られない一群の人々が多数存在した。後継者(養子を含む)に恵まれず家の存続が望めない人々、相続すべき家を持たない者、もとより相続が問題にすらならない単身者たちである。彼らはこのままでは先祖を持たないため庇護されず、子孫を持たないため供養されない。したがって成仏が願えない。死後は未成仏の三界万霊として、この世とあの世の間を永遠にさ迷わなければならないのだろうか。
入巫病を経てウラに触れたきのは神がかりし、農婦きのではなく「一尊如来きの」となり、新しい人格を得たうえで「子孫」による「先祖」の供養とその思想を逆転させ、この問いに答える。ウラは新しい理論を示したのである。
・長い輪廻転生の間に人は、今日では他人であるような多くの人と親子関係を結んできた。したがって血族、他人という区別は無効であり、無縁仏と有縁仏、現実の人間という三者は区別する意味のない存在である、ときのは説いた。さらに行うべき供養は、自分の先祖の霊に対してではなく、何世代にもわたる輪廻転生の過程で何らかの縁をもったすべての霊「万霊」に対してであり、そうした万霊の救済を願うことによって現世の人間も救われる、と続ける。
・「自分は一代きりで子孫がないのだが、どうすれば成仏できるのだろうか」の問いに対して、ある技法を用いて「○○すればよかるべし」という答えをウラから引き出せば、それは占である。技法の使い手も当然占者である。しかし普遍的問いに対し、ウラの情報に基づいて答えるのは宗教の役割であり、答える者は宗教者である。技法の占いは呪術と結ぶが、宗教は思想と結ぶ。そのような宗教は、人を内側から支配し規制する超自我を、(部分的にであっても)解体させ、そこから解放する。その作業とともに思考の枠組みを変化させ、新しく構築された「世界観」の中に人を置くのである。「我が親が助度んば、先祖を願はしやれ、先祖が助けて貰い度んば、三界万霊を願はしやれ。」(御つづり御説教)
経典『お経様』の一節である。ここでは先祖と三界万霊の力関係はほぼ逆転している。逆転によって更新された世界像の中で、旧来の世界では秩序からはじき出され、落ちこぼれた人々は居場所を保障される。きのが神がかりを通し、ウラから引き寄せた回答は、各家々の先祖祭祀を超え、万人の救済へと向かう、思想的広がりを持った革命的なものであった。
<「遠野物語」にみるウラの世界とそのあらわれ>
56 何某の家にても川童らしき物の子を産みたることあり。(中略)忌わしければ棄てんとてこれを携えて道ちがえに持ち行き、そこに置きて一間ばかりも離れたりしが、(中略)早取り隠されて見えざりきという。
誰が捨てた川童の子を取り隠したかは記されていないが、言うまでもなく川童の子の父親の仕業と読める。『早取り隠されて』とある。このようなことはウラがオモテを凝視していなければおこらない。『遠野物語』のオモテは、見えないものに一方的に目差され凝視され続けている世界である。
18、19、20、21話は旧家山口孫左衛門家の断絶と崩壊についての一連のできごとを語る。
18 旧家にて山口孫左衛門という家には、童女の神(ザシキワラシ)二人いませりということを久しく言い伝えたりしが、或る年同じ村の何某という男、町より帰るとて留場の橋のほとりにて見馴れざる二人のよき娘に逢えり。
男は娘にどこからどこへ移動するのかを聞き、孫左衛門からの家移りと知って「さては孫左衛門が世も末だな」とその没落を確信した。それから時を置かず、孫左衛門家は女児一人を残し茸中毒で全滅した。
19話では、家内ことごとく茸にあたって死んだ経緯と、貨財は親類が取り去り、草分け長者の家は跡形もなくなってしまった事実が語られる。
・この前兆のウラには『神の家移り』が、滅亡の根本原因として挙げられている。さらにここには、滅亡を正しく予知するために三つの段階があったことが示されている。ザシキワラシ神はウラの存在であり、通常見えない。この容易に姿を現さない神の移動に立ち会うことができた、というのが第一段階。神にどこから来てどこへ行くかを問いかけたのが第二段階。その答えを聞いて孫左衛門の繁栄が終わるのを知るのが第三段階である。某というこの男はウラに出会い、問答し答を引き出し、ウラの意向や意志を察知した上で、予定されたオモテの未来を予測できたのである。
・ここに示されているのは、原理的には神と交信しているのだから、巫覡の能力だといえよう。しかし彼はこのことを孫左衛門に伝えていない(もし伝えられれば、神を再び呼び戻す手段が取られたかも知れないが)。ウラがオモテへ及ぼす決定的な影響を確信しつつ傍観者としての立場を取り続ける。人は自分に関わるオモテが平穏幸福であるためにウラを知りたいのだが、ここでは知りたいと願ったり求めたものではなく、ウラは偶然知った他者のものであり、それゆえに一人納得しただけで放置される。なぜこの力があるのかは語られないが、彼は巫覡の能力(神と交流し神の意図を知り伝達する能力)と知識を持っている。しかし、これは社会化せず、ただ静かな事後の「語り部」でいるだけである。潜在的顕在的を問わず、ウラを知りたいという願望や意志のないところでは占は成立しない。占は能動的な行為である。
108 山の神の乗り移りたりとて占をなす人は所々にあり。(中略)孫太郎もこれなり。以前は発狂して喪心したりしに、ある日山に入りて山の神よりその術を得たりしのちは、不思議に人の心中を読むこと驚くばかりなり。
依頼人と世間話をしているうちに心に浮かんだことを言うのがその占法であった。当たらないことはなかった。
<無構造な占>
ではこのウラを知る能力とワザはどのようにして手に入れられたのか。107話には、見慣れぬ男から木の葉や何やらをもらった娘がこの日から占の術を得たことが語られている。この異人は山の神であったとの解説的部分が末尾には加えられている。
みたように、108話では孫太郎は発狂喪心のうえ、山に入って山の神から術を得たのであった。孫太郎以外にも、占術を山の神から入手した者は所々にいるとのべられている。遠野物語の中では、ウラを知る技術は、山に入り、あるいは山の神に出会うなどウラの世界に触れたことによりもたらされている。ウラナイは、ウラと遭遇し、ウラを体験した者の専有事項なのであった。またこの体験者たちのウラナイは直接的透視力によるものであり、方法はいわば無構造ともいうものであった。
『占の文化誌』 ウラ世界の不思議
棚木恵子 三弥井書店 2012/9/19
<中山みきと天理教>
・天理教は幕末維新期に誕生した、近代日本の最大の民衆宗教である。開祖中山みき(1798―1887)は、寛政10年生まれ、明治20年に没している。
・追い詰められた彼女は、ついに神がかりし、「天理王命」「親神」と名乗った。ウラの世界から古事記や日本書記の神々の戸籍系譜である神統譜には見られない新しい神が誕生する。このときを境にみきは封建社会の嫁・妻・母という女性の役割から自らを解放する。
・みきの思想はさらに展開していくが、その言説の中で注目されるのは、人間の平等性を強調したことである。
・「一列兄弟」の世界人類同胞思想があった。この思想によって階層は無効化されたのである。
・かってのみきは浄土宗振興券に住む篤信者の一人だったが浄土宗で言うあの世の極楽、西方浄土の思想を逆転させたのである。人々の日常を送るこの世に価値を置いて、日常を生きにくくしている観念を排した。その中には、みてきたように身分制度、家父長的家族道徳等が含まれていた。
・みきに憑依した「天理王命」は、別名「親神」である。記紀神話には祖神や皇祖神が登場しているが、「祖」は「親」よりも観念的である。みきに顕れたのは祖神でなく親神であり、みきは理想化された「親」と神を重ねた。
<出口なおと大本教>
・大本教は国家権力による激しい弾圧を受けた宗派として知られる。開祖は出口なお(1836-1918)。なおは京都福知山で生まれるが、出生の天保七年は、全国的な大飢饉に続き、一揆が多発した年であった。
・なおは非農民であり、職人としての家業の継承からも見放されたために、階層社会の中では最低部に位置する細民に落ちていた。
・神は艮(うしとら)の金神、と名乗った。艮は北東を指す。ここは鬼門といわれ、陰陽道では、鬼の出入口とみられていた。
・人の身の上には運、不運の差がありすぎた、とはなおの実感だろう。努力と忍耐を重ねても動かし難い不運が、この世には存在する。これは不条理である、と断言される。「運、不運」と表現された社会的不公平を一気に解決する手段として「世直し」が説かれ、神による世の立替え、旧世界から新秩序の構築と、それに対する心の備えが語られる。
・「世直し、立替え」は、階層の逆転を内包した思想となっていった。
・なおは開教(最初の神がかり)直後に、しきりに国家的事件の予言を行った。
・究極のウラの神がウラにあって、オモテであるこの世の存続の要になっている。
<「遠野物語」にみるウラの世界とそのあらわれ>
・資料にするのが「遠野物語」である。明治43年の作品。
・55-56話では、川童が人と通婚して生まれた川童の子の始末が語られている。
「55」娘のもとに夜々男が通ってくるという噂が立った。やがてその男は川童なるべしという評判だんだん高くなりたれば、一族の者集まりてこれを守れどもなんの甲斐もなく(中略)さては来てありと知りながら身動きもかなわず、人々いかにともすべきようなかりき。その産はきわめて難産なりしが、(中略)その子(川童の子)は手に水掻きあり。この娘の母もまたかって川童の子を産みしことありという。2代や3代の因果にはあらずという者もあり。
・川は平凡な日常的な生活空間だが、一方異類である川童の住処でもあり、川童を介することで非日常的な空間である異界、ウラの世界の接点にもなっていく。
・ウラの住人である川童は、オモテからは見えないままオモテへ直接災厄を持ち込んだ。通婚と出産を経てウラの血を送り込んできたのである。
・これは前もって阻むことはできなかった。ウラの侵入に対する最終防衛は「生れし子は斬り刻みて一生樽に入れ、土中に埋めたり」とあるように生まれた川童の子殺しという事後処理に止まる。
<●●インターネット情報から●●>
<全焼の座敷わらしの宿再建へ>
2015年9月15日(火)
・10月中旬から再建工事が始まることになった緑風荘。五日市洋社長は跡地で復活を期した=14日、二戸市(デーリー東北新聞社)
<座敷わらしが帰ってくる! 旅館「緑風荘」来月から再建工事/二戸市>
「座敷わらしの宿」として全国的に知られ、2009年10月に全焼した二戸市金田一の温泉旅館「緑風荘」の再建工事が、10月中旬から始まることが14日、分かった。築300年以上とされた南部曲がり家を再現。座敷わらしが現れると言い伝えられてきた「槐の(えんじゅ)間」は往時と同じ場所に設け、交流スペースとして活用する。完成は来年5月までを予定。運営会社「座敷わらし」の五日市洋社長は、「ようやくスタートラインに立てた。利用客や地域に親しまれる旅館を再び目指したい」と意気込んでいる。(デーリー東北新聞社)
■■■ 私が思うこと、聞いたこと、考えること ■■■
・「遠野郷の民家の子女にして、“異人”にさらわれて行く者年々多くあり。ことに女に多しとなり。-遠野物語第三十一話」、「黄昏に女や子供の家の外に出ている者はよく神隠しにあうことは他の国々と同じ。-遠野物語第八話」という“異人”は、オリオン星人だったようです。「平家がプレアデス星人の末裔で、源氏がオリオン星人の末裔」といわれます。メン・イン・ブラック(黒衣の男たち)の超能力は凄まじく、オリオン星人ともいわれています。河童も異人もウラの世界へ異次元移動ができたのかもしれません。
・米国では、エルダーとよばれる天使のような人間タイプのオリオン星人が小柄なグレイと共に飛来したそうです。米国が秘密協定を結んだのはラージノーズグレイというオリオン星人といわれています。オリオン星人は人類に5万年進化しているといわれ、「人間の魂の交換」ができるようです。地球では白人種と定義されている「エリエン」のルーツはオリオン星雲にあるそうです。オリオン座は「神の故郷」ともいわれますが、『闇の勢力』も利用しているそうです。
・川童または河童は、米国に登場した小柄なグレイに似た「リトル・グリーメン」で、「河童は現在でも海底の基地(の異次元世界)に生息している」とイタリアのクラリオン星人とのコンタクティ、マオリッツオ・カヴァーロは言及しています。つまり、バイオ・ロボットのグレイと似た川童(河童)は、ゼータ・レチクル星人の一種で、異次元瞬間移動ができるようです。エササニ人は、地球人とゼータ・レチクル人の融合によって生まれる混血種属の一つともいわれています。「時空間を超えてこの地球にやってきて、人類をアブダクション(誘拐)し、受精して、子孫を作りました」。それがエササニ人だそうです。グレイと人間の交雑種が「エササニ人」といわれます。エササニはオリオンの方向にあります。
・「ゼータ・レチクル星人のグレイと、オリオン座のリゲル人の長身のグレイ、オリオン座の有翼のドラコ族、恐竜から進化した地球のレプトイド(恐竜人)がエリア51等のアメリカの秘密基地で活動しているともいわれます。グレイには、「ビーガン。シリウスA人の遺伝子から作られたグレイ」、「ゼータ・レティクリ1。地球人監視のためリゲル人が作ったグレイ」、「ゼータ・レティクリ2。遺伝子操作で作られたグレイ。爬虫類人に奉仕」等が存在するようです。「あのグレイも壁を透き通るようにして部屋に侵入してくる」そうです。
「グレイの後に金髪碧眼のノルディックが来た。その後に、人間タイプのオレンジと呼ばれる宇宙人が来て、その後に“東洋人タイプの異星人”が飛来」し、「宇宙連合が来ていた」ようなのです。
・川童などの異類との交流は「異類婚姻譚」といわれているようです。宇宙人は昔は鬼とか童子、異人として扱われてきたようです。鬼と言っても美女などがいたりして、昔から宇宙人とのコンタクトがあったといえるでしょう。宇宙人との通婚が異類婚姻譚になったのでしょうか。取り換え子の伝承もヨーロッパでは多いようです。中世のドイツの領主はほとんどが「異人」か「異人」の末裔ともいわれます。河童に関する伝説は全国にあり、豊富な異星人とのコンタクト話があるそうです。
「フランスの『美女と野獣』の話は、異類婚姻譚だ」そうです。“天女”の宇宙人との異類婚姻譚も世界中に多くあるようですので、「異類混血」が窺われます。
・『遠野物語』には河童とか異人の話が多くありますが、異人とは河童とともに宇宙から飛来した宇宙人であったようなのです。米国では小柄なグレイとともに飛来した宇宙人、金髪碧眼のノルディックという人間タイプの宇宙人の話が多くリークされたようです。アメリカでは、エルダーとよばれる天使のような人間タイプのオリオン星人が小柄なグレイと共に飛来したそうですが、洋書にもなっています。
・米軍には様々な宇宙人の情報が、アバブ・トップ・シークレットとしてあるようです。アメリカ空軍の士官学校の教科書には宇宙人の種類が載っているそうです。アメリカ空軍は133種類の宇宙人を確認しているそうです。また米軍は宇宙連合とコンタクトして、当然ながら、異星に行っていることでしょう。戦後、米軍には宇宙人が混じっていたという話も少なくないようです。アプ星人という国際連合の設立に貢献した宇宙人種族もいたようです。キリストが転生した宇宙人種族がアプ星人だそうです。遥かに進化した異星人の生態は国家安全保障上の最高機密(トップ・シークレット)の数段階上位の情報『厳秘(アバブ・トップ・シークレット)』扱いのため詳細は不明です。この米国との情報格差は絶対的な格差であり日本の知識人がこの面に無知なことは致命的だそうです。「日本はUFO後進国だ」そうです。
・ハリウッド映画により小柄な宇宙人グレイが大々的に世界中で知られるようになりましたが、人間タイプは、宇宙人の安全を図るために全く情報は公開されておりません。
・無学な人に神々が憑依したりして、天理教や大本教のような新興宗教が大きく興ることがあります。背景にいる様々な神々の記録は、膨大で、教祖の超能力や語る内容は否定できないくらい、すさまじいもののようです。ウラ世界の実在を感じ取れるのも、このような新興宗教の教祖の存在があったからのようです。
・ウラ世界の住人である『ザシキワラシ』は、通常見えないものですが、ひょっこり見えることもあるらしいのです。「遠野物語」では、ザシキワラシが、その家が栄えたり滅んだりする契機となる話が載っているようです。ザシキワラシや河童はウラ世界(4次元世界)に住む宇宙人であるという説が有力説のようです。ザシキワラシは「子どもの神様」ですが、超能力は「神」と認識した方が、誤解がないようです。現代人もザシキワラシに関心があり、噂のある宿屋に泊まりに行く人々も多いようです。
・「日本中に伝承のある天狗も宇宙人であった」ということかもしれません。進化した天狗やグレイや爬虫類人(レプタリアン)も人間化して区別ができなくなっているという話もあるそうです。天狗も鼻の高い赤顔の者ばかりではなかったようです。また人間化した爬虫類人(レプタリアン)は知性的な顔をしているそうです。「竜座人(ドラコ)が遥かに進化しており、このレプティリアン型生物の交雑種がイルミナティである。交配人種であるイルミナティが地球を支配している」そうです。「遥かに進化した高次元の高等知性体・異星人は、人間の肉体や精神体に憑依するので誰も識別できない」ようです。ウラの世界とオモテの世界を往来している神々や異類の存在は、大きな謎です。
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・ブログ名称: UFOアガルタのシャンバラ
・第2のブログ名称:UFOパラレル・ワールド
「神の国か?」「人類の原郷か?」 「天上のエルサレムか?」・・・・・・・・・
「パラレル・ワールドに住む宇宙人、天国に出入りし転生と憑依を自由に操るシリウス星人の殖民星が、地球か?」、「ネガティブのシリウス星人の地球支配があまりにも巧妙なので、しょっちゅう戦争が起こるのだろうか?」
「金髪碧眼のノルディックが住んでいたアガルタのシャンバラ情報の集大成を目指す・・・・・・・・・・」「金星蛇人と火星霊人の戦争はその後どのように展開したのだろうか」
「日本民族の神話の原郷『高天原(たかまがはら)』は、『都市型の超巨大宇宙船』なのか!?」「平家がプレアデス星人の末裔で、源氏がオリオン星人の末裔なのか」
「小人族のグレイの母船に同乗する金髪碧眼のノルディックは、”悪魔の王””ルシファー”なのか?!」
「円盤は神人や異人、悪魔の乗り物なのか!?」「天使は神の秘密諜報員なのか」「神は最初のフリーメーソンなのか」
「UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象なのか。UFO問題とは、人間にとっての死の問題を解くことなのだろうか。UFOはフリーメーソンの創作なのか」
「全宇宙を創ったという“虹の神々”も地球に来ているのだろうか」
「イルミナティなどのフリーメーソン組織に入ると神に会えるのだろうか」
「国際連合の設立に動いたキリストの星、アプ星人とは」
「人は皆、記憶喪失の異星人だろうか」
「はるかに進化した天使のような宇宙人は、人間の守護霊や背後霊なのだろうか」
「セドナ上空に見えないエーテルのシティが滞空するのだろうか」