カルトvsオタクのハルマゲドン/虚業BLOG

オタクと政治に関するBLOG

1999年9月1日から15日

2012年03月27日 01時12分11秒 | Weblog
9月15日(水)

朝5時、MAさんの原稿終わる。

東京の部屋へ帰宅。寝る。

夜10時頃、目が覚める。KY先生に電話。KY先生のアシ作業しに、自転車で向かう。(続く)

9月14日(火)

MAさんのアシする。

9月13日(月)

不動産屋へ行く。更新しない旨伝える。

茨城へ。MAさんのアシ作業する。

9月12日(日)

足立真一さんとこで、夕方目覚める。よさこい野郎さん来る。ちょっと話する。眠りこけながら、「ファミコン探偵団」クリア。足立真一さん就寝。私は帰宅。
「学校を救済せよ」(宮台真司、尾木直樹。学陽書房)読む。とても面白い。

9月11日(土)

この日は、私にとってこの秋一番のイベントである「ホシヅルの会」があった。8月に実家でめちゃツライ労働の日々を送る中で、やっとこで参加料振込みしていた。

実家の部屋で目が覚めると、午後1時半。あ。寝過ごした。もう「ホシヅルの会」には間に合わない。とほ。生の小松左京見損ねた。(後日聞くとこでは生小松左京はいなかったそうだけど)

人間は人生の三分の一を眠らないとならない、ということを忘れていた。

意気消沈し、バスに乗って駅へ。駅で考える。予定空いちゃったから、みいちゃんに会いに行こうかな。電車来る。電車に乗って東京へ。オレって意気地なしだなあ。

東京に着いたのは午後5時。HYさんと足立真一さんから留守電。HYさんに電話。留守の様子。留守電に吹き込む。足立真一さんに電話。9月4日に行こうとしていた絵の勉強しに行く約束する。出かける前、念のためHYさんに電話。通じる。ほぼ同じにHYさんが私に電話したが、通じなかったそうだ。どういうことかな? それはそれとして、取材に関することとかお話させていただく。HYさんとの要件終了。足立真一さんとこへ。

バス。電車。バス。足立真一さんの住む埼玉はそこかしこに堆肥やら牛の糞やらの匂いが漂う。そういう季節なのかな。足立真一さんと話をする。劇場版ナデシコを観ようと薦められる。遠慮する。絵を描く。足立真一さんからアドバイス受ける。

BGVにエヴァ劇場版かけてもらう。つい、観る。見終わった後、やはりこの映画のメッセージは宜しくない、という話を足立真一さんに力説する。庵野の直観力は素晴らしい。だが庵野にはロジックがない。人生経験の幅も狭い。そのことそのものは必ずしも否定されるべきではないが、この作品にとって、作者による限界がメッセージの点で明らかになっている。
個体としての他者と、立場の違いによって発生する他者性の区別がこの作品にはない。綾波とカオルくんを、「わかりあえるかもしれない、という、祈り」と劇中で解説しているが、綾波とカオルくんはともに(醜いオタクである)シンジのアニマ、自我の投影であり、どのみちシンジ(庵野)は他者を見ていない。一面においてそれは正直なメッセージだが、もう片面の真実、(自身にしか愛情を感じない/他者に愛情を感じない/愛情を求めているが与えようとしない)ということから作者は目を背けている。矛盾するメッセージ。そこに作者は無自覚だ。無自覚で混乱しているゆえに、受け取る視聴者は、個々人ごとにあまり程度の宜しくない誤った哲学(オカルト)を内面に構築するだろう。そこが宜しくない。
エヴァ世界はオカルト世界の中にある。作者にとって世界はオカルトなんだろう、と足立真一さんに言う。『ソフィーの世界』の言葉を使うなら、哲学とオカルトの関係は、本物の恋愛とポルノの関係だ。ポルノを本物の恋愛と錯誤するのは危険だ。
オカルトは真中にブラックボックスを置き、その周囲にブラックボックスを示唆する雑学を散りばめた形をしている。
たしかに個人にとって世界は見通しがたいし、全てを見通すことは個人にはできない。
だが、オカルトにおいては、非合理で不可解なブラックボックスが存在すること自体を真理の証明としている。ブラックボックスが「真理」であり、ブラックボックスの存在が「真理の証明」、という同語反復論法だ。理性による解析は、そこにはない。これを「超越的」思考と言う。世界がわけわからない代物であるのは、神のせいだ、と、超越者を設定することで、思考停止する。
「超越的」思考を克服するのは、「超越論的」思考だ。世界は見とおしがたい。個人個人の人間にとって、世界は不可解だ。だが、個々の非合理的現実は、高いレベルで、合理的科学的に人間に把握できる。人間の心は不可解だ。だが、フロイトの発見した「無意識」というモデル(超越論)を用いることにより、人間の非合理的行動は「超越論的」に理解説明が可能だ。人間の行動は不可解だ。だが、マルクスの「下部構造」「上部構造」というモデル(超越論)を用いることにより、人間の不思議な行動は「超越論的」に理解説明可能だ。
シンジはオカルト世界を作中否定できていない。自覚も批判もできていない。このシンジの位置は作者の練度に制限されている。
作者にとり、他者の世界はイコールオカルトなのだ。それは正しい世界認識ではない。少なくとも、「現実に帰れ」というメッセージが自己矛盾を起こしている。そのことへの作者の直感が、ラストのシンジの行動とアスカの台詞を吐かせている。(その、直感に正直な態度は非常に尊いものだ)

といった話を足立真一さんにする。オカルト世界観がなぜ恐いのか、足立真一さんにはピンと来ない、と言われる。なるほど、と思う。ここは重要な点だ。これは宿題にしよう。

足立真一さんから「ファミコン探偵団」薦められる。する。食事行く。
足立真一さんの冬の同人誌のマンガのネタ、二人で考える。お馬鹿なメイドもの。

足立真一さんとこで就寝。

9月10日(金)

MAさんのアシ作業、朝5時までする。途中で一度寝ていいと言われたが、電車の中で寝ればいいやと思って、眠らず作業する。(後でこれは失敗だったと気づく)

東京の部屋に戻らず、茨城から、そのまま実家へ。電車の中で「権力の予期理論」(宮台真司)、「オリエンタリズムの彼方へ」(カン尚中。岩波書店)読もうとするが、寝不足で脳味噌が腐り果てて全く文意を追えない。マンガ家は頭が悪くなる。無理して読もうとすると読解できないという理由でこれらの本に悪印象持つかもしれない、と、気づき、読もうとするのやめて電車の中で寝る。乗換駅、2回寝過ごす。普段の倍近い時間食って田舎の駅に。

駅のバス停で学生らしき人々がたむろっている。ひょっとして後輩さんたちかな? とも思うが疲れていたので声かけず。バス停に車来る。サークルの後輩さんの車。乗せてもらう。

実家へ。学生時代所属していたサークルの合宿、私の実家で開催してくださるようになって、たぶんもう10年になるのかな。直接の後輩でなく、学部の違う後輩さんたちの合宿。ありがたやありがたや。

眠すぎたので寝る。2時間ほど寝て、起きて、合宿に参加。食後、テーブルトークRPGに混ぜてもらう。

Sさんにえらい久しぶりに会う。ここのページ見てる、という話伺う。少しだけ会話。

寝ようと思うが、いつものごとく自分は父母の手によって自分の就寝スペースからロックアウトされている。外に出て、どうにか部屋に戻り、就寝。

9月9日(木)

(前日から)

掲示板のレス溜めていたので、8月以降について返信を試みる。二人ぶんで挫折。てゆーかこんな濃ゆい返信にわざわざしないでいいだろオレ、省力化しろ。とか思う。
いかがわ四郎さんとこのチャットで遊ぶ。

眠り損ねたまま、電車に乗って、茨城のMAさんとこのアシに行く。自分の力弱さを確認。作業途中で眠くなる。

(翌日へ)

9月8日(水)

HYさんに郵送。遅くなってごめんなさい。
曽さんから頼まれていたことについて、FAXしようとする。あう。国際電話、止まってる。料金払い損ねていたか。ごめん曽さん。
MAさんから電話。とりあえず明日手伝いに行く、という話に。
いつ自分の原稿描けばいいのだ。と、一瞬頭をよぎる。それはあとで考えよう。(翌日へ)

9月7日(火)

(前日から続き)

朝4時アシの仕事一旦終了。夜食を買って食べ、朝6時までKY先生の仕事場で「戦争論妄想論」読む。KY先生の仕事場に泊まる。

昼からアシ仕事。おお。寝る直前に物食べると、お腹の調子が良くないものだなあ。夜9時頃KY先生の仕事終了。自転車で帰宅。

にゃんこMICさんにお願いがあって電話する。興味深いお話、伺う。自分の仮説は正しいようだ。

9月6日(月)

(前日から続き)

朝4時頃アシ仕事一旦終了。一時間ほどKY先生の仕事場で「戦争論妄想論」(教育史料出版会)、宮台真司氏による、小林よしのり氏批判の部分、読む。KY先生の仕事場に泊まる。

昼からアシ仕事。身体がバキバキ言っている。昨日の筋肉痛だ。(翌日へ)

9月5日(日)

朝5時ごろ起きる。見ると、曽さんの荷物、人間ほどもある大きさのバッグに二つ。それでも収まりきらず、残りは郵便で、船便で送ってくれ、と曽さんが言う。了承する。
「このバッグも、郵便で送ったほうが良いんじゃないか?」と曽さんに訊く。
「どうやって?」と曽さんが応える。
…難しいのかな。まあ、飛行機で持って行ければ、それが一番簡単だよね。なにも私の仕事増やすことはない。

バッグは物凄く重い。殺人的だ。アパートの階段を下ろすとき、二人がかりでもしんどいので、ゆっくりと転がして下ろす。

バッグには底に小さな車輪が付いている。上部に引っ張る取っ手がある。それで引こうとする。重過ぎて動かない。無理をすると取っ手がちぎれる。
曽さんが機転を利かせ、バッグの底の方をビニル紐で縛り、取っ手を作る。それで引っ張る。なんとか動く。二人で、一つずつバッグを引く。

100メートルほど引いたところで、曽さんの引いていたバッグが動かなくなる。調べると、底の車輪が一つ壊れたのだと判る。どうしよう。
…同人誌運ぶときのカートがあるじゃないか。あれに載せてみよう。と、考える。少なくとも荷物を半分箱詰めして分けるだけでもだいぶ楽なはずだ。

…本当は台車があったんだが、と、思う。Nに貸したまま返ってこない。奴め。くそ。おのれ。と、忘れていた怒りを思い出す。…台車が今ここにあればずいぶん楽なのに。こういう時に台車は必要なのに。「イベントのとき以外はいらないでしょう」とはふざけたこと言いやがって。今度こそとり返してやる。どんなことしても。…待てよ。同じこと、前考えたな。実行したな。そうか、紛失したって言ってたっけな。返せよなあオイ。お前はそんなだから。…誠意ある態度ってものがなあ。と、恨みつらみが渦巻いたが、気分を切りかえる。

カートとダンボール箱持って、バッグのところへ。車輪の壊れたバッグをカートに載せる。収まる。ダンボール箱は不要なので近くのゴミ捨て場に置いて移動。カートの扱いは私のほうが慣れているので、カートのほうを私が引く。

部屋から250メートルほどの地点で、曽さんが引く、壊れていないほうのバッグも、車輪が壊れる。私は走って部屋に戻る。ついでにゴミ捨て場に置いたダンボール箱回収する。もう一つのカートを持ち、自転車に乗り、曽さんの元へ。

車輪の壊れたバッグを新しいカートに載せる。自転車はコンビニの近くに置いておく。移動開始。

私のほうが曽さんより体力がやっぱりあるんだなあ、と、思う。私はわりと体格がいい。そのことで得したと思ったことはなかったが、やはり体力は体格にある程度比例するんだな、と、思うことが、8月15日の人力荷物運びのときにもあった。非常に単純で古めかしい結論。
曽さんの体格は、中学生のようだ。
私も、ディグさん、足立真一さん、いつきこうすけさんと並ぶと、その中では一番背が低かったりするのだが。余談でした。

部屋から500メートルくらいのところで小休止。部屋までタクシーを呼べば良かった、と後悔。
遅れてきた曽さんがカートを乱暴に放す。カートが倒れる。カートのパイプが曲がる。あうち。乱暴に扱わないで下さい、曽さん。

駅。ホームまで下ろすのに、エスカレーターがない。人力で下ろす。しんどくて死にそう。

飛行機の時間間に合うか? 電話したほうが良いんじゃないのか? と曽さんに尋ねる。
ギリギリ間に合う。と、曽さんが応える。

電車に乗せるのは人力で移動。すごくしんどい。

乗り換え。エスカレーターで上る。曽さん一人でこの荷物を運ぶのは無理だと思うので、成田までつきあうことにする。

成田エクスプレスの中で、曽さんと色々話する。

荷物運びを付き合ってくれてありがとう、と、曽さんが言う。よかった。最後に曽さんに嫌な思いをさせなくて。曽さんが私に好感を持って発ってくださるなら、大成功だ。

日本に来る前、曽さんは香港でけっこういい条件の契約でマンガを描いていた。だが、曽さんは日本で成功したいと思っていたので、当時仕事を熱心にしなかった。日本に来て、考えが変わった。来て良かった。来なかったらずっと、「日本にさえ行けば…」と思っていただろう、と、曽さんは言う。
「やはり経験て大事だね」と、曽さんに応える。

日本のアシ先で、仕事場の仲間と話したそうだ。マンガは金のために描くんじゃない、楽しいから描くんだ、自分の描いた物が10年後20年後残るから描くんだ。曽さんはそう言った。仕事場の人々は冷笑したそうだ。生活するために描くんだと。
曽さんはアシして稼いだ金の多くを、家族に送金している。…「生活のために描くんだ」と曽さんを冷笑した人々は、おそらく現実には経済的に自立していないのだろう。実家から通い、アシ代は自分の小遣いにしているのだろう。経済的に自立できていないから、精神が依存しているから、生活者に劣等感を覚えているから、「生活」「生活」と言うのだろう。そう曽さんに訊いてみた。その通りのようだ。

鎌やん、香港に遊びに来いよ、と、曽さんが言う。
「金がたまったらね」と応える。色々話する。

「俺、5年後には、日本で一番有名なマンガ家になっているよ。…頑張ろう」と、曽さんに豪語する。

成田空港。空港用のカートがある。カートにバッグを積替える。エレベーターに乗る。成田空港のエレベーター、なぜこんなに小さいのだ。

「香港の空港に、弟を呼んである。荷物たくさんあるから、と、弟に言ってある」と曽さんが言う。

チェックインに向かう。もう時間がないから、と、別な窓口を係員に教えられる。

手荷物…ここまで苦労して持ってきたバッグを測ると、重量オーバー。手荷物扱いで送ると、7万円を越えるそうだ。そんなには払えない。

二つあるバッグのうち、一つのみを手荷物とし、もう一つは船便で運ぼう、と、曽さんと打ち合わせる。それでも重量オーバーで一万円強かかるが、その程度は仕方がない。

フライト時間ギリギリなので、曽さんとはそこで別れる。

曽さんのげろくそ重いバッグ…40キロ以上あるそうだ…を、カートに積み直す。往路を戻る。二人で来た道を、死にそうに重い荷物抱えて帰る。

駅から部屋までタクシーで帰る。死ぬような思いして部屋に曽さんのバッグを運び入れる。ぜえはあぜえはあ。ちょうど昼12時。

以上、午前中、朝5時から昼12時までの出来事。

今日からアシスタントに行く予定だ。KY先生に一時間遅れる旨電話し、シャワー浴びる。自転車に乗り、KY先生の仕事場へ。

力仕事した後だったので、やや不安だったが、さほど問題もなくアシ作業する。(翌日へ続く)

9月4日(土)

早朝3時ごろ、足立真一さんから電話。「見映え」について気づいたことなど話するうち、じゃあ、今から足立真一さんとこへ絵の勉強しに行く、という話になる。出かける準備をする。
朝7時ごろ、曽さん、帰宅。曽さんは、アシ先での連載終了の打ち上げに参加していた、とのこと。
私は今から足立真一さんとこに行こうと思う、と曽さんに告げる。曽さんが驚く。自分は今日までしか日本にいない、翻訳を手伝ってくれ、と曽さんが言う。
そうだったか。…って、帰る仕度まだ曽さん何もしてないじゃないですか。帰れるのですか? とは思ったが、翻訳を手伝うことにする。足立真一さんに電話してその旨伝える。

翻訳作業、開始。曽さん、体調が悪いのはまあいいが、私に向かってゲップをするのは勘弁されてください。 疲れてくると、発音をはっきりさせないと話が通じないので、やや大声でまくし立てる感じになる。
昼1時すぎ、翻訳作業終了。

曽さんが換金したいと言っていた切手の買取業者に連絡。海外の切手は今在庫がだぶつき、引き取り手がないという話を伺う。換金をあきらめる。
曽さんの古本を古本屋へ持っていき、売る。

今訳した曽さんのマンガの批評をする。
結局、日本にいても、どこにも遊びに行かなかったね、今度来たときはそのときこそは案内するよ、彼女と一緒に来てよ、といった話する。

曽さん、新宿に用があるとのことなので、夜あたり、何かうまいものを食べよう、という話をして、別れる。

定食屋で昼食。「サラリーマン金太郎」あったので読む。メチャメチャ面白い。食事すんだ後一時間粘って8巻まで読む。古本屋へ行き、新刊本屋へ行き、19巻まで購入。

本屋ブラブラしている間に、そういえば「権力の予期理論」(宮台真司。ケイ草書房)まだ買ってなかったことが気になる。読まないでどうする。
隣駅のデパートの大きい本屋まで自転車で行く。見つからない。どこだコーナーは。それとは別な欲しい本が色々見つかる。「権力の予期理論」発見。他のたくさんの本と一緒にレジへ。昨日のアシ代全部はたいて購入。

本屋を出る。自転車を見る。ない。嘘。どこ。盗まれた? 撤去された? うろうろうろ。ずいぶん長い時間本屋にいたからなあ。ちょっとの間でも駐輪場に置かなかったのは失敗だったなあ、返ってこないだろうなあ、幾ら損したことになるんだ、と、陰陰滅滅な気分になる。道を、ガーディアンエンジェルズが闊歩している。見るのは初めて。こいつらかなあ、とか思う。
電車で帰ろう、と、トボトボ歩くうち、デパートの出口が二つあり、自分は出口を勘違いしていたことに気づく。自転車発見。良かった。ガーディアンエンジェルズの行進の後を負うかたちで帰路へ。この人たちも何かに貢献したいのだよね、何かに貢献していると感じなければ生きていくのは辛いものね、社会貢献欲求自体は肯定されるべきものだよね、と、優しい気分になる。

部屋へ。曽さん就寝中。

「サラリーマン金太郎」19巻まで読了。10巻の、アラブのエピソードまでは非常に面白い。そこから先は質が下がる。
人生は、意外な、優れた人間と、何人出会えるか、知己となれるか。自分の認める人間から、認められるかどうか。これが大事だ。これはたしかに幸運に支えられている。努力はこの幸運の確率を上げるためになされるのだ。その幸運、僥倖を得られた喜びは、他に比較できない。その幸運が、人生を開かせる。そんな風に私は思う。
アラブのエピソードまでの「金太郎」は、その僥倖を得ていく話だ。そこには共感する。そこを面白いと感じる。
だが、それ以降は、主人公が、ビッグ・パパ、ビッグ・ママに守られていく話だ。本宮ひろ志にはビッグ・パパ、ビッグ・ママへの宜しくない憧れがある。砕いて言うと、マザコンでファザコンだ。その悪い面が後半には顕わになっている。エピソードもだれる。20年前の少女マンガのようなストーリーになっている。奥さんにストーリー練らせたのかな、と、邪推する。感心しない。

HYさんから電話。依頼ごと一つ受ける。代わりにお願いもする。

就寝。

9月3日(金)

(前日から続く)

帰宅。早朝、眠る前、「少女帝国」さんから電話。色々話する。

男性でも女性でも、オタクの世界でも活動の世界でも、壊れた人は多い、といった話をする。だが、壊れたとき、女性のほうが壊れっぷりが凄い。それは、女性のほうが、社会的により制約されているから、抑圧されているものの量が多いからだ。という話になる。

「壊れている」女性は、たいがい、「パパのお庭」に住んでいるつもりになっている。そして他者に「パパのお庭」での作法を押し付ける。
押し付けられる側にしたらとんでもない非常識であり大迷惑なのだが、「壊れている」女性は、そのことに決して気づかない。
彼女は決して自己を省みない。彼女の主観では「パパのお庭」だけが世界であり、彼女自身は「パパのお庭」の忠実で善良な住人なのだ。
なるほど、男性でも「壊れている」人はよく似た思考をしている。

念のために書いておきますが、以上の文は女性蔑視を意図したものではない。「少女帝国」さんは、セクシャリティやフェミニズムに造詣の深い文章系女性サークルさんです。

明け方に就寝。この日はそのまま寝て過ごす。

9月2日(木)

KY先生の仕事場で起きる。アシ作業する。
脳味噌がなかなか起きない。コーヒー飲みたいなあ、と、思う。KY先生は煙草もコーヒーも飲まれないので、ヘビースモーカーな私はちょっと気を遣う。煙草チェーンスモーク結局させていただきましたが。深夜、仕事終了。アシ代いただき、帰宅。

曽さん、寝ている。曽さんはもうじき日本を発つ。曽さんと暮らしたのは、約一年。

同居人は曽さんで3人目だ。もう、この先、同性の同居人(居候)を置くことはないだろう。

これは贖罪なのだ。自分自身が、地方から上京するとき、友人の誘いがなかったら決してその一歩を踏み出せなかった。その友人にそのお礼を尽くせなかった。それが人に自分の部屋での居候を勧める動機だ。

一人目の同居人とは、早々仲が険悪になり、その後つきあいがない。そのことも自分の内面で負い目になった。
二人目とは、わりあいうまくいった。
三人目の曽さんとも、わりあいうまくいった。
これで、内面のわだかまり、何かへの負い目は償ったように思う。同居人の方々にとっては関係のない話だ。私の自己満足だ。だが私にとってはこの自己満足を満たすことが大事だった。そしてピリオド。これから先は、誰かのためにではなく、徹底して自分のために動こう。

(翌日に続く)

9月1日(水)

昨夜11時に起きてから、眠らないまま、昼、学研の編集さんと隣駅で待ち合わせ。喫茶店に入り、KY先生と対面。仕事場へ。

絵はわりと簡単な絵柄に見えたので、気負いもせず、楽しく仕事させていただく。そのまま泊り込み。

夜、原稿を見ると、おそらくさらさらと先生が描いたであろう非常に上手な風景画発見。え。と、ショックを受け、色々考える。

画力と、見映え・キャラ映えはおそらく別だ。ならば私はキャラ映えについて今、今日から真剣になろう。内容・視点では誰に負ける気もしない。そして読者はキャラ映えだけでマンガ家を測る。ならば、勝てる。勝つ。(と、自分を鼓舞するために書いたけど、その後何もしていない 2000,1,11)

1999年8月22日から31日 マシウスの夜郎自大日記

2012年03月27日 01時10分43秒 | Weblog
新しい日記から、古い日記へ、という順番で表示されています。


8月31日(火)

一日中、WEBページの日記打ち込み。8月15日から後の分、あげる。こんなのもアップ。
G社編集さんから電話。明日からアシに行く。

8月30日(月)

一日中、WEBページの日記打ち込み。

8月29日(日)

コミティア参加。新刊がないので、ほとんど稼ぎにはならず。読者数人の方と話ができたのは励みになった。よさこい野郎さんから「どこでもいっしょ」借りる。終了後、豊川稲理さん、黒崎まいりさんたちと打ち上げ。

8月28日(土)

AKさんから電話。劇場版「ナデシコ」がいかにいい作品なのか力説される。
色々だらだら話する。ラブコメを描こうと思っているんだ、と、AKさんに言う。ラブコメとは、セックスに至らなければおかしい、という状況がセックスに至らないまま持続する話だ。ところで、このことは、倫理的にどう考えるべきなのだろうか。と、AKさんに訊く。
AKさんから、創作家に倫理は不要だと諭される。全くその通りだ。その瞬間、ラブコメのストーリー、2話分の着想を得る。色々話するうち、着想が4話分になる。
次のコアのマンガはラブコメになります。

7月28日から8月15日までの日記をWEBにあげる。

8月27日(金)

O次郎さんから電話。ある企画について、動こうと思う、と、O次郎さんに言う。新宿で会おう、という話に。
待つ間、暇潰しに「私の『戦争論』」(吉本隆明。ぶんか社)と「青木雄二の天下取ったる! 天の巻」(ぶんか社)購入。
O次郎さんと、トンカツ屋さんへ。色々構想練る。

「朝まで生テレビ」にえだの幸男さんが出演すると聞いていたので、観る。「日本が自立するとき」。
田原総一郎司会者が話を古い対立軸のほうへ持っていくのがトホホ。でも田原総一郎のこの癖にはもう慣れた。
オープンミーティングのとき、朝生では初めのうちに話しておかないとダメだということが判ってきた、と、えだの幸男さんはおっしゃっていたが、あまり語らず。…まあ、話が古い対立軸のほうにいくと、話すことなんてないよね。
「政策では、自民党と民主党の違いは小さい」という発言を、えだのさんはされた。「その小さいところが、重要なんだ。ガイドライン法案では国会の承認手続きを入れるかどうかとか」
…別な言い方すると、鎌やんが勝手に言葉を言い換えると、いままで自民党は、役人になんもかんも任せてきた。えだのさんは、代議士のする仕事は代議士がし、役人に任せない、というのが、主張の根幹だ(と、鎌やんは思う)。えだのさんにはその実力がある。多くの自民党政治家には、そんな実力はない。自民党政治家にあるのは、利権をどう啜るか、という嗅覚だけだ。ややこしいことは役人に任せておけ、というわけだ。
表向きの政策は、たしかに、自民党と民主党は、あまり変わらない。誰がやるのか、主語の問題なのだ。国民に対して責任を持たない役人官僚がやるのか、まがりなりにも国民の代表である代議士がやるのか。

8月26日(木)

AKさん家で起床。AKさんとビデオ屋数軒巡る。劇場版「ナデシコ」いずこも貸し出し中。AKさんIKさんとファミレスでご飯食べ、駅まで車で送っていただき、電車に乗って帰宅。

インターネット覗くと、「2ちゃんねる」に繋がらない。ちょっとびっくり。こういう事情だそうだ。

8月25日(水)

AKさんの家で、TV版「ナデシコ」、前半はAKさんから講釈され、後半を観る。
なるほど。ある意味完成度は高い。オタクの恋愛がよく描けている。キャラに新鮮味がかけらもないところは私好みではないが、「面白い」という理由はわかる。
翌日が劇場版「ナデシコ」のレンタル開始日だというので、もう一晩AKさんの部屋に泊まることにする。AKさんと一つの布団で寝る。

8月24日(火)

「少女革命ウテナ」劇場版、見に行く。新宿で待ち合わせ、寝坊する。AKさん、IKさん、ディグさんをえらい待たせる。ごめん。
遅れたので、「アキハバラ電脳組」を先に観よう、という計画が狂う。
ウテナを観る。うーん。
登場人物が皆変態性欲持っている、というところがよりあからさまになったのはよし。ウテナはそういう話だからだ。
生徒会長の、義父による過去もよし。善意とはそういう陰を持つものだからだ。
冒頭のぐんぐん動き回る学校のイメージはよし。ウテナらしくワケ判らないからだ。
ウテナの髪が短く、アンシーの髪が長くなったのはよし。アンシーが「男性にとっての女性」の象徴であることが視覚的により明らかになっているからだ。
しかし…ウテナカーは…いかがなものか。
アンシーが自身の意思で「外」を目指したこと。それはよし。だが、それは映像として20秒あればいい。それ以上は余計だ。
たくさんのベルゼブルカー。これは、実感としてよくわかる。「あんたばかりかっこいい思いさせてたまるものか」というやっかみ。つい先日偽者騒動ありましたし。よく判ります、実感として。ということで個人的によし。
特に後半、少しストレートすぎたように思う。幾原監督のメッセージは実にまっすぐだ。ウテナという作品は、外見的に、キラキラしく、装飾過剰に見える。バロック的装飾に満ちている。そのこと自体は、正直言って私自身の趣味にフィットするものではないのだが、幾原監督にとって必然的なものだろう。今回そのバロック趣味がやや、乏しかったのではないだろうか? 判り易すぎた。バロック的装飾と、ストレートなメッセージのきわどいバランスが、おそらくウテナという作品が、視聴者に快楽を与えている快楽の源泉なのだろうと思う。
(後日、てるき熊さんと劇場版ウテナの話をしたとき、テレビ版は必ず、決闘という形式を30分の間に盛り込んだ。それが形式として良かった。劇場版にもそういう、形式の美学がよりあるべきだった、という話を伺った。そう思う)

3人のほうを向いて謝る。ごめん。
3人、帰ろうとする。「アキハバラ電脳組」を観て行こう、と引きとめる。観る。ちなみに私は電脳組見るのは初めて。観終わる。3人に謝る。ごめん。

大雨。劇場から外に出れない。小降りになったのを見計らい、バスに乗る。
ゲーセンへ。3人がスト3をしている脇で、私は「王道の狗」読む。
4人でカレーを食う。

「ナデシコ」のビデオ観よう、と、AKさんに誘われる。ディグさんと別れ、AKさんIKさんと電車に。
カラオケへ。久しぶりに歌う。歌ったことのない歌にチャレンジ。
AKさんのお宅にお邪魔する。AKさんの姪ごさんに初対面する。

8月23日(月)

服を買う。洗濯する。
「王道の狗」(安彦良和。講談社)2巻、3巻、4巻、コミティアカタログ、「国立博物館物語」(岡崎二郎。小学館)3巻、「天皇ごっこ」(見沢知廉。新潮文庫)、「残酷な神が支配する」(萩尾望都。小学館)13巻、「青青(あお)の時代」(山岸涼子)2巻、「大問題99」(いしいひさいち。創元ライブラリ)その他購入。

8月22日(日)

午後起床。ディグさんから電話。一緒にビデオ観ましょう、との誘い。

インターネット覗く。「まったり生きたいけれど生きられない人のBBS」に、にしかた氏がイベントする、との告示が。おや。自分のいない間にそんなことになっていたのか。ずいぶん豪華なゲスト陣。私抜きでイベントするとはまた無謀な。誰が裏方して泣かされているのだろう、自分の知らない運動の広がりでもできたのかな、東京にいないと、あっという間に取り残されるなあ、寂しいことだなあ、と思う。

ディグさん、部屋に来訪。AKさんから電話。TV版「ナデシコ」を観たらとても面白かった、という話、火曜日あたり皆で劇場版「ウテナ」観よう、という話などする。

時計見る。今からビデオ観ると、イベント開始時間に間に合わない。ディグさんに事情説明し、イベント会場へ。

ビルはあった。しかし地下一階小ホールなんてところは、ない。どこだ? うろうろする。やはりうろうろしている人がいる。イベント参加しようとしている人なのかな? それにしても会場はどこだ? インフォメーションに掲示しておけ、と思う。
にしかた氏の携帯の電話番号思い出そうとする。記憶力が錆付いてなかなか思い出せない。うろうろする。やっと思い出す。電話する。
「今イベントやっているんだろうけれど」と恨みがましく切り出す。
「やってないよ。怪情報だよ、それ」
にしかた氏も、宮台真司さんからそういう怪情報が回っているということを、さっき聞かされた、とのこと。なにい。そうだったのか。騙された。
せっかく新宿まで出てきたのだから、にしかた氏と会おうという話をする。
先ほどのうろうろしていた二人連れの方が目の前を通ったので、「宮台真司さんのイベントに来た方ですか?」と声かける。頷かれる。「あれ、怪情報だそうですよ、にしかたくんに確認とりました」
なんだってえ、がっくし、と脱力される。
話を聞く。宮台真司さんのファンの方だそうだ。あれを「まったりBBS」に転載したのは自分だ、と、その方がおっしゃる。にしかた氏には興味はないが、コミケ関係でそれなりに名の通った人間だということは聞いている、にしかた氏を攻撃しているチャンネルがあって、そこにその情報があった、との説明。そのチャンネルににしかた氏も書き込んでいたので、情報は本物だと思った、とのこと。
にしかた氏がインターネットで書きこんでいる? そんなバカな。彼はそういうことは全然しない人間だ、と説明。話を聞く。こういう書き込みをしている、とのこと。いや、にしかた氏はそういうものの言い方はしない。その「にしかた氏」を名乗る人間も、偽者だろう、と説明。ではまた「まったりBBS」あたりでお会いしましょう、と別れる。

Bマニアックスヘ。店長さんは不在。待たせてもらう。ずいぶん遅くなって、にしかた氏来る。情報交換。
KUMA氏と合流。下北沢のお好み焼き屋へ。
帰宅。

インターネット繋ぐ。
ここか。怪情報の元は「2ちゃんねる」か。おお。にしかた氏のスレッド、二つも立っている。

たしかににしかた氏の偽者がいる。ちゃんとそれらしいこと言っている。これなら騙されても仕方ないかも。
こいつ、にしかた氏のことよう研究しているなあ。その労力、もう少し建設的なことに使えば良いのに。有名でもない人間の偽者するのって、楽しいか? よほどマンガ防衛同盟に幻想抱いていらっしゃるのに違いない。偽者のかたも、それを糾弾されているかたも。同じサークルの人間が自作自演マッチポンプでたぶんしているんだろうけど。違うかな。

このスレッド、いつからだ。8月16日から。ははあ、ロフトプラスワンでやったアングライベントで変な盛り上がりしたのね。(なんかこの辺見ると、マッチポンプなわけじゃないようで。トホ。みんな、夢見過ぎだよ)

「まったりBBS」に「鎌ヤソ」名義の書き込みがあったりして、なおのことややこしいことに。「鎌やん(本物)」と署名して、自分でうぷぷと思う。いつからそんな有名人になったのやら(なっていない)。

2ちゃんねるを数時間後に見直す。話が暴走している。暴走した動機の可能性として考えられるのは2つ。
1;にしかた氏の偽者だというのがバレたので、計画が狂って、切れた。
2;にしかた氏の偽者相手に本気で突っかかっていたことが恥ずかしくて、切れた。
どちらにしろ、まともに相手する意欲も萎える。
自作自演じゃなくて、偽者に対して、本気でブチ切れていたのなら、なかなか象徴的な出来事だ。…幻想なんだよね。

1999年8月第3週頃

2012年03月27日 01時09分48秒 | Weblog
8月21日(土)

目が覚めると昼12時を過ぎている。遅刻だ。えだの幸男さんのオープンミーティングへ。話の初めのほう、聞き逃す。以下、えだのさんの話のメモ。鎌やんによる勘違いもあると思うのでご注意を。
遺伝子組換え食品の話。

遺伝子組換え食品の管轄、厚生省と農林水産省での縦割りが問題となる、という辺りから話を伺う。
厚生省では、大豆、とうもろこし、ジャガイモ、ナタネ、綿の実を原材料とする6作物22品種を表示する。
遺伝子組換え食品は、消費者からすると、全て表示して欲しい。消費者の選択権。安全の確定ができないのは、消費者としてはツライ。
農作物に表示するのは、それほど難しくはない。だが、大部分は加工されて流通する。全ての加工食品について、全ての原料を確認するのは、現場サイドではかなり無理がある。
遺伝子組換え食品を一番使っているのは、畜産だ。豚や牛の餌として組換え食品は使われている。飼料の原料を全て追いかけるのはかなり無理がある。それでも国内でだけならばどうにかなるかもしれない。だがそのときにはコストとの問題が発生する。外国の安い肉との価格との差がいっそう大きくなる。
全ての食料について、遺伝子組換えがなされているか否かチェックすると、これは貿易障壁となる。輸出入が成り立たなくなる。

えだの幸男さんの考え。
(遺伝子組換え食品を使っている、という表示はあまり現実的ではない)むしろ「遺伝子組換えを一切使っていません」という表示の権利、が、大事だ。
この表示には嘘は許されない。違反には罰則を。消費者にとっては、「遺伝子組換えを使っている」表示でも「遺伝子組換えを一切使っていない」表示でも同じことだ。
現在、「無農薬」「有機農法」の表示はいいかげんな自己申告だ。「これは100%安全な食品である」という表示とするべきだ。嘘の表示をした際には、大いにペナルティを与える。
…消費者の権利を守るには、二つの方法がある。「これは間違いなく安全」であると表示するのか、「これはリスクがある」と表示するのか。

続いて、消費者契約法について。

契約書を交わさなくとも、「売ります」「買います」と言ったら、それは契約である。
契約は、民法で規定されている。民法は、明治時代に作られた。民法は戦後、家族関係のところだけは作りかえられた。契約については変わっていない。
現状に合わせ、訪問販売法は作られた。七日以内なら無条件で返せる、といったことが決められた。だが、通信販売、キャッチセールスなど、昔とは「契約」の形が変わっている。
基本的なところから考え直そう。明治時代は、契約は、一対一で取り交わすのが原則だった。対等な関係を前提としていた。キャッチセールスなどは、売る側は会社ぐるみで、個人の消費者を相手にしている。関係が対等ではない。

なぜ今まで消費者契約法がなかったのか。
大蔵、通産、郵政の三省間の縦割り行政のためだ。
サラ金については、大蔵省が自分のところの管轄だ、と言う。訪問販売については、通産省が自分のところの管轄だ、と言う。家の売買なら建設省、医療関係なら厚生省。それぞれが、自分の所管についてする(自分の縄張りに口を出すな)、と言っているが、それぞれの省庁は、「売る側」を育てるのが仕事だ(サラ金の金は、銀行から融資されている。銀行を育てるためにはサラ金を取り締まりすぎないほうが良い)。あまり「売る側」を規制するわけにはいかない。
省庁ごとに、行動はバラバラだ。結果、全体のバランスが悪くなる。被害者(消費者)の権利より加害者(「売る側」)の権利が多く守られる状態になる。
一方をプロの商売人、他方を素人とした、ルールを作る必要がある。それが消費者契約法だ。

「消費者ばかり甘やかせていいのか」という批判がある。自己責任を果たしていないのではないか、というわけだ。
大事なのは「選択する権利と自由」だ。自己責任は、最低限のルール作りがあった上での話だ。自己責任以前の問題がいくつかある。
大事なのは自己責任を徹底できる基盤作りだ。「消費者契約法」は、「売る側」に対し、プロとして最低限ここだけは守りなさいというルールだ。消費者問題で最も重要なのは消費者教育だ。

日本の従来のやり方の例として、玄倉川のキャンプの例をえだのさんは挙げる。現在、玄倉川は立ち入り禁止になっている。国民への過保護、過干渉、愚民思想だ。
リベラリズムは、自己責任だ。玄倉川の捜索費用は、自己負担だ。リスクを自分で負うこと。自己責任を前提とする。ここで重要なのは、どのくらい危険なのか、という情報だ。

別な話題へ。

消費者庁、というものが必要だ。(科学技術庁は文部省と統合されるが、)科学技術の副作用を研究する期間が必要だ。

厚生省は、三分されるべきだ。1;医薬・食品安全部門。2;社会保障・労働部門。3;老人、子どもの障害などの部門。

日本の役所は供給者の利益利害調整機関になっている、という、参加者からの意見。
えだのさんから。本質的には、行政が本当にやらなくてはならないのは、商業ベースに乗らない、遺伝子組換えの危険性などの研究だ。これには税金を投入する価値がある。その代わり報告義務は徹底されなくてはならない。

遺伝子組換え技術は、アメリカの戦略の一環だ。遺伝子組換えの特許もアメリカが持っている。国際的には、EUと日本は利害の一致する点が多いので、アメリカを包囲する戦略が必要だ。

靖国神社公式参拝について。何を「公式」と言うのか? 何を「公人」と言うのか? 千鳥が淵に、戦没者墓苑がある。国家行事として、毎年、そこで追悼が行われている。「公式」とはこういうものを言う。
靖国神社という「宗教」と、政治は、距離を置いたほうが良い。
靖国参拝を政治利用しようとする人間に対し、国民は怒るべきだ。大臣に就任する以前は靖国に参拝したことがないくせに、大臣になってから、そろって参拝をはじめるとはどういうことだ。
公人と私人の区別というのはあまり意味がない。「公式参拝」とは国家の予算品目として数え上げられてこそ「公式」なのだ。「自称・公式参拝」に過ぎない。法的には、「公人」が参拝しているだけで、「公式参拝」とは言えない。

国旗国歌法案、盗聴法案など、国会で議論するかどうかも、結局のところ、多数決によって決まる。野党の対抗手段としては、つまるところ、選挙でひっくり返すことができるかどうかなのだ。多数派に議論を拒否されると、野党にはする術(すべ)がない。

次回オープンミーティングは、9月18日(土)。以上、オープンミーティングのメモでした。



オープンミーティングの後、「天下国家を語る会」出席。玄倉川キャンプ事故について話言ったり聞いたり。

政党というものは、ある日突然出来あがるものなので、外からはしっかりした組織であるかのように見えても、実際中にいると、うひゃあ、こんなにも何にもない物なの、と、びっくりすることが多い、という話など伺う。えだのさんの周りはボランティアで成り立っている。

「語る会」の中に、私のマンガ知っている人がいた。きゃあ。少し話する。
その方が、えだの事務所のバイトの女性に、ロリコンマンガ描いている人だと私のこと紹介。性の実存について、きっつい質問たくさんされる。質問したほうはきっつい質問だという自覚はなかったでせうけど。ああ、なぜ僕はこんな目に会わなくちゃいけないのだ、と、天を仰ぐ。

8月第三週

神奈川のキャンプ場で人が流されたニュース。リアルタイムな情報を見なかったせいか、自分の見た情報は偏っている気がする。ニュース23では、放水した玄倉ダムの役人さんを取材。そこから連想。

後進国独特の、人命軽視。…国旗国歌法案制定のきっかけとなった広島の校長自殺のときも思ったのだけど、原資料がどこだったかわからなくなっているので書かなかったのだけど。
戦前、全ての学校に、御真影が置かれていた。ある学校で、火事があった。校長は、御真影を燃え盛る校舎から救い出そうと飛び込み、焼死した。美談としてその後語られた。このとき、人間の命と、御真影と、どちらが大事なのか、という議論には、日本は発展しなかった。
国旗問題で自殺した校長の話も、似た展開をその後した。…日本独特の、後進国特有の、人命軽視。
…玄倉ダム職員は、警察から、たっての願いということで、放水を、一旦停止した。5分後、「このまま止めていてもどうせ溢れるのだし」という判断で放水した。
私はその判断を、怖いと思った。彼の内面では彼がその判断の主体ではないはずだ。彼の主観では彼は何か大きな公のものに従っただけなのだと思う。その主体の不在の怖さ。イスラエルのアイヒマン。日本の美談にまとわりつく、人命軽視の風。
(後日、「天下国家を語る会」でひとと玄倉ダムについて話し合ったら、「いや、あれはそういう事件ではない」と聡されました)

ある企画。今しかやるときはないかも、と、思い至る。会いたい人間をリストアップ。

ゴミを焼却場までトラックで。作業終わり、駐車場から家まで歩いていると、みいちゃんの家の人々が車で通る。停車。ちょっと話する。肝心のみいちゃんは不在。「また遊びに来てください」と私は言う。そうじゃなくて本当は、また遊びに行きます、と私は言いたかった。

妹二人と久しぶりに話する。兄貴がやさぐれているぶん、妹たちは堅実な人生を歩んでいる。
久しく会っていなかったが、二人とも、事実を正確に話すことより、相手が望む幻想を助長する、法螺吹きな性格なのは、おや、これは面白い事柄だ、と思う。
どの道、正確さなどというものは主観的なものだ。そこには判断が含まれるのだから。
客観的事実を聞くと、聞いた相手はその人間の練度に応じて、よく練れている人は正確な事実を掴むし、練度の乏しい人はそれ相応に幻想を膨らませる。その幻想は、客観的にはその人の無知と夢見がちな性格に支えられるのだが、幻想を膨らませた当人にとっては当然の論理の帰結だ。
幻想を崩すには労力を必要とする。こちらが相手の幻想を崩して得るメリットはない。相手は夢を見たいのだから。相手の幻想につきあっているほうが、とりあえずは、メリットが多い。

仕事、20日まで、という約束に。
19日、酷く疲れ、仕事の途中で横になる。目を瞑る。二度と目が覚めないのではないかという恐怖を覚える。マッサージ師のいる健康センターへ。一時間のマッサージを頼みたかったが、遅かったので20分のみ。肩、喉、頭にしこり。帰宅。寝る。
起きる。寒気がする。喉が酷く痛い。体温計る。37度9分。風邪だ。仕事を休み、寝させてもらう。病院へ。点滴を受ける。帰宅。
荷物まとめる。仕事の代金を受け取る。随分頑張って支払いしてくれたとのこと。学生の頃なら大金だと感じた。使用する道がほとんどなかったからだ。しかし今では。これだけしんどい思いしてこの金額か。マンガはいい仕事だ。

電車で東京の部屋へ。曽さん、マンガが思うように進んでいないとのこと。メールチェック。メール20通を越えている。返信など書く。

1999年8月1日から8月15日

2012年03月27日 01時05分25秒 | Weblog
8月15日(日)

幸いにして東京までの交通回復。休みもらい、コミケへ。
東京駅からバスで。有明会場に、うなるほどの人間。
AKさんのスペースへ。AKさんの風貌、キリストみたい。にしかた公一氏がAKさんのスペースにいたのでちょっと話する。マンボウの本貰う。成宮観音FC発行成宮観音フォトCDをにしかた氏にねだる.。自分は担当ではない、と断られる。
永山薫さんにお会いする。「ぷちみるく1」に載せたマンガを誉めていただく。同じマンガを以前AKさんから「キャラが全然立っていない」と評され、その批評はまったくそのとおりだと思っていたので、永山薫さんに悲しい顔でありがとうございます、と応える。日々の接客業の反動で、自分の愛想が悪くなっていることを自覚。最近どうしているかと永山さんに聞かれたので、「日銭を稼ぐために肉体労働を」と応える。「マンガ描きなさいよ」と悲しげに言われる。
AKさんの手伝い。はじめ売り子する。手早く処理し、人だかりを解消させてしまう。おっと、これではまずい。IKさんと「あまり手早く処理するとせっかくの呼びこみの効果を減ずる」と確認。自分も呼びこみ要員になる。AKさん、初めて見るほどの真剣さで呼びこみをしている。「あじまる」さんも上手に呼びこみをしている。呼びこみを試みる。口がうまく回らないことを自覚。自分が、正直者のマインドセットになっていて、商人のマインドセットになっていないことに気づかされる。午後には商人のマインドセットに成功。弁が回るようになる。新刊が売りきれた後も列が消えず、むしろ一時膨れ上がる。呼びこみの重要さを確認。AKさんに女性ファンがかなりついてきていることも確認。
終了。「あじまる」さんと虎の穴へ発送しに行く。「あじまる」さんは自分と生活環境がよく似ているので、他の人にしたことのない愚痴を「あじまる」さんに垂れる。虎の穴の女性店員さん、サークル名を書いた用紙渡したら「AKさんですか? 私、AKさんの本、ずっと発注依頼していたんですよ」と、目をキラキラされながら訊ねられる。残念ながら別人です、と女性店員さんに応える。AKさんのもとへ行き、その話をする。ああ、自分で行けば良かった、とAKさんが嘆くのを楽しむ。
AKさんIKさんは車。池袋で合流しよう、と約束し、「あじまる」さんと彼のサークルの人々の引率をする。よさこい野郎さんと池袋で合流しよう、と、電話する。ゆりかもめに乗る。途中下車し、ホテルまで荷物運ぶほうがたぶん早いだろうという話に。実践。余計に時間食ってしまいました。「あじまる」さん、荷物を車に積む、とのこと。AKさんたちを待たせると悪いから、と、「あじまる」さんから携帯電話の番号伺い、「あじまる」と別行動。「あじまる」さんのサークルの人3人を引率。池袋につく。AKさんと合流。30分以上待ったとのこと。「あじまる」さんに電話。通じない。とりあえず移動。焼肉屋の席が空いていないので、他の人には喫茶店で待機してもらう。合流場所に再度向かう。よさこい野郎さんの連れ発見。よさこい野郎さんは「あじまる」さんを迎えに行っているとのこと。合流。携帯電話の番号、誤って教えられていたこと判明。焼肉を皆で食べる。
部屋へ。メールチェック。掲示板いくつか覗く。眠る時間なくなる。電車に乗る。田舎へ。

8月第二週

朝5時起床の生活。夜、ノートに一人記す。自分が何も知らないことに謙虚になれ。無知の証明を。私はけっこういい歳なのに未だにわからないこと知らないことがこの世に多すぎる。
第二次大戦て、誰が、なぜ、はじめたのだ? 聞き飽きている情報は1945年8月15日に終わった、ということ。8月7日に広島に原爆が落ちたということ。だが、誰がどうしてはじめたのだ?
連想する。安保闘争って、何だったのか?
連想する。原発って、どういうものなのか? 聞き飽きた情報はストロンチウム90などの放射性物質は人体に有害だということ、わかっているのは原発事故が起きたら極力埃を室内に持ちこまないようにし、ヨウ素(ヨード)で嗽(うがい)をすること。
連想する。国家って、何のためにあるのか? 国家と国土の違い、共同体と国家機構。
連想。大学って、なんのための機関なのだ? 行く必然がわからないまま私は受験し卒業した。私は酷く情報が制約された中にいたのだが、それは何によって制約されていたのか。そもそも学問は何のためにあるのか?
連想。エヴァに感じ、オタクに敷衍でき、現代人に共通すること、皮膚感覚での現実感は存在するが肉体感覚での現実感が欠落していること。「なぜ」のない社会。
連想。金のためにマンガを描くのは、自分にとっては虚しすぎる。読むのを待つ他者がいてこそ描こうという動機づけが成立する。〆切、依頼のない原稿は完成しない。作品は外的制約によって筆を止められるのであって、決して「完成」するものではない。
連想。少ない判断材料で考えると、誤った結論にたやすく陥る。材料を選択した結果少ないのではなく、偶然目の前にあった材料のみでの判断、オルテガが「大衆の反逆」でいうとこの「大衆」の思考。
連想。マンガは虚業だ。
連想。人に伝える前に、自分を納得させる言葉というのが必要だ。
連想。ペドファイルを自分がテーマにしていたのは、世の平均の人々に比べ、ずっと多くのことを自分はそれについて知っている、確信持って語れる、他者に語れるものがあると思っていたから。描けるものと描きたいものは、いつも異なる。「描きたいもの」はいつまでも描けない。
連想。自分がどんな世界にいるかも知らず、生き方を決められるはずがない。そこには虚勢と自虐しかない。現実感の欠落。
人から貰った「季刊・人間と教育22号」(旬報社)読了。
接客。疲労が溜まるのに、声だけは軽快そうに喋ろうとしている自分を観察。言葉に次第に心を込めることができなくなる。この自己観察は皮膚感覚の現実であり肉体感覚の現実ではない。パースのない奥行きのないぺらっとした現実だ。と感じる。
ある企画。今、自分がそれをしたら、自分は詐欺師になる、と思う。それに見合う何事も自分はしていない。

8月8日、疲れが溜まり、そのため却って眠れない。睡眠時間2時間。自分の今後について悶々と考える。AKさんに電話。AKさん不在。AKさんのコミケの人員の手配、とりあえずする。

8月9日、盗聴法強行採決、国旗国歌法案可決。ああ、通っちまった。
「国旗国歌法案、国民投票にかけたかったね」と妹に言う。
「みんなそう思ってるよ」と妹。そうだったのか。通さないようにするため、自分にはまだもっとできたことがあったはずだ、と、責任を感じる。長崎原爆投下の日。

8月10日、話する相手がほしいと思う。行動が消極的になる。激しい無力感に責められる。みいちゃんと話したいと思う。その衝動が自分の一方的な、手前勝手なものだとつくづく思う。だがみいちゃんと話をしないままみいちゃんのことを考えているのはもっと精神に不健康だ、と、暗い目をギラギラさせながら思う。二、三日のうちに一日休みくれと頼む。

8月11日、話し相手がいない、心を分かち合える誰もいない。物思いに耽る時間は、体動かしながらだが、腐るほどある。本を読む時間はない。

8月12日、休みもらう。みいちゃんの家に行く。家の回りを車で二回回った後、玄関から「すみません」と訊ねてみる。鍵が空けてあり、布団を干している。居間を覗く。みいちゃんは不在なようだ。あるいはみいちゃんは自室にいるのかもしれない。だがみいちゃん以外のみいちゃんの家族に会うのが億劫なので、みいちゃんの家を出る。車に乗る。未練たらしくもう一度みいちゃんの家の廻りを一周する。みいちゃんの祖母の姿を見かける。自分の精神の荒廃。車でうろうろする。誰にも会わず、帰宅。
冬コミは出よう、と思う。そのためには夏コミで申込書を買わないと、と考える。買ってもらって、送ってもらうか。時間が足りない。余計な労力を人に強いることになる。なら自分が行くほうが良い。オタクな人々と話しないと、崩れそうだ。AKさんに電話。コミケのチケット下さい、とねだる。AKさんから、身辺に色々あって大変だった、という話伺う。新刊は出せなかった、だから人員はそれほど必要ではない、と聞く。手配した人にごめんなさいの電話する。

8月13日、働く。大雨。稼げず。盆が近づき、客の質が低下していく。トイレからはみ出ている人糞を清掃。こうして一生他人の人糞を処理し続けるのだという、非力な感覚。

8月14日、働く。もっと大雨。ちっとも稼げず。東京への交通が断ち切られる。叔父と夜、話する。母がちとアレだということ、親戚は皆思っていたのだ、ということ、初めて知る。でもまあ、思うよね。叔父は知性に優れていた人だったが、自身の肉体の貧弱という劣等感を克服するのに随分と時間を食ってしまったのだな、と、叔父の話聞いて思う。人生の効率が宜しくない、と思う。

8月第一週

接客業する。肉体労働する。
夏の初めはあまり疲れる客は来ない。計画性を持って行楽を楽しみに来た、旅慣れた客が多い。トイレもあまり汚れない。辛いのは話をする相手がどこにもいないことだけだ。

「郵便的不安たち」読了。「存在論的、郵便的」チャレンジ。

接客しながら本を読むのはどうにも無理だ。うちの仕事も多少合理的になり、ムダに疲れることは以前よりは少ないが。
接客業は延々目の前の出来事を処理することだけを求められる。考えることは不用ばかりか害悪だ。目の前の人間に不快を覚えさせないことに労力を費やすことがここでは賢明なのだ。自分がどう感じどう考えているかは無意味なことだ。だが、それでも、自分の考えたこと、感じたことを伝えられる相手がいないことは、苦痛だ。伝える相手を持たない思考は脳内で空回りする。こうすればいいはずだ、こういうことを調べる必要がある、それをするためには自分に欠けている情報や知識はこれとこれだ、それを調べるためには。延々誰とも話することなく考えが空回る。やがて思考は煮詰まり、腐敗し、糸を引き始める。
調べる、という現実的な行動を今自分はとることはできないのだ。目の前の雑用を処理することだけが自分に求められていることだ。思考には延々保留のみ与えられる。傷のついたレコードのように、思考は同じところに戻り、回転する。この思考に回答を与えない限り次の思考はできない。だが回答は今は与えられない。自分以外の誰とも意見交換しないのでその思考には、正しい形すら与えられない。形すらなさないまま不完全なまま放置される。思考の衝動は擦切れる。思考することはムダだ、という感覚のみ強くなる。思考しても自分には何も現実的には出来ないのだという無力感を覚える。思考は足場ないまま空転し煮詰まり脳内の澱として溜まっていく。
「やりたいこと」は「できない」のだという感覚。それは錯覚なのだが、この錯覚以上に説得力持って自分に接するものはどこにもない。
接客業は内面の感情を表に出さないのが礼儀だ。かくて感情は干からび、感動を覚えない人格を形成していく。憧れる対象をどこにも持たず。

ノートに記す。大学へ行くことは、アッパークラスへのパスポートを得ることだったらしい。そのことに自分が気づいたのは随分と後のことだ。そして私はアッパークラスやハイカルチャーに自分が触れることができる可能性の説得力を感じる機会がなかった。それらへの憧れを抱ける材料は生活のどこにもなかった。なぜマンガ家に憧れたのだろう。マンガだけがこの生活の中で唯一触れることのできるカルチャーだった、だから、と、ノートに記す。ここ以外の現実がある、ということの説得力の希薄さ。

労働を終え、テレビを観てると、速水由紀子さんが出演している。「この人とこの間会ったんだ」口にした途端、あまりに自分のいる「現実」からその言葉が遠すぎ、自分の発言の嘘臭さに、自身脱力する。とうとう自分が妄想分裂症になってしまったかのような感覚。誰も認めないこと現実ではないことを現実であるかのように思い込んでしまった人間に自分がなってしまったという感覚。だから一時期、私は狂気を憧れたのだ、と、回想する。身の回りにある現実とは別な現実があることを信じられる心の強靭さに憧れたのだ。実際の狂気は強靭さの証明ではなく脆弱さの証明だが。

8月6日。私と同じ小中学校の、一学年下、父の同級生の息子である男が交通事故で死亡。名前を聞いても、顔も思い出せない。

8月7日。旅行慣れしていない人間からの、電話の応対に疲れる。繰り返し同じことを確認しなくてはならない。「一泊二日」 という言葉。「二日」というところにウエイトを置いて旅行業者が使うのは、少しでも日数が多いかのように客に感じさせるための、お得な感じを与えるための、トリックだ。宿泊施設の側は「一泊」なのか「二泊」なのか、そこだけが確認ポイントだ。「一泊」なら自動的に翌朝の午前中までが客の滞在時間になる。旅慣れない人間は、電話予約の際、「一泊」にウエイトを置かず、「二日」にウエイトを置く。トラブルの元だ。客の側は「一泊二日」と言っているつもりで延々「二日」と念押しする。宿泊施設の側はそれを「二泊」なのだと受け取る。延々繰り返される同じトラブル。

8月1日(日)

「ホーホケキョとなりの山田くん」観る。期待していなかった。面白かった。
今まで、高畑アニメは、主人公が愚かな行為をし、結果不幸な目にあっていた。今回「しげ」は実に賢明な行動をする。それは一方でギャグとなる。「たかし」はかつて月光仮面を憧れていた。感情移入する。切ない。月光仮面になれないのを嘆くともなく悲しんでいる、非力な「たかし」は自分だ。「しゃあないやないか」というメッセージが、「たかし」の実に「しゃあない」状況で、ギャグとして語られる。このメッセージの奥行きは高畑の正直なところだとして私は受け取る。好感。共感。最後、アニメスタッフによる下手糞な「ケセラセラ」の合唱が響くところで、じん、としてしまった。「となりの山田くん」は面白い。

劇場の後ろの席にやかましいガキがいた。推定9歳。大声で一人ごと言うなガキ。痛いオタクになるぞお前。なぜわしがガキに説教せにゃならんのだ。

田舎へ。

1999年7月21日から31日

2012年03月27日 01時04分31秒 | Weblog
新しい日記から、古い日記へ、という順番で表示されています。


7月31日(土)

 田舎のお仕事、スタッフが余ったので急遽2日だけ休みもらう。電車に乗り、ゴトゴト揺られて、大宮へ。

 えだの幸男さんのオープンミーティングに参加。大宮ソニックシティの場所がわからず、しばらく迷う。
 本日のテーマは、来年四月から導入される「介護保険」について。以下は鎌やんによるメモ。鎌やんによる思い違いなどあると思うのでご注意を。

 介護保険とは? 保険は、掛け金を払い、いざというとき負担を少なくする。窓口での支払いは、本来の一割から二割。「介護保険」は、年寄りになり、サポートを必要とするとき、サービスを受けられるための保険制度。40歳以上は強制加入。市町村が運営主体となる。

 なぜ必要になったのか? 「福祉」は社会的弱者、気の毒な方々のためにある、という心情が一般にある。ある程度収入ある人、資産ある人は、福祉を受けない建前がある。自力でどうにかしてください、という考えがある。自力でどうにかしなければならない、という前提だと、老後のために幾ら貯めておけば良いのかわからない。国民の貯金が多すぎると、景気が悪くなる。
 保険は、福祉ではなく、権利である。自分を「気の毒な人」だと負い目を覚えることなく、権利行使として介護保険は使用してもらいたい。(福祉にしても、負い目を覚える必要はないのだが)

 「社会的入院」というものがある。寝たきりだが、病人ではない老人を介護する役割を、病院へ押しやる入院を言う。現実にこれは多い。これが、国民健康保険のパンクを招いている。寝たきり老人に必要なのは治療ではなく介護である。病院から出ていただき、老人ホームでの「介護」を受けるようにするほうが良い。
 寝たきり老人を家族だけで介護するというのは家族の負担が大きい。医療技術は年々向上している。寝たきりに近い状態からリハビリへ、一年も二年も家族がたとえば休職して介護する、というのは無理に近い。少子化の結果、子の数は、介護を要する親より少なくなる場合も今後増えてくる。一人っ子同士の夫婦に、寝たきりの親が計四人、下手をすればその更に父母が健在だという状況も、今後十分ありえる。そのうちの一人を介護する、なら、家庭ごとでも耐えられる。だがそれ以上介護を必要とする家族がいたとしたら、家族だけで負担するのは現実的ではない。その負担の結果家族の長生きを望まなくなるような社会にするべきではない。
 介護保険は、市町村単位で行われる。市町村ごとに、一時的に地域差がどうしても発生する。それはサービスの競争という側面から見て、良いことだ。保険料が安い地域ではサービスは少なくなる。安く効率的なサービスの準備が出来ていた地域ほど、良質かつ安価となる。病院を老人ホームの代用としてい続ければ(社会的入院)、介護保険料は倍額になる。介護保健施設に今回病院が含まれたのは、厚生省へ医師会が圧力をかけた結果だ。医師会にとっては老人病院(老人ホームの代用)が沢山あるほうが儲かるのだ。
 老人が、同じ病気になって、その後「寝たきり」になるかどうかは、地域差が大きい。この地域差は、介護保険料のコストに反映する。たとえば長野県はリハビリ施設が充実しているので「寝たきり」になる率が低い。

 「認定」の問題。どの程度介護を必要とするのか認定する判断の問題がある。公平な判断は出来るのか? 100%の公平は無理である。だが従来は、特別養護老人ホームに入れる基準は存在しなかった。今回基準が決められる。基準がないよりあるほうが公平に違いない。
 介護保険で適用できない部分は従来の福祉(税金)で補われる。従来福祉によってヘルパーが週3回来ていた老人のもとには、介護保険導入後たとえば週2回の介護が適切と判断されたなら、介護保険による2回プラス福祉による1回、となるはず。

 特別養護老人ホームに入っている人の多くは、それ程のサービスを必要とはしていない。多くのことは自分でできる。特別養護老人ホームを必要としている人は38万人いるがまだ30万人ぶんしかホームはない(これは介護保険料とは関係がない。税金が用いられる)。ホームの数自体も足りないが、ホームに入るほどではない、という人のための「高齢者住宅」が圧倒的に不足している。高齢者住宅は、高齢者が互いに手助けしながら楽しく生活する「グループホーム」のための施設だ。バリアフリー、風呂の手すりなどが必要となる。来年までにグループホームのための高齢者住宅は8万人分作られる。必要としている人は20万人いる。現在はまだ3000人分ほどしかない。既存の住宅を利用することも必要だ。だが今後は質がいっそう要求される。高齢者住宅は、それまで高齢者が生活していた地域(コミュニティ)と近いところでなくては意味がない。地域の支えあいと伴になくてはならない。ホームは小中学校の学区程度ごとにあるべきだ。

 道路や干拓といった従来型公共事業に金を使うより、2兆円ほど金を突っ込み、ホームヘルパーの養成を、国はするべきだ。雇用の拡大、新規産業の育成にもなる。本来ホームヘルパーは民間でするべきだが、ホームヘルパーを一旦公務員として抱えても良い。3年間だけ臨時雇い扱いとし、その後NPOとして独立させる。
 「保険料を下げる」という意見はナンセンスだ。保険料の足りない部分は税金によって賄(まかな)われることになるからだ。

 「年金」は、競争を必要としない。したがって、「年金」は、税金で良い。
 「介護」にはサービスの競争が必要だ。したがって、市町村単位で格差があって良い。地方分権とはそういうことだ。
 保険は介護サービスの財源となり、ホームの建設には税金が用いられる。
 「介護保険」の導入により老人ホームの数が足りないという現実がつき付けられる。老人ホームは、ある意味いつまでたっても「足りない」。数あるだけ入ろうとする人は増えるからだ。一律の基準を設け、ある線以上は全て入れる、ある線以下は別のシステムでサポートする、そうあるほうが良い。「認定」はそのためになされる。

 介護保険のことはひとまず以上として、地方自治体の破産制度について。地方自治体の破産制度は導入されるべきだ。今後の課題は破産したときのペナルティだ。たとえば自治権を剥奪し、国の直轄地にする、ということもありえる。だが、困るのは「自治権なんかいらない」と言い出しそうなことだ。これは今後の課題だ。また、ペナルティとしては、破産した地方自治体の議会・首長は3年くらい公職停止、地方官僚もあるところ以上は免職、という厳しい措置が必要だろう。地方自治体の「破産」は地方債の買い手がつかなくなったとき「破産」と判断すべきだろう。

 

 以上、メモでした。オープンミーティング後、「天下国家を語る会」には、はて、参加したのかどうか、覚えていない。

 

 部屋に戻る。曽さんがいる。もうじき香港に帰る、という話。「香港はガラスの街だ」と言われるそうだ。ガラスのように冷たい、という意味だ。けれど東京はもっとガラスだ、と、曽さんの感想。

7月29日(木)ー7月30日(金)

 徹夜状態で田舎へ。肉体労働と接客業開始。例年に比べ、客は礼儀正しく、お仕事のスタッフの数に余裕があり、それ程しんどくない。

7月28日(水)

 田舎に行くべく荷物整理など。眠らないまま「市民の会」に参加した感想文とか書く。死にそう。

7月27日(火)

 やっと描き上げる。なぜこんなにかかったのかなあ。シニカルな内容にしちゃったからかな。次回はラブコメにしようとこっそり決意。 
7月26日(月)

 ひたすら原稿する。人間の行動は6時間単位なのだという説に納得する。

 
7月25日(日)

 曽さん、仕事へ。

 「子供売り」一人でやっていては原稿終わりそうにないのでDIさんに手伝いを願う。快諾していただく。ありがたやありがたや。高畑勲に何を読み取るべきか、とか、黒沢明から何を学ぶべきか、とか、そんな話する。

 マンガ家に比べ、アシスタントはより安定しない社会身分だ。マンガ家が保障のない自由業であることはいい。だが(既に成功している)作家先生がアシスタントの確保に常に頭を悩ませているのは、これはおかしいのじゃないか、という話をする。大手出版社なりは、「社員として」アシスタント技能拾得者を雇用しているのが当然だ、現に香港のマンガの会社はそうしている、日本では、そこに発生する煩雑さや経費を、出版社が、個々の作家に押し付けることが慣例になっている。といった話する。
 アシスタント、という仕事は、概ね、古めかしい徒弟制そのままで、その従事者は、自らの仕事に誇りを抱きにくい仕組みとなっている。現在のマンガ業界はアシスタントなしには成立しないにも関わらず。
 アシスタントなしには成立しないということは、作家より多くの数の人間の人生を、アシスタントとして犠牲にすることで、マンガ産業は成立しているのだ、と言える。
 アシスタント志望者は、アシスタントをすること自体を志望しているのではなく、自身がマンガ家になることを目的としている。ここで雇用者(作家先生)と従業者(アシスタント)との間で、色々楽しくない綱引きが発生する。だが現実には「マンガを描きたい者」の全員が「マンガ家になりたい」者なわけではない。マンガ家は生活が保障されないから、もっと安定した仕事を、という者は、当然の選択として、多い。…アシスタントという仕事を社会的に保障すれば、マンガ業界は良い方向にだいぶ変わるはずだ。などと話す。
 短期的・現実的対策としては、人材派遣会社としてのアシスタント派遣会社はあってしかるべきだ。アシスタント技能を客観評価する基準を設け、資格検定化する。
 自分自身がマンガを描くこと、より、マンガという世界を用いて金を儲けたいことに喜びを覚えるかたは、ぜひ創設してほしい。
 といった話しを、DIさんとする。
「よくこんな状況で業界は続いてますよね」
「マンガ家同士は結局孤立しあっているから、勢力・圧力としてかたちにならないせいだろうね。マンガ描く人は一種の理想主義持っているし…『金のために』という言動を卑しいと感じるような…で、結局、企業に搾取されて行く」
「そういう話題こそ『コミッカーズ』とかでとりあげるべきじゃないですか? もう、マンガの描き方はいいから」
「オタクは現実的な話より、現実に対処できないほど瑣末な情報をむしろ好むんだよね。…こういうのは、気づいた人間がはじめるしか結局ないのだと思う」
「鎌やんさん、自分のHPを、そういうことのページに変えちゃったらどうですか?」
ふむなるほど。

7月24日(土)

 「子供売り」に集中しようとする。
 休憩時に東浩紀氏の「郵便的不安たち」(朝日新聞社)ぱらぱらめくる。問題意識の方向性に強く共感する。面白い。

 G社とMAさんから、アシやらないかという誘いいただく。が、今回は無理なので知人を紹介。知人からスケジュール的に困難、先週は空けてあったのだが、という電話。うまくいかない。

 ASさんから電話。慰めてください、と頼まれる。ASさんがいかに天才であるかを力説する。天才は「うまい」ことより、むしろ「強い」ことのほうが大事だ、もっとワイルドに、破天荒に、と、洗脳を試みる。ジャック・ハンマーが誰よりも強靭な肉体をしているのは、誰よりも女々しい魂を抱えているからだ、というネタを提供。

7月23日(金)

 ペドフィリアとは? ということに頭が占められ、色々考える。
 軽蔑すべき秘密主義に自分が毒されていることに気づく。つまらない隠し事から自由になるべく、HY さんに電話。良い方向に転がりますように。

7月22日(木)

 HYさんとお話させていただく。HYさんは相手を緊張させない空気を作る技術を会得されていて、とても話しやすい。なるほど、これが「まったり」か。などと後で思う。自分の人生がなかったからマンガに憧れを持ち、自分の人生を作ることを優先させているんだ、という話とかする。

7月21日(水)

 IGさんから電話。キーワード「反省文」。囚われているものを照らしあう。

1999年7月1日から7月20日

2012年03月27日 01時02分51秒 | Weblog
7月20日(火)

 ASさんから電話。傍観者としての視点と当事者としての感覚。同じ作品を描き直しすることの意義、あるか否か。クリアできてないことを疎かにしたまま先へ進んで良いのか。「青いもの」への回答、という回答。カミングアウトすることの震えるほどの恥ずかしさ。告白しなければ今の状態のままでいられるだろうけれど、という停滞が現状であるという認識。そこからの脱却。4部構成の着想。
 SUさんへ電話。SUさんは気にされていないそうだが、謝罪。当事者としての責任を放棄しようとしたことは反省しなくてはならない。新情報教わる。あることに対し情けなくなる。
 AHさんに電話。同じことの謝罪。児童ポルノ法がマンガ全体を含めたサブカルチャーに対して与える影響、他国との違い。勇気づけられる。ありがとうございます。
 HYさんから電話。ありがたやありがたや。

7月19日(月)

 下絵がどうにか。
 ロフトに行く。カナダでは『10歳の子供がレイプされて』という文の書いてある本を持っていると、単純所持で捕まる、だっけ? 記憶が怪しい。コピーライトではなくコピーレフトという概念。メジャーな作品は公共物である、という判例のあるフランスの例。理論の共有。自分たちのしていることを「外へ」説明することの、説明責任。
 打ち上げでしくじる。
 竹熊健太郎氏とお話。八幡書房創設者について。反体制活動からオカルトへ、というライン。
 打ち上げ後、Nを交え反省材料を数えようとする。認識のズレ。Nと話してる間に身体がわなわなと震える。大丈夫か? と訊かれる。
「たぶん無意識下で怒りを覚えているんだ。意識の上には上っていないから大丈夫だ」と言う。

7月18日(日)

 記憶にない。仕事進めてなかったように思う。

7月17日(土)

 記憶にない。たぶん何もしてなかったと思う。

7月16日(金)

 DIさん、早朝に来る。今週から私が行く、という話になっていたG社のアシを継続してしているとのこと。

 寝て、起きる。電話代支払い。メールチェック。消耗。…早く忘れよう。

7月15日(木)

 つまらないことで消耗する。面白いことでは疲労はしても消耗はしない。SUさんと電話で話して、少し回復。

 メモ。行動しないことを観念で埋めようとすると、非健康的になりやすい。およそ頭の回転が早い「だけ」の人間ほど、非生産的で無益な生き物はいない。「行動できない」ことを「できないんじゃなくて、しないんだ」と、論理のすり替えを自分にする。「行動しないということは、自分が誰よりもよくわかっていることの証明だ」。だが、行動「できない」不安感無力感は彼を離さず、彼はその不安感無力感を埋めようとまた観念に耽溺する。
 意識的に頭の回転を「遅く」する訓練ができている人間とできていない人間ではどえらい差がある。
 処世としての「バカのふり」には色々あるけど、自身が軽蔑を覚えるタイプのバカのふりをすることは不幸だ、と思う。「俺はこういうことしてんだけど、本当はわかってるんだよ」と仮面としての「軽蔑されるようなバカ」を自身の内面/実存から当人が切り離した気になったとしても、「軽蔑されるようなバカ」なのは彼自身なのだ。
 敏感であることと賢明であることは同義ではない。

 メモ。ボランティアは無償であるがゆえに、官僚的になりやすい。これだけ無償でやって「あげて」いるんだから、俺に感謝しろ、という考え違いが発生する。悪しき官僚主義だ。組織は原則オープンでなくては未来を自分の手で摘み取ることになる。組織に守秘義務は当然発生するが、外に対し秘密主義を肯定するようなら最低だ。右手のしていることを左手が知らない状態のなかで、左手として行動するのは、正常な人間ならうんざりする。

 寝て、起きると、また電話が止まってる。

 メモ。自分自身へ宛てた手紙を。
7月14日(水)

 メモ。 「曖昧」と「矛盾」と「両義的」の区別。この三つは混同されやすい。
 物事の多くは「両義的」だ。ものには表面と裏面がある。同じ問題が、対照的な二つの表れをすることはよくあるし、同じ人間が同時にそれを抱えることも多い。他者を嫌悪するのは自己嫌悪の裏面だし、何事かにこだわらずにいられないとき、なにかに振り回されているとき、それは一見「矛盾」しているような極端な二つの姿を外に表す。
 ある人物の行動が「矛盾」していると評される際、その「矛盾」は、同一の原因によって発生している。その同一の原因から行動を眺めなおすと、「矛盾」は「矛盾」でなく、一貫したものが見える。 
 自身に対し、この、一貫した、同一の原因を見極める努力を怠ることを、「曖昧」と呼ぶ。「曖昧」は行動の「矛盾」に対し無自覚であることを容認する。結果、当人は「矛盾」を増大させ、「両義的」であるものの一方、自身の裏面をとことん見失い、馬鹿げた行動を繰り返し、止められなくなる。自身を振り回すなにものかの奴隷となる。
 「矛盾」を恐れるな、と、私は君に言いたい。「矛盾」していない人間はいない。自身の「矛盾」に目を凝らせ。たまたま間違いを冒さなかったことと「正しい」ことは全くの別物だ。間違いをしでかすかもしれないことを恐れるな。そしてそのリスクは支払え。間違わない人間はいない。自分の誤りを受け入れる強さのない人間、自身の「矛盾」に無自覚な人間が絶望的に多いというだけのことだ。
 「矛盾」しろ、「曖昧」に安住しようとするな、つきつめろ、それに囚われずに生きろ。
 と、これは、『小さな玩具』の巻末鼎談のとき、言いたかったけどうまく言えなかったことです。今更ながら、言及しておきます。

 

 体調。キョーレオピン、ユンケルEC飲んでないので、肝機能が弱ってることに気づく。薬買う。薬って高いなあ。

 天気。太陽が見えたので布団干す。干している間に雨が降る。とり込むと太陽が見える。干す。とり込むと霧雨が降っていたり。大雨注意報が出てたそうな。

 曽さん帰宅。今後二ヶ月いかに有効に使うかについて意見交換。曽さんの次のマンガについて意見交換。「運」「努力」「才能」「風水」「作品世界内のルール」「ヒーローの描き方」とか。曽さんとマンガの話したので、だいぶ気分転換になる。 
7月13日(火)

 原稿する。ASさんから電話。マンガ家が最も戦うべきは「孤独」で、インターネットに溺れてると戦いに負けるという話、忠告される。
 マンガは目的か手段かという話する。ASさんには目的、私にとっては手段、とかいう話になる。
 「目的になりませんか」と、ASさん。
 「いやあ、『承認』得るためにやってるわけだからなあ」
 DIさんとASさんとの間で会話がなりたたなくなっている、という話聞かされる。ああ、DIさんも同じこと言っていた。傍で二人の会話聞いていると、通じているようで互いに全然通じてない。なぜそうなるのか、ということについていくつか分析試みる。
 少ない論拠をもとに論理を暴走させる傾向は、私の知りあいにはわりと多い。マンガを描くということはそういうことだから、なのかもしれない。そのため、互いの言葉が通じなくなりやすい。
 友情を大切にするには、相手がどういう制約下にあるかを理解しあう必要がある、という話する。相手がどういう制約のもと、どういう限定で語っているのかを取り違えると、会話は通じなくなって当然だ。
 けど、同年代同士の付き合いは、ひょっとしたら互いに思いやる必要はあまりないのかもしれない。という話する。うっかり共依存関係になって、互いに凭れたままずぶずぶと低きに流れてしまったら最低だからだ。
7月12日(月) スター・ウォーズ(ネタバレの恐れあり。注意)

 「スターウォーズ・エピソード1」、DIさんと観る。DIさんと感想の交換。
「面白いでしょう」と、DIさん。
「うん、面白い。…キャラ造形が書割的、というのはたしかにあるけど、観たこともない映像の中に、見たこともない複雑な内面を持ったキャラが出てきたりしたら、きっと、観ててなんだか訳判らない代物になる。
 これは画面をひたすら楽しむ映画だからこれでいいんと思う。
 ただ、欲を言いたくなる気持ちはわかる。あと、ほんの少し、の踏み込みが足りない、と、感じるところが何ヶ所かあった。
 ジェダイの騎士は、アナキンの母親ごと救うことをもっと懸命に努力し、努力したんだけど力及ばなかった、という風にしてほしかった。
 アナキンはジェダイの騎士を助けることを申し出るが、その行為にアナキンの側のメリットがない。これは、たとえば、アナキンがジェダイの騎士に対し取引を申し出る、みたいな形にしたほうが、たぶん良かった。アナキンの賢さ、したたかさが、それで浮き彫りになるはずだ。…そうすれば、なぜアナキンが「ジェダイの騎士になるにしては年齢を食いすぎた」のか、という説得力がもっと出たはずだ。社会経験があった上で騎士になるほうが良いに決まってるじゃないか、と、映画を観ながら、私は思っていた。
 …でも、やっぱ、ルーカスは凄いね。子供のころ想像したものを忘れずに、全部映像化しようとしてるもんね。会議する惑星の映像なんて、恥ずかしい50年代SFのころの未来像まんまだけど、それを映像化している。
 …俺的には、女王の星の政治体制が興味深かった。民主国家名乗っていて、女王持っていて、女王は国民の選挙で選ばれてるでしょ。…きっとあの星では、都合の良いときには民主主義国家、都合の良いときには君主国家なんだ。たぶん王家の血筋は決まっていて、即位のとき儀礼的に信任投票するんだろうなあ。…あの女王はたぶん例外的に有能で政治に関心のあった君主で、先代先先代あたりはダメな君主だったんじゃないかな。官僚の力強いみたいだし」
 そのあとスターウォーズ的なものを自分達がどうとり入れることができるか話する。たぶんDIさんが目いっぱいスターウォーズやって、結果出てくるものはナウシカだったりするんだろう、とか言う。ナウシカ目指すとポンポコになったり。
「アメリカは、まじめにスターウォーズみたいなバカな映画作れるところが強みなんでしょうね。日本だと、真面目な話は深刻になっちゃって、バカな話はいーかげんでデタラメな映画になっちゃう。良い所でのバランスがとれない。
 もし日本で、たとえばスーパーマン作ったら、きっと『スーパーマンなんて実はいなかったのかもしれない』とかいう話になっちゃうんでしょうね。そーゆーのはもういいねん。こーゆーのは『ごく一部』の人がやっていればいいんだけれど、日本にはこの『ごく一部』しか良い作家がいないんだ」
とかいう話をDIさんがする。
「刑事さんは癒されるでしょうか」というマンガのネタを思いつく。DIさん、描いてくれ、君そういうの得意でしょ、とねだる。
7月11日(日)

 同じページの下絵を描いちゃ消し描いちゃ消し。
7月10日(土)-7月7日(水)

 「子供売り」下絵不調。
 ISさんに長電話。
 曽さん、仕事へ。
 ASさんから一緒に作業しようという誘い。断る。
 図書館で絶滅哺乳類の本見てるうち、「ネアンデルタールの歌」という着想得る。ノートする。
 マンボウの会議に行く。そんなん行ける状況ではないのだけど。作業する。空しい。
 DIさん「オースティン・パワーズ」借りてくる。見る。メチャメチャバカ映画で大笑い。「俺、こういうの大好き」とDIさんに言う。
 DIさんと、なんで原稿描く意欲が萎えるのか話し合う。 
7月6日(火)-7月5日(月)

 田舎へ。健康診断する。肉体労働する。重いもの持ったので、右手の筋がつっぱる。雁を数えると35羽。帰路、肉体疲労のため、頭痛する。目玉がじんじんすることに気づく。実家にいる間はこの頭痛に無自覚だった。そうか、田舎で生活するためにはこういうのに無自覚でいないとダメなのか、と、思う。肉体労働に比べると、漫画描きというのはいい仕事だと思う。
 部屋に着くと、ちょうど曽さんが帰ってきたところ。曽さんのビデオ録画予約、盗聴法集会のニュース録画のとき解除したまんまだったことに気づく。ぎゃ。曽さんごめん。
7月4日(日)ー7月2日(金)

 「子供売り」下絵する。不調。UJさんから仕事もらう。JR大宮駅のゴミ袋のイラスト。資料受け取り、食事一緒する。一日で描きあげる。
 G社から電話。アシ探してるとのこと。自分が名乗りあげるが、今週必要とのことで数人に声かける。DIさんの都合がわりといいらしいとわかり、伝える。
7月1日(木)

 「子供売りの季節」ネーム出来。ファクスする。2箇所変更。

1999年6月11日から30日 マシウスの夜郎自大日記

2012年03月27日 01時00分16秒 | Weblog
新しい日記から、古い日記へ、という順番で表示されています。

6月30日(水)

 「子供売り」ネームする。
6月29日(火)

 「守る会」に顔出す。   
6月28日(月)

 某団体からクレームが来る。対処。
6月27日(日)

 無為に過ごしたような気がする。 
6月26日(土)

 実家から大荷物持ったまま直で大宮へ。

 えだの幸男さんのオープンミーティング参加。議題は「盗聴法と犯罪捜査について」。以下、そのときのメモ。えだのさんの話を鎌やんが解釈したものなので、たぶん誤解もあると思います。以下、えだのさんの発言そのままではないです。

 まず、「盗聴法の必要性と犯罪捜査の不充分性」から。

 今の政治の課題を大きく三つあげると、1;規制緩和 2;環境重視 3;経済自由化 これらはいずれもせめぎあう課題だ。日本には、法はあってもそれを守らせる手段が従来なかった。ルールは、最低限のもの、それによって生活に支障の発生しないものでなくてはならない。日本では逆に、法的根拠のない、省庁からの「指導」(口出し)で管理がされてきた。

 環境問題を考えてみる。
 環境問題が発生するのは、基準が甘いからなのか? それよりも、ルールを作っても守っていないことが問題なのだ。産業廃棄物の野焼きがダイオキシンを発生させている。産廃の野焼きは、昔から違法なのだ。だが野焼きは行われている。違法な野焼きについての検査は行われているのか? …たとえば埼玉県全体で、野焼きの検査をする人員は、3人しかいない。検査日は事前に産廃業者に伝わっている。検査日にさえ野焼きの事実を隠せば、それで産廃業者はペナルティを支払わなくて済む…このようにして、ルールは守られず、ダイオキシンが発生していく。

 守ることのできない法律、というものはある。たとえば労働基準法は日本で最も守られていない法律の一つだ。厳密に労働基準法を日本人全員が守れば、日本の産業は崩壊する。これでは意味がない。労働者の権利を守ることは大事だが、これでは労働者の権利主張そのものがナンセンスになる。労働基準法があるから、「サービス残業」しなくてはならなくなり、正式な残業としての届出がなされないから、給与がつかない…本末が転倒している。

 環境問題でも、労働基準法でも、法(ルール)はあっても、それを守らせる仕組みがないのだ。このため、一方では、法律を決めはするが罰則を作らず、行政指導で管理をする、という(好ましくない)慣例が行われてきた。また一方このことは、モラルハザード(倫理観の崩壊)を招いた。ルールを違反し摘発された者はあくまで「運の悪かった者」であり、反省を生まない。摘発された者は、単なるスケープゴート、アリバイ作りとしてしか見なされない。

 モラルハザードとしては、経済の分野でそれが表れた。銀行、公認会計士が商法のルールを守っていない。住専のとき、隠さず、しっかりと手をつけていれば、今使っている金(数十兆円)の一割(数兆円)の出費で済んだ。
 従来、日本の経済は、決算がいいかげんだった。日本というムラ社会の中で、馴れ合いの商取引をしていた間はそれでもよかったが、経済の国境がなくなった現状にそれは対応していない。

 個人の選択の幅は、増やすことが望ましい。そのためにルールは最低限で、そのかわり、それを守らなかった者には、しっかりとペナルティを払ってもらうようでなくてはならない。

 誰がチェックするのか、という問題が発生する。全てを警察に任せきるのは、望ましいことではない。チェック機関のない権力は、暴走したとき、止められない。誰が警察をチェックするのか。…現在の日本の警察及び検察は、比較的良心的で熱心で有能だ。だが、組織の中には、「変な人」も発生する。その「変な人」がしでかす不始末、不祥事を、外界から、組織は守ろうとする。嘘は嘘を呼ぶ。チェックされない権力は、かくて腐敗していく。
 警察的権限・権力は、分散させるべきだ。それぞれの機関をチェックする機関が必要だ。
 たとえば税務署のマルサは税務調査について警察に近い権限を持っている。金融監督庁は現時点で、マルサほどではないが捜査権限を持っている。環境庁は環境Gメンを作るべきだし、薬害などを調査する医薬食品Gメンも規模は小さくていいから、存在するべきだ。航空機事故調査委員会は、ここが捜査した上で警察へ事件を渡している。このような機関が互いにチェックしあうべきだ。

 犯罪の捜査において、ごく限定的に、盗聴という手段はありうる。判例で認められたケースとして、麻薬取引の例がある。携帯電話を用いて取引が行われている、電話番号はわかっている、だが誰がその電話の持ち主なのかわからない…このとき、過去判例で盗聴が認められた。このような場合、盗聴は捜査手段として正当だ。

 他の捜査…たとえば家宅捜査と、「盗聴」の決定的違いは、盗聴は、本人及び本人周辺が、捜査されたことに永遠に気づかないところにある。不当な捜査をされたとき、異議申立てをする機会がどこにもないのだ。
 現盗聴法は、捜査令状がなくては盗聴できないから、それが歯止めになっている、という与党の説明がある。だが、捜査令状は形式的にさえ整っていれば、却下されるものではない。(またそうでなくては困る。捜査は迅速さを必要とするのだから) 確実にクロのところを盗聴するのは、令状が若干とりにくいだけで、今のままでも先の例のように可能だ。シロかクロか判らないものを聴くために「盗聴法」は作られる。シロの盗聴の濫用を、チェックする手段が、盗聴法にはない。ここに暴走の危険がある。

 …別な角度の話になるが、たとえば外国にある日本大使館は当然のこととして盗聴されていることを警戒するべきだし、政治家も盗聴が行われていることを警戒するべきだ。ある意味、日本では逆にこういう意識が緩すぎる。だが、当然ながらこれは公の行為ではない。大使館は盗聴されていることを前提として警戒するべきであっても、実際に日本大使館から盗聴器が発見されたら、これは国際的大問題となる。当然のこととして警戒することと、それが合法であることは同一ではない。スパイ活動・諜報活動としての盗聴は、はじめから違法性が高い。違法行為としてのスパイ諜報活動は当然のこととして今もある。が、それはあくまで非合法活動、闇の世界の話であるべきだ。公然と認められることではない。盗聴が発覚した際、リスクを支払わなくてはならない。

 盗聴法は何故こんなに急に決まったか? 盗聴法や住民基本台帳法は、国民生活に重大な影響を与える法であるので、審議は慎重にされていた。委員会の審議以前の取り決めが行われていた。一年以上、委員会での審議は(外面的に)止まっていた。
 法務委員会は、たとえば予算委員会などに比べると、紳士的で、穏やかな人員で構成されている。そこに、法律の内容を判っていない自民党の国会対策委員長から、法務委員に「この法案とこの法案とこの法案を早いとこ決めてしまえ」と要請がきた。「それができないようなら党内のポストはないものと思え」という要請だ。
 …法律の内容を判っていない自民党国会対策委員長が、同様に内容を判っていない公明党国会対策委員長に(これとこれとこれの法案を決めてしまおう、と)申請し、それが法務委員に要請された。自民党・自由党・公明党の法務委員は、それまでの委員同士の取り決めを一切反古にし、強行に決めてしまった。
 俗に、民主主義は多数決だ、と言われる。仮に、全て多数決だけで決めてしまうならば、話し合いは全て不要だ。与党は過半数を得ているのだから、多数決の採択だけで決めるならば、予算審議は一日もかからない。それを期日を延長したり臨時国会を開いたりしているのは、話し合い、意見交換し合う、それを暗黙のルールとして尊重しあっているからだ。盗聴法案でも、どのように話し合うかの委員会内での取り決めがあった。だが、自自公はそれを反古にした。そこが最も問題とされるべき点だ。

 住民基本台帳法はどうか。

 現在、年金番号制というのがある。年金は、一生同じ会社のサラリーマンをしているのなら問題はないが、職を変えると、年金の形も変わる。年金は生涯に渡って支払い、その支払いによって老後受け取る額の差となるので、この番号は、国民一人一人個人毎に10桁の通し番号で統一され管理されている。
 この延長として、えだのさんは納税番号制には推進の立場だ。もちろんプライバシーの保護など考えなくてはならないことはこの納税番号制にも多い。この納税番号を管理するコンピュータは決して他の回線に繋がないなど、この情報は他に漏れないためのあらゆる措置をされるべきだ。この情報が漏洩したら、収入の情報に関してその人は裸同然になるからだ。

 住民基本台帳には、その個人に関するあらゆる情報がそこに記載される。個人の病歴、戸籍…問題などがここに発生する。この情報は、電子情報となるので、盗まれても判らない。住民基本台帳の番号が盗まれたら、個人に関する全ての情報が盗まれることになるのだ。

 この住民基本台帳法が急がれたのには、自治省の利権問題がある。住民基本台帳を管理する団体を、自治省の天下り先として作るため、総背番号制は進められている。自治省としては、大蔵省が納税者番号を作る前に、と、急いでいる。

 民主党についての話。

 民主党は、自民党とどこが違うか、というアピールを、今、えだのさんはまとめている。…国民と公権力の、どちらをより信頼するか、が、相違点だろう、と、えだのさんは考えている。民主主義とは、国民が権力をいかに管理するかだ、と。

 そのあと、参加者からいくつか意見と質問。

 質問;後藤田正晴が、派閥も持たないのに自民党内で発言力を持っていたのは、警察の情報でもって力を誇示することができたからではないか? 盗聴法によって、警察が議員をコントロールしやすくなってしまうのではないか?

 えだの;日本の問題の一つは、行政のルール違反に対して処罰が甘いことだ。公務員による確信犯的犯罪は、むしろ、初犯実刑主義にするべきではないか? 日本の権力は単線化しやすい。これは問題だ。警察自体の違法行為をチェックする機関を設けて複線化したほうがいい。市民による公的チェック機関、そこまでいかずとも、チェック機関の中に、数人市民をいれるだけでずいぶん違う。

 質問:盗聴法や住民基本台帳法に関心持たない人々に、その危険をどうアピールすればいいだろうか?

 えだの;たとえば、自分がビデオ屋からどのビデオを借りた、といったことを他人に知られて気分がいいだろうか? それを気持ちいいことだと感じるか、それは望ましくないと感じるか、そういうところから訊ねてみたらどうだろう。 

 …オープンミーティング後、「天下国家を語る会」にはじめて出席。マンガはそれ自体は性的だろうが残酷だろうがそのことをもって規制されるべきではない、という話を女性出席者の方に説く。マンガの規制の歴史では、「悪書」「性的」を理由に規制されようとしたのは手塚治虫、「残酷」を理由に規制されようとしたのは白土三平だ、と、持論を述べる。エロマンガが、警戒されるべきだとしたら、感性の鈍化を伴うモラルハザードが警戒されるべきだ、と講釈をたれる。
6月25日(金)-6月24日(木)

 忘れ物を昨日した。国会に電話し、OKさんが持っているらしいこと伺う。OKさんから受け取り、田舎に。自分の小市民的欲望と父母の社会安定欲求の接点での行動をする。不発。
6月23日(水)

 盗聴法案反対集会。ガキの使いくらいちゃんとしろとNを罵る。つぼ八で打ち上げ。なぜサークルが落ちたのか米沢さんから聞く。ダミーサークルだと思われたようだ。ダミーサークルなんて出しませんですう。集会にニュース23の取材来る。DIさんの電話番号しか思い出せなかったので、DIさんにビデオの録画をASさんにしてくれるよう電話する。べろべろに酔っ払う。DIさんが部屋にいる。ビデオ録画に失敗する。だからASさんに頼んでくれと言ったのに。
6月22日(火) 

 盗聴法案反対集会の宣伝告知をメールとかでしまくる。
6月21日(月)

 議員会館にビラ播き。昼に行く。Nいつものごとく遅刻してくる。
 宮台掲示板など見て手伝いに来てくださった方2名との、計4名でビラ播き。OKさんに会う。打ち合わせなどし、別れる。KY印刷へ行くNについていく。わりと長居する。ロフトへ行く。顔見知りの方は知的な発言で聞いてて快感だったが、あとはお話にならない、と、感じる。HTさんに会う。ビールおごっていただき、帰宅。
6月20日(日)

 DIさん来る。若干話する。部屋の古本まとめる。
6月19日(土)

 ASさんとこから帰ると、曽さん、香港へ帰った後。「殺し屋イチ」1巻から4巻まで読む。
6月18日(金)

 東京へ帰還。ASさんから電話。ASさんとこへ絵の勉強しに行く。
6月17日(木)

 まとめて寝る。無為に過ごす。妹からの信頼一段となくなっている。コンテ一本作成。
6月16日(水)

 古本発送。母の社会貢献欲求に付き合う。肉体労働する。
6月15日(火)

 実家の古本まとめる。肉体労働する。父の愚痴を聴く。やっぱり眠れない。
6月14日(月)

 実家へ帰る。シナリオ一本作成。実家にいると落ち着かない。眠れない。
6月13日(日)

 無為に過ごしたような気がする。
6月12日(土)

 Y誌編集さんに電話する。
6月11日(金)

 曽さんの持ちこみに付き合う。 

1999年6月1日から6月10日 マシウスの夜郎自大日記

2012年03月27日 00時58分23秒 | Weblog
6月10日(木)

 疲れて寝てたような気がする。 
6月9日(水)6月8日(火)

 アシ行ってたような気がする。 
6月7日(月)

 無為に過ごしたような気がする。 
6月6日(日)

 風邪に負けて寝る。「子供売りの季節」若干する。「ステキな女王様」デザインしてみる。気が弱くなってるので愚痴こぼそうと何人かに電話するがいずれも不在。 
6月5日(土)

 風邪に負けて寝る。
6月4日(金)

 風邪でぐちゃぐちゃな状態。SUさんからお電話いただく。主観と客観のずれについて指摘いただく。
 ASさんから電話。顔見に行く。その前に、と思って自分のサークルをコミケHPで検索してみる。落選してた。がく。交通費無駄に濫用する。ASさんにネーム見てもらう。導入部及び構成について指摘いただく。
6月3日(木)

 風邪ひく。原稿依頼いただく。「子供売りの季節」をそれにあてようと思う。
6月2日(水)

 アシから帰る。
 帰路、SG社の編集さんと一緒する。大学の同級生がエロ漫画家していて単行本出しているという情報、大学の先輩に関する話、友人の漫画家さんの話題などする。「ステキな女王様」というオヤジ向けエロ雑誌用の着想を得る。

 心を入れ替えて、コネは使ってみようと決意。ささやかに実行。うまくいきますように。
6月1日(火)

 アシに行く。
 電車待ってる間、手持ち無沙汰なのでキオスクを覗く。
 週刊ポストに「問題提起・大新聞が報じなかった『児童買春禁止法』攻防の一部始終/国会の『性器・性交論争』衆参10時間は快挙か?」の見出しが。購入。週刊ポストらしい下品な見出しだ。けど、今更とはいえ、マスコミが児童ポルノ法案を取り上げてくださったことは喜ばしい。審議の内容が4ページにわたって記述されている。わりと正確で、客観的な書きかただと思う。…思えば自分が週刊ポストを買うのは「魔法使いサリン」の報道以来。ちと複雑な感慨。…週刊ポストでは次号でも児童ポルノ法案の審議を掲載するそうな。

 アシ先で、刺激受ける。

 作業しながら、物思いに耽る。結局のところ、心を打ち明けられる、誰か一人を、自分は求めているのだ。その「一人」がいないから、漫画という手段を必要としたんだ。そろそろ、実家での生活の愚痴について漫画で描くべき時期なんだ。それを誰かに言わなくては気が狂いそうだった、それが自身の動機だったのだ。今年が、もう、最後のチャンスだ、と、実感する。

 他にできることがあるかも知れない、などと考えるから、自分はダメなのだ。

1999年5月21日から5月31日

2012年03月27日 00時57分44秒 | Weblog
新しい日記から、古い日記へ、という順番で表示されています。

5月31日(月)

 夜、Mさん、Hさんと会い、今後について話し合う。
「政治活動は究極の自己満足だ」という結論に至る。
5月30日(日)

 悪女の深情け、という言葉は、もともと、醜女(しこめ)のほうが情がこまやかである、という意味だったそうな。後年、ろくでもないストーカー女に言い寄られること、という意味に誤用されるようになったそうな。えーと、ここまで、間違ってないかな?
 で、ねえ、自分のことを、よく、この後者のごとく感じちゃうんですね。ああ、オレってストーカーみたいなもんだなあ、主観的には愛情だの理念だの持って一所懸命なんだけど、客観的にはそれに見合う何物を持っているわけでなし、迷惑かけるだけで、…という。

 

 えだの幸男さんのオープンミーティング参加。
 本日は、「えだの幸男の目指す日本…自由な発想で」という議題。どういう手順で、全体としてどういう日本にしたいのか、というテーマ。以下、メモ。えだのさんの発言そのままではない。

 まず、盗聴法について、軽く触れた。盗聴法に関連してここ数日えだのさんがマスコミに出てた。
 盗聴は、誘拐捜査の逆探知とは違う。逆探知は当事者の一方が合意している。合意していない相手の情報を盗み聞き等するのが、盗聴である。
 盗聴法推進者は、覚醒剤取引、銃器密売、蛇頭(中国マフィア。密航などを手がける)、オウムなどへの対策として、盗聴法が必要なのだと言う。
 限定的には盗聴は、ありだ、と、えだのさんは言う。社会の中では、個々の人権は常に100パーセント守られるものではなく、ある程度の抑制は不可避だ。盗聴法の問題点は、歯止めがないことだ。歯止めとは異議申立ての機会だ。ふつう、犯罪捜査では…たとえば家宅捜索でも、最低限、捜査された被疑者当人は、どういう人権侵害があったか、不当な行為をなされたか、わかる。そのことの異議申立てができる。盗聴法は、異議申立てができない。ここに権力濫用の恐れがある。
 盗聴をするさい、公正を期すため、第三者による立会いが必要だ。現法案では、捜査官が(ヘッドホンを用いて)盗聴している内容を立会人は聴くことができない。立会人は現法案では、ただ立っているだけだ。これでは立会人の意味がない。(弁護士会は立会人として協力する旨を言っている。これはもちろん被疑者の弁護人ではなく、中立な立場としての法の専門家としてだ)
 盗聴したことの通知を、30日以内に当人に送る、と、現法案ではなっている。問題なのは、起訴された被疑者のみに通知する、ということだ。盗聴捜査の過程で、犯罪と関係なく盗聴された人々へは通知しないのだ。これは逆であるべきだ。犯罪と関係ないのに盗聴された人へこそ、通知するべきだ。そうであればこそ人々は異議申立てもでき、警察の濫用を抑止できる。
 現法の枠の中でも、盗聴が許可された判例はある。その意味盗聴法はいらない。それをこういうかたちで、歯止めのないかたちで立法化を急ぐのは望ましいことではない。
 法案というものは、委員会での審議の前に、どのくらい時間をかけて審議するか、取り決めをしている。盗聴法は国民生活に重大な影響を与える法案だということで、当初自民党は議員一人あたり4時間、計120時間の議論を約束していた。公明党が賛成に回ったので、一人1時間の審議になった。「40時間も審議した」とテレビで自民党議員は言うが、その実は、約束を反古にしたのだ。これは手続きの上でもっとも重大な約束違反、ルール違反を自民党はした。
 盗聴法によるダメージをまず最も受けるのはマスコミだ。盗聴を警戒し、タレコミがなされなくなる。

 さて、本来の議題。「どういう日本にしたいのか」という理想論の話。
 えだの幸男さんが望む社会は、多用な選択肢が保証された社会だ。金太郎飴社会からの脱却だ。現在の社会は、事実上、大手会社のサラリーマン以外の生き方をする選択肢は、なかなか厳しい。生き方によって社会的便宜のはかられ方が違う。
 国がやらなくてはならないのは、「選択の自由」のためのバックアップだ。たとえば、ハンディキャップを持っている人々は、生き方・生活の仕方の選択の幅が少ない。車椅子の方なら階段のある場所は移動できない。階段よりはスロープを、駅にはエレベーターを、このようなかたちで生活のうえでの選択の自由を、機会平等をバックアップするのが、国がやらなくてはならないことだ。選択の自由を妨害するするものを、排し、変える。選択的夫婦別姓などはその一つだ。婚姻後も婚姻前の姓を名乗っても、誰に迷惑をかけるわけではない。他者に迷惑をかけない限り何をしようとかまわない「自由」の、一つの例だ。

 現在の日本は、中央集権国家だ。これを変えたい、とえだのさんは言う。地域ごとに特色のあった社会であってほしい。国としての仕事は、安心を与えるためのルールの整備とバックアップだ。それ以外のことは地域に任せたほうがいい。具体的には、国がするべき仕事は、年金、医療、福祉、介護、及びその財源の確保だ。年金の財源確保は、壮年労働力が都会に集中するライフスタイルに現在なっている以上、地域ごとにというのは無理がある。したがって、国家がそれをなし、平等に再配分するすることが望ましい。
 年金の財源としては、消費税をそれに当てるべきだ。消費税は景気の影響を受けにくい。目的税は、その目的以外では使わず、その財源はそれ以外からは取らない、というものでなければ、本来目的税とは言えない。年金の財源は消費税のみでまかない、消費税は年金以外では用いない、というかたちにする、負担と給付の関係が明らかになる。
 日本の現在の医療費は高すぎる。介護制度に問題がある。普通の家庭で寝たきり老人の介護は無理だ。よって寝たきり老人は入院させることになりがちだ。この医療費は老人保険でまかなわれるている。寝たきりの老人は医療が必要なわけではない。介護施設が足りなすぎるのだ。老人ホームが近くにない。そのため本人にも家族にも抵抗感が強い。日本の老人ホームは身近なところにないので、老人にとっても不幸だ。老人ホームは街中に、たとえば小学校中学校の近くといったところにあることが望ましい。失業者対策にも、老人ホームを建てること、授業料を無料にしてでも介護福祉士を育成することが大切だ。

 特殊学校がコミュニティから現在隔離されているのは問題だ。特殊学級を隔離することは、多様である現実を隠蔽し、多様である社会への人々の適応力を妨げる。多様な社会が良い社会なのだという価値観を身につけることが大切だ。車椅子で生活しにくい段差は、誰でも老後足腰が弱くなったとき不便を覚える。体が弱くなった後でも快適に過ごせる社会が望ましい。
 日本の街作りの基本はゾーニングだ。これには利点もある。工場や歓楽街が学校のすぐ近くにあるのは望ましくない。欠点もある。団地を作り、そこへ一斉に同じような年齢、同じような収入の人々が住むことになる。ほぼ一斉に子供が生まれ、小学校が団地の中に作られ、一斉に老人化し、一斉に学校に子供はいなくなる。など、生活が画一化する。…行政はインフラ(生活基盤整備)のみして、 大規模開発は避けるのが望ましい。

 地方分権の基本単位は、市町村よりも小さな単位、小中学校の学区単位が望ましい。地域コミュニティが学校を運営することが望ましい。現在の学校の問題点は、外部からのチェックが入らないことだ。良心的で熱心な教員は懸命にするだろうが、ダメな教員はどんどんダメになっていく。チェックされないことにより、学校という密室空間のなかで、子供に対し権力が濫用されることになる。

 外交と安全保障について。現在の日本に外交は存在しない。日本は今、アメリカの植民地である。問われることは、アメリカの属国のままでいいのか、アメリカ依存のままでいいのか、ということだ。
 日本の安全保障はアメリカに依存している。外国の軍隊に依存するというのは望ましいことではない。アメリカはアメリカの都合で日本に軍を置いているのであり、アメリカの都合にとって悪ければ、軍を動かしはしない。日本は諸国の信用を得るべく動かなくてはならない。過去への認識という問題が横たわっている。対韓関係では現大統領は日本に好意的なので今が関係改善の好機だ。対台湾関係も、今のうちなら関係を良くできる。これらについて、自立外交をするべきだ。中国へも南京事変の共同調査を粘り強く申し入れるべきだ。日本の国民感情的に受け入れにくいことが発生するかもしれないが、過去を清算させ受け入れることが自立外交の第一歩となる。
 戦後の日本の外務省は特殊なものになりすぎた。戦前は外国へ行くことそのものが特殊なことだった。今は違う。外国へ、その問題ごとに、他の省庁が直接行けばいい。もはや外務省という(自閉した)省庁は必要ない。

 日本の大きな問題は、ルールはあっても守らせる仕組みがないことだ。だが戦前のような警察国家になることは避けなくてはならない。そのためには複数のチェック機関が必要だ。刑事については検察と警察のように。税務調査の権限はもっと教化してもいい。このようにチェック機関は複数あるほうがいい。
 労働基準法があっても、今、労働基準法を厳密に守らせたら、日本はパニックになる。これでは意味がない。ルールを作った以上はちゃんと守らせる、ルールをすべて守っても問題が発生しないルールにする、これが大切だ。

 以上、メモ。

 

 オープンミーティングのあと、知人に会う。某イベントへ。自分という存在のみっともなさに、泣いて帰る。 
5月29日(土)

 下絵。不調。夕刻から体の調子が悪化。変なもの食べたかな。

 ブロードキャスター見てたら盗聴法と児童ポルノ法とりあげてた。フィリピンで米軍の演習に反対してアメリカ大使館を民衆が襲撃した、というの観て、ふと思い出したので、児童買春の話。
 フィリピンが児童買春のメッカになっていた理由の一つは、米軍の駐留にありまして。米軍兵士で、子供の性を求める者のために、米兵を顧客とする歓楽街、パッポンストリートが、児童売春を用意し、世界の小児性愛者が、そこに買いに行った、という背景がありまして。 タイも米兵の慰安先でした。ちなみに買いに行く者の国籍は、アメリカ、ドイツ、日本が多いそうですね。
5月28日(金)

 激しいヒガミで目を覚ます。やっかんでいるのは自分だ、と、気づく。
 下絵描く。不調。山羊の資料とマントの資料求めて図書館へ。マントの資料見つからず。YYさん、Dさんと夕食一緒する。二人はゲーセンに。スト3を観戦してるうち睡魔来たので帰って寝る。
5月27日(木) 突風

 ベッドをディグさんに貸す。ネームする。眠くなる。毛布に包まって寝る。突風で朝8時ころ部屋が揺れる。起きる。ネーム一応終了。ディグさんに批評してもらう。二箇所修正。
 曽さん二時間寝る。大手町の外国人居留サービスへ行く。2階の相談所で話した後、3階へ。色々話し伺う。今日応対してくださったかたは気さくで親切なかただった。九段下で曽さんと別れる。あ、S社は九段下でなくて神保町じゃん、と気づく。列車乗り換えて戻るが姿見えず。ごめん曽さん。
 ベヤに電話して場所伺う。原稿渡す。Bマニアックスに、ついでに立ち寄る。電車に乗る。電車運行停止していたので一駅歩く。今日は出歩くには適さない日だったらしい。
 曽さん帰宅。電車止まってえらい時間無駄に使ってしまった、とのこと。S社担当には会えなかった、とのこと。
5月26日(水)

 ネームする。ディグさん来る。曽さんのネーム批評してもらう。
5月25日(火)

 プレスの原稿、ペン入れ。プレスより連絡。ネーム削る。ネーム貼り込み。
 曽さんの原稿、訳す。こーしたほうがいいんじゃないか、あーしたほうがいいんじゃないか、と打ち合わせる。
5月24日(月)

 文化放送「本気でドンドン」で盗聴法についてしてたので聴く。仮に、松本サリン事件のときに盗聴法があったとしても、盗聴はオウムに対してではなく、第一通報者のかたに対してなされただろう、という話。
5月23日(日)

 サンデーモーニングで「盗聴法」話題に。えだのさんが出てる。画面見てるとこに、ASさんから電話。盗聴法の概略とか知ったかぶる。マンガの話になる。「来月中に描きあげなきゃオレはダメだということだ」と言ってみる。「今月中って言ってませんでしたっけ?」「あ、なんだ、オリャアもう、ダメだったのか(笑)。さっさと荷物まとめて田舎に帰らないと。やあ、長いことお世話になりました(笑)。たまには思い出してね」。ネーム続きする。YYさんと夕食一緒する。
5月22日(土)

 宣伝した手前、行かないとなあ、と、考え、オンエア・イーストへ。金銭的余力ないんだけど。

 盗聴法は「組織的犯罪対策法案」の一つだ。盗聴法、団体取締法(団体として、団体のために行った量刑を、1.5倍重くする)、刑事訴訟法改造(弁護側の反対尋問の制限、裁判で証人が匿名で出てくることを認める…「でっちあげ法」とも呼ばれる)の三つからなる。
 辛淑玉(シン・スゴ)氏「何を『敵』として考えているかということですよね。警察は、オウムのような新しい『敵』に対応できないんですよね。あいかわらず、共産党、市民運動、在日外国人を『敵』として捉え、そっちのほうばかり目が向いている。今は『公』というのは『民』が作る時代になったにも関わらず、あいかわらず『官が公であり、民が私である』と考えているんですよ」
 佐高信氏「オウムの事件も、警察はオウムの捜査をしないで、(被害者である)坂本堤さんが共産党員であることばかりに注目していた。オウムのほうを見ないで、共産党のほうばかり警察の目が向いていたんだ。その結果サリンが撒かれた」
 4月30日に、風営法が改正になった。インターネットのプロバイダ規制がすでに盛り込まれている。技術的には、Eメールの盗聴は簡単だ。風営法の改正は、警察の中で日影の部署である保安部に許認可権を与えるためになされた。
 国会議員として、中村敦夫、福島瑞穂、えだの幸男、保坂展人が参加。
 中村敦夫氏の説では、盗聴法(組織犯罪対策法)はガイドライン法案の一環である。外国人の入国管理法が、海外からの悪評に関わらず強化される。そして、日の丸・君が代の急遽の法制化話。これら総合すると、嫌な想像が浮かぶ、と言う。軍隊が外に出るには、国旗を掲示する必要があるから、の、法制化なのではないか。「来年あたり、大きなことがあるんじゃないのか、と思う」(アメリカから非公式に軍事的要請がすでにあり、それにあわせ法制化が急がれている、という推測は成り立ちそうだ)
 福島瑞穂氏は、盗聴法は「内面の取り締まり」をする法だ、と、非難する。(児童ポルノ法もそうだったが、被害=犯罪が発生するまでは、公官は動かさない、というのも「法」というものの重要な役割だ) 盗聴法は、国民全てを虞犯者、犯罪者予備軍として見なしている。
 えだの幸男さんの話。盗聴法が成立すると、たとえば内々で政治の冗談を言う、ということができなくなる。文脈を断ち切られ、騒乱罪の「証拠」として用いられる恐れがある、と指摘。盗聴法は、警察が手抜きをしたがっているのだ。このような立法がなされずとも、重大な犯罪に関しては、既に5件、それ以外に捜査の手段がないことを裁判所が認めた例はある。それをルール化するのなら、それはあっていい。だが、今回のようなかたちで立法化するのは、警察の手抜きでしかない。盗聴法は、人民性悪説に立って、全ての国民を、潜在的犯罪者と見なすことを意味する。では、その国民を管理する警察をも、性悪説に立って管理する、という関係が、ある意味筋だ。しかしそれは不幸な関係なのではないか。
5月21日(金)

 ネーム作業。コピー機を使わないのは合理的でない、と気づいて、コピる。

1999年5月13日から5月20日

2012年03月27日 00時56分43秒 | Weblog
5月20日(木)

 無為に過ごす。
5月19日(水)

 『「彼女たち」の連合赤軍』読了。オウム、宮崎勤などの「矮小さ」を正確に見据えるべきことの意義に共感する。
5月18日(火)

 眠りそこね、ネーム作業。

 昼12時、議事堂着。入り口は二ヶ所ある。修学旅行で議事堂見学に来ている、ジャガイモみたいな女子中学生や、小学生の集団を観察。ガイドライン法案に反対しているのか、全労連その他アピールされている集団などで議事堂周辺はお祭りのような賑わい。空いているほうの入り口で傍聴手続きする。約束の時間になっても知人誰も来ない。衛視さんに案内され、会議場へ。私同様、一人で傍聴にいらしたかたがいたので話しかける。マンボウMLを見て来た、性の権利フォーラム参加者のかただと知り、自己紹介しあう。衛視さんから「ここに座りなさい」と指示され着席。ストップ子ども買春の会のかたの姿お見受けする。
 午後1時、議事が始まる。最初の議事が「児童買春・児童ポルノ禁止法案」。経過が説明され、満場一致で可決。午後1時5分。あ。もう、今日来た目的終わってしまった。そのあと、おそらく混んでいるほうの入り口からと思われる傍聴人、わらわらと着席。児童ポルノ法案に関心あって来たかただったら申し訳ないなあ。1時半、性の権利フォーラム参加者のかたといっしょに、退出。食堂でお話しさせてもらう。

 一旦帰宅。ネームする。『「彼女たち」の連合赤軍』(文芸春秋刊・大塚英志著)読む。私は大塚英志氏の視点と書く文章が好きだ。
 睡眠不足で眠くて死にそうになりながら、マンボウの会議に出席。
 「児童買春・児童ポルノ禁止法案を考える市民の会」解散。
5月17日(月)

 羞恥心いっぱいで目が覚める。ここ数日の自分の言動を自分で許せなかった。のだと思う。近頃の自分は品が悪い。対人の発言がろくでもない。自分の原稿に精進してない。原稿してないと大切なものを失う。ここが自我の拠り所。てゆーか力の弱さが恥ずかしい。十分道化だが、ずるずるとペテン師になろうとしている。恥ずかしい。自分の人生を自分で把握している感覚の衰弱。
 久しぶりに接骨院へ行く。肩と腰が固まりきっている。
 台所に猩々蠅発生。対処。曽さん、ゴミ分別してちょ、と、ここに愚痴る。
 明日の傍聴に関する電話連絡で時間が潰れる。眠り損ねる。ベタベタしていないと維持できない人間関係は信用できない、それは共依存関係だからだ、とか、フルタイムの活動家と同じことなんてできません、とか、パートタイムな政治参加ができうるシステムが絶対に必要なんだ、とか、絶望することは現実を直視するために大事ないいことだ、とか、楽観的なのは行動に積極性が生まれるからいいことだ、とか、のけ者にされることに怯えるようなうじゃけた精神はええ歳なんだからええかげんどうにかしろとか、ぶーたれたりぶーたれられたりする。
 何ごとも、手間か、頭か、カネか、この3つのうちどれか使わないと。カネはないので前二つを。
 日記書いているんでかろうじて毎日なにがあったか自分で思い出せるが、そうでなければ3日前のこともろくに思い出せないと気づく。

 そうそう。掲示板で、「衆議院に電話すれば」と書きましたが、アップした時間遅かったので、衆議院、電話に出ないかもですが。永田町駅からでも電話はできます。私にこの情報くれたヒトは掲示板にアップすると「変な人が来て、元も子もなくなるかもしれない、やめてくれ」と私に釘刺してくださいました。そういう考え方は嫌いだ。内々だけで処理しようという考え方が嫌いだ。機会平等を許そうとしない考えが嫌いだ。ということでアップしました。情報は提示しました。本会議は4時までの予定です。首都圏在住の人間でなきゃ来れないし、そんな昼間から動ける人間なんて、そうとう限られてきますよね。そこでもって機会平等は制限されているのですが。動ける人間というのは、ある意味、特権持っているわけですね。特権持っているヒトは、特権を上手に使うのがよろしいかと。使わなくてもいいです。動員かけたい、といった気持ちは、私にもありません。実際経験するのと、しないのとでは、感じ方に差があるのが当然ですので、自分とあまり経験に落差のない話し相手を、結局自分は求めているんでしょうね。
5月16日(日)

 レヴォ。「のらイヌ」でお留守番。「ぷっちーず」へ、永山薫さんと、ふくしま政美先生いらして下さったらしい。会えず。がくっ。伊藤剛さん、にゃんこMICさん、吉田単車さん、その他、あと面識のなかった後輩さんがたが挨拶に来てくださる。旧交数件回復。売り上げはコミティア並。力弱さに泣いて帰る。足立真一さんに焼き肉おごっていただく。IKさん、YTさん、DIさん、AJさんとカラオケに行く。AJさんのうまさにびっくり。売り上げのほとんどをアイリス人形&さくら人形に浪費する。
5月15日(土)

 無為に過ごす。雨が降っても大丈夫なようにレヴォの荷物準備する。
5月14日(金) 児童ポルノ法案可決

 午前1時頃起床。曽さんの漫画のネームを日本語に直す。

 午前8時半、衆議院第二議員会館へ。9時半集合予定だったので、ちと早すぎた。9時半になる。誰も来ない。どういうこっちゃ。と、思ってたらぽつぽつ待ち人来る。しかしながら議員さんとの連絡係が来ない。
 遅刻して、議事堂へ。国会法務委員会を傍聴する。学校の教室程度の広さ。児童ポルノ法案の審議。エクパット東京などいらしていた。遅刻したので笹川たかし議員の質疑は聴きのがす。
 以下、メモ。詳しく正確なモノは国会議事録など参照されてください。

 法案14条に、啓発・教育の条項がある。性風俗の問題ではなく、子どもの人権の保証のための法律であることの、質疑と確認。
 清水澄子議員「この法案は、子どものNOと言える権利を擁護します」 堂本暁子議員「性的自己決定権を擁護します」 円よりこ議員「性的搾取とは、大人が子どもをモノとして利用することを言います」
 単純所持の問題。他国では単純所持にも厳罰を処しているところもある。児童ポルノそのものが、子どもへの人権侵害ではないのか、という質問。
 大森礼子議員「それは個人の内面に踏み込むものなので、単純所持は今回は外します。将来的に、児童ポルノが違法な(人権侵害な)ものである、という意識の浸透がなされることが重要です」
 CGによる疑似ポルノをどう考えるのか、この法律で規制できるのか、という質問に対し、「素材として(生身の子どもを用いた)ポルノがなければ、この法律は適用されない」
 民主党からの質問。今回の法案に、「健全育成」という意図はなく、あくまで「児童の人権」のための法律であることの確認。その上で、少年法第3条第3項、「虞(ぐ)犯少年」として、「被害者である子ども」に法的不利益が発生する恐れがないか、という質問。
 大森礼子議員から「(少年法がある以上)虞犯少年扱いされる可能性はあり得る」(審議中、インターネットを通じて、これに対し市民団体から異見が寄せられる)
 質問。刑法175条猥褻文書頒布罪との関係はどうなるのか。猥褻にあたるが児童ポルノにあたらないもの、またその逆はどうか、という質問。
 大森礼子議員から「児童ポルノ法案には1号ポルノ、2号ポルノ、3号ポルノがあるが、とくに1号ポルノはそれ自体(猥褻の概念でも)違法性が高い。刑法の猥褻文書に当たらないモノも含みうる」
 質問。芸術と猥褻の関係。判例として、芸術であっても猥褻であり得るが、児童ポルノはどうか。回答。芸術であっても児童ポルノであり得る。猥褻罪は頒布・販売が処罰範囲だが、児童ポルノ罪はその他に貸与など処罰範囲は広い。猥褻罪より児童ポルノの罪は重い。
 児童買春罪は親告罪ではない。13歳以上18歳未満の子どもへの(対償を供与した)姦淫罪は従来取り締まりにくかった。従来の強姦罪、強制猥褻罪は親告罪だった。今回の法案を、親告罪とすべきか否かには議論が重ねられたが、児童買春・児童ポルノ罪は、加害者の報復を恐れる児童の保護を目的とし、非親告罪とした。
  質問。援助交際と児童買春は同じかどうか。
 円よりこ議員「児童との(金銭を対償とする)セックスは、児童虐待です。大人は、そういう行為をするべきではない。大人の側こそ範を示すべきだ、というのが、この法案の主旨です」

 私はこの後の記憶がない。法務委員会は室温が高く、私は風邪っぽく、居眠りする。食事の休憩を挟んで、7時間半ほどの質疑応答の末、満場一致で可決。

 議事堂から出て、仲間内で意見交換。
「わりとよく練り込まれた良い法律なんじゃない?」
「お前の内面の自由が今まさに制限されたんだ(笑)」
「『子どもを性的な存在として見なすような風潮を助長しないため』、という目的は、いいんじゃない?」
「まずいんじゃない?」
「わしらなにやってるんじゃろーなー、なに守ってるんだろーなー、***(海外で児童買春したエロマンガ家)の自由を守ろうとしてんのかなー」
「なに言ってるんだ。人権を守ってるんじゃないか」
「検閲や表現規制に繋がる恐れがあっても、マスコミの食いつきがこれだけ悪いのは、海外への児童買春にしろ、国内の児童虐待にしろ、直視するのがしんどいことがらだ、ということなのかな。幼稚な人格は、自己像について、美しい嘘を好み、シビアな現実の自己像を嫌うからな。外国の子どもを性搾取する、世界の最弱者に対して性的な『いじめ』を輸出している、そんなみっともない日本人という自己像には耐えられないんちゃうんか」
「この法案のことで力になってくださった議員さん、この法案に絡んだことで、逆風吹きまくったらしいよ。・・・『児童ポルノ法案のような地味な法案にも尽力し』とチラシにあってね」
「地味な法案だったのか」
「わしらの支持基盤なんてないんちゃうんか思うんよ。尽力していただいても、票に繋がるわけでなし、むしろ敵作るばかりだし。理念を貫くことで政界で今まで築いていた信用を削りかねないというのに尽力していただいて、申し訳ない限り。政治家だって人気商売なのに」
「そんな状況で、ここまで修正要求通せたのは、わしら誇っていいんでないか」

 内々で、「政治は金持ちの道楽だ」という愚痴をたれる。個人個人が政治運動するのに耐えられるための社会整備が、全く日本ではなされていないので、政治運動することに耐えられる職業はおのずと限定され、政治の世界は偏った人々ばかりになる。自民党に象徴される体制維持型の政策という、環境の制約した結果だ。わしらも人員構成としてそうとう偏ってる。
 児童ポルノ法案の審議中、「被害」という言葉、肉体的被害(性搾取など)とプライバシー侵害とごっちゃに使用されていたことに危惧。
「プライバシー概念が、日本では弱すぎるんだ。公官庁の情報公開と、個人情報暴露の区別もろくにつけないからな。パブリック概念の未熟と表裏だ。パブリックを『組の衆』『おらが村』だと誤解している。『余所の組』『他の村』とのつきあいがパブリックなのに。今回の法案もプライバシー保護立法みたいなのとセットでなければ、ほんとはおかしいんだ。人権の見地に立った、内面の自由の保証、個人に関連する情報、たとえば(性的でない)写真における被写体の権利、そういうものは、たとえば今回の法案とはきっちりと分けて法整備されなくちゃおかしい」
5月13日(木)

 朝までアシ作業。先生の仕事終わらない。もっといてくれと言うのを振り切って帰宅。
 曽さん、今週は休みが長かったらしく、自分の漫画描いている。ファックスと留守電確認。明日、国会に傍聴行く件、打ち合わせる。午後3時頃寝る。宮台真司さん・松沢呉一さんによるロフトプラスワントークライブ行こう思って夜7時起きる。睡眠不足と疲労蓄積で、頭がガンガンして目が回ってくらんくらんするので、ロフト行くの諦めて寝直す。