まとまった時間はなかなか取れないのですが、日曜日、授業の合間などに時間を作って、鎌倉の秋模様を追ってきました。
夏の猛暑のため、当初はあまりきれいではないという話でありましたが、急激に寒くなったせいでしょうか。むしろきれいだったと思います。
まずは長谷寺のライトアップ。
きれいはきれいです。しかし・・・ちょっとやりすぎな気がします。神社仏閣のライトアップで色つきの光を当てているのを始めて見ました。学生の時にやっていたお芝居では、夜間の野外公演も経験してきました。そんなことでライトアップされていると、その光の色合いがついつい気になってしまうのです。
公式ホームページを見ても、お庭の素晴らしさは強調されていますが、歴史的ないわれがとても少ない気がします。資料が非常にすくないからとはいえ、少々さみしいですね。少し調べてみました。
一般的には・・・(少々長いです かまくら子ども風土記より引用しました)
養老四年(720年)、徳導上人という有名な坊さんが、りっぱな観音さまを造りたいと思っていました。
諸国修行のときのこと、大和国(奈良)初瀬の山にさしかかると、奥から何ともいえないよいにおいがしてきました。
そのにおいにひかれて奥へはいって行きますと、それは大きな楠から出ているのでした。坊さんは、この木こそかねてからの願いであった観音さまを造るために、神が授けたものと思いました。
そこで、その前に庵をつくって二十一日の間お祈りをしました。お祈りが終わりに近づいたある日、たまたま右大臣の藤原房前が狩りに来てこの話を聞き感激して、このことを元正天皇に申し上げました。
天皇はこの話を聞いて観音さまを造る費用を贈ったということです。そこで、当時の名工稽文会と稽首勲に観音像を造らせました。
ふたりはこの楠を二つに切り二体の十一面観音を造り、木の本で造った観音をその地にとどめ、初瀬町の長谷寺にまつり、木の末で造った観音は、緑ある地に行って、民衆を救ってくれるようにと祈って、大阪から海に流しました。それから十六年、この像は横須賀市長井のはつせ(初声)というところに流れついたのでした。そこで、これを鎌倉に移してさきの徳導上人を迎えて寺を開き、この観音を本尊としておまつりしたのが長谷寺(奈良の長谷寺に対して新長谷寺といわれることもあるようです)であるといわれています。
中世の都市の大きさはほぼ世界共通だそうです。人間、馬の移動距離を基準に都市が作られたからなのでしょう。長谷はおそらく、そのぎりぎりの境界線だったはず。そんな中での庶民信仰。その中心的な存在が長谷寺だったのかな。そんな思いで見ています。
(E-620,ZD ED 9-18mm F4.0-5.6)
(E-620,LEICA D VARIO-ELMAR 14-150mm/F3.5-5.6 ASPH./MEGA O.I.S. )
(E-620,LEICA D VARIO-ELMAR 14-150mm/F3.5-5.6 ASPH./MEGA O.I.S. )
(E-620,ZD ED 9-18mm F4.0-5.6 )
(E-620,LEICA D VARIO-ELMAR 14-150mm/F3.5-5.6 ASPH./MEGA O.I.S. )
(E-620,LEICA D VARIO-ELMAR 14-150mm/F3.5-5.6 ASPH./MEGA O.I.S. )