皆無斎残日録

徒然なるままに、日々のよしなし事を・・・・・

懐かしい人々

2010年07月25日 10時19分28秒 | 随想

昔、小学校には大きな松の木が2本あり、1本は牛飼いの松と言われていたこと。その上部に巣を作っているのは五位鷺だと言い合っていたこと。
小学校の南の外は玉ねぎ畑が広がり、ところどころサトウキビも植えられていたこと。夏になると、時折腐った玉ねぎの独特の匂いがしたこと。
夏休みに繊維工場の海の家がある海水浴場まで自転車で行った、その海に近くなった処のごつごつと松の根がむき出しになっていた幅2mほどの小高くなった松林の道。
ただの拾ってきた棒切れを打ち立てて相手の立っている棒切れを倒すだけの単純な遊びをした冬の田圃。


そういった昔の風景を、私は時折、目を瞑り頭の中に像として結ぼうと努力してみるのである。結べないのである。記憶として言葉では表現出来ても、写真のようにも映像のようにも浮かび上がらないのである。


未来は現在から想像をすることが出来るのであるが、現在からは過去は思いもつかぬのである。物事は未来に向かってはつながるが、過去へとはつながらないのである。今というものは昔に詰まっているのに、昔そのものを思い起こがす縁とならぬのである。


なぜなら、つながる風景と光と影と匂いがあってこそ脳裏に映像として思い起こされるのである。博物館や資料館の遺物・遺品は過去の風景を偲ぶ縁とはなり得ぬのである。


そして気がつくと、何時の間にか見知っていた祖父母や父母の世代の人々が、親疎それぞれ異なるけれど、亡くなっていて少ないのに愕然とする。その人たちは私の成長の過程を見知っている人々でもある。その人たちを失うことは取りも直さず自分の過去を失うことである


私は、切ないくらい、昔の風景が見たい気持ちになる時があるだ。



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