(モンゴル帝国 その後)
マルコが「元」にいた当時、モンゴル帝国は内乱と南宋の征服が終わり、平和と繁栄を謳歌していた。
帝国は元の宗主国的立場を認めて、元(中国本土とその周辺)と4つのハン国との緩やかな連邦体制を維持していた。
キプチャク・ハン国(南ロシア)
チャガタイ・ハン国(トルキスタン)
オゴタイ・ハン国(アルタイ山脈以西、エミール川流域)
イル・ハン国(ペルシャ)
また、帝国はユーラシア大陸の大半を一つにつないだ一大交通網を建設し、交易を通じ、東の世界と西の世界を結びつけた。
この大帝国を維持するため、属領は土着の政権に任せる間接統治を行った。
属領において、税の徴収はモンゴル人が行い、治安は同盟軍とモンゴル駐屯軍が担当した。
すべてにモンゴル人第一主義をとったが、モンゴル人は圧倒的に少数であり、矛盾は年と共に膨らんでいった。
また、さらなる征服を目指し、日本や東南アジアに侵出したが、そのことごとくが失敗した。
経済面では、通貨として、銀に変えて紙幣を乱発したため、インフレが起き、人々の生活を苦しめた。
フビライ・ハンが死ぬと、帝国は徐々にほころび始める。
イル・ハン国ではイスラーム教徒の反乱と暴動が頻発した。
14世紀の初めには、モンゴル人は現地に同化、吸収されてしまい、モンゴルのペルシャ支配は終わった。
元でもモンゴル人貴族の暗闘が続いたり、農民の反乱が頻発したりして、国内は内乱状態になった。
14世紀半ばには、反乱軍により、モンゴル人は故郷の草原に追われてしまう。
その後、漢民族の「明」帝国が成立した。
中央アジアと南ロシアの3ハン国では、中国やペルシャの場合と異なり、モンゴル人はイスラーム化して現地に根を下ろした。
そして、ロシアが侵出してきた16世紀初めまで、モンゴル帝国の後継国は存在したのである。
モンゴル帝国の功績は、なんと言っても東の世界と西の世界を結びつけ、ユーラシア規模の大交通網を作ったことである。
互いの世界の情報が伝わり、次の世界規模の交通、交易網が作られる足がかりになった。
参考図: 「日本と世界の歴史 13世紀」、学習研究社、1969
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