<東日本大震災>精神科病院 3日間闇に孤立 医療と福祉の挟間…もろさ浮き彫り
2015年12月14日 (月)配信河北新報
4年9カ月前。東日本大震災では、救援を待つ人たちに公的支援が届かなかった。患者24人が津波で亡くなった宮城県石巻市の民間精神科病院。生き残った患者や職員は3日間、気付かれないまま孤立した。医療と福祉の挟間に置かれた精神科のもろさが浮き彫りになる。(報道部・伊東由紀子)
最も弱い人たちが、闇に取り残されていた。
石巻漁港から北へ約1キロ、石巻市伊原津地区に精神科の恵愛病院(120床)はあった。
震災が発生した2011年3月11日、115人の患者を2階に避難させる途中、津波が1階の窓を突き破った。逃げ遅れて命を落とした24人は寝たきりや車いすだった。
水の中から患者を押し上げていた看護部長(当時)の藤中好子さん(67)も一時、意識を失った。
患者と職員、避難してきた住民、約140人が取り残された。備蓄庫は水没。わずかな薬やゼリーを拾い集めて分け合った。
「これ以上、誰も死なせない」。職員は家族の安否も分からないまま、一睡もせず看護に当たった。
救援を信じ、屋根にシーツでSOSと書いた。ヘリの音が聞こえると身を乗り出して手を振った。
二晩待っても、誰も来ない。「困窮しているところほど自ら発信できない。気付かれないまま、見捨てられた」。院長だった木村勤さん(66)は唇をかむ。
患者の多くは重い統合失調症や認知症。環境の変化に弱い。興奮して大声を出したり暴れたりする人が出始めた。
そのころ、民間の精神科病院でつくる宮城県精神科病院協会事務局長の沼田周一さん(61)は嫌なうわさを耳にした。
「恵愛病院は壊滅した」
「もう誰もいない」
被害を直接確認しようと、沼田さんは仙台市から足を運んだ。14日夕、泥だらけになって恵愛病院にたどり着く。廃墟のような病院に大勢が取り残されていた。
藤中さんは沼田さんに泣きながら訴えた。「患者さんを死なせてしまった」
生存者の転院が急務だった。沼田さんと木村さんは関係先を回り、受け入れ先を見つけ、移動のバス、燃料などを自力で調達した。
木村さんは「民間病院は支援の蚊帳の外だった。沼田さんが来てくれなかったらどうなっていたか」と感謝する。
沼田さんは「精神疾患は治療の必要がないとの誤解から緊急性が理解されず、災害時などの対応は優先順位が下がりがちだ」と福祉に近い精神科の難しさを指摘する。
避難した患者全員の転院が完了したのは4月1日。恵愛病院はその後閉院となり、木村さんは石巻市内の精神科病院に移った。
24人を助ける方法はなかったか。藤中さんの自責の念は消えない。ただ、孤立した現場で職員たちは必死に頑張った。「二次災害を防いだ誇りを持ってほしい」と当時の仲間への思いも強い。
藤中さんは現在、福祉施設に勤務する。職場からは恵愛病院の跡地が見える。
亡くなった人の分もちゃんと生きなきゃいけない。今はそう感じている。
精神科、災害時の盲点 救急体制確立へ、一般医療との連携不可欠
2015年12月14日 (月)配信河北新報
東日本大震災では通信の乱れや交通網の寸断などから被害状況が伝わりにくく、孤立した精神科病院が食料や医薬品の確保、入院患者の転院調整などで自助努力を迫られた例があった。
「震災直後、民間の精神科は自力で何とかしてほしいというのが行政の対応だった。公的病院との支援面での格差を痛感した」。宮城県精神科病院協会の沼田周一事務局長が漏らすように、精神科病院への公的支援の薄さを感じた関係者は少なくない。
東北大大学院医学系研究科の松本和紀准教授(精神医学)は「精神医療が行政の災害医療体制から漏れていたことと、公立病院が民間よりも優先されたこと。二重の問題があった」と指摘する。
行政で精神医療を所管するのは障害福祉関連の部署だ。厚生労働省では一般医療を医政局、精神科医療を社会・援護局障害保健福祉部が担当する。
精神疾患と身体疾患の合併症などがある患者は特別な管理が必要な場合もあり、移送の調整には一般医療との連携が欠かせない。
厚労省は10月、精神医療と一般医療との連携や、災害派遣精神医療チーム(DPAT)の体制整備を進めようと、医政局に「精神科医療等対策室」を新設した。
宮城県は、震災時に精神医療を十分に調整できなかった教訓を踏まえ、災害医療本部で活動する災害医療コーディネーターの業務に精神科入院患者の移送先の調整を加えた。精神科医師への初のコーディネーター委嘱も検討している。
松本准教授は「災害時の精神科救急体制を確立するため、災害拠点病院を含めた一般医療との連携や、平時からの情報網の整備が重要だ」と話す。
2015年12月14日 (月)配信河北新報
4年9カ月前。東日本大震災では、救援を待つ人たちに公的支援が届かなかった。患者24人が津波で亡くなった宮城県石巻市の民間精神科病院。生き残った患者や職員は3日間、気付かれないまま孤立した。医療と福祉の挟間に置かれた精神科のもろさが浮き彫りになる。(報道部・伊東由紀子)
最も弱い人たちが、闇に取り残されていた。
石巻漁港から北へ約1キロ、石巻市伊原津地区に精神科の恵愛病院(120床)はあった。
震災が発生した2011年3月11日、115人の患者を2階に避難させる途中、津波が1階の窓を突き破った。逃げ遅れて命を落とした24人は寝たきりや車いすだった。
水の中から患者を押し上げていた看護部長(当時)の藤中好子さん(67)も一時、意識を失った。
患者と職員、避難してきた住民、約140人が取り残された。備蓄庫は水没。わずかな薬やゼリーを拾い集めて分け合った。
「これ以上、誰も死なせない」。職員は家族の安否も分からないまま、一睡もせず看護に当たった。
救援を信じ、屋根にシーツでSOSと書いた。ヘリの音が聞こえると身を乗り出して手を振った。
二晩待っても、誰も来ない。「困窮しているところほど自ら発信できない。気付かれないまま、見捨てられた」。院長だった木村勤さん(66)は唇をかむ。
患者の多くは重い統合失調症や認知症。環境の変化に弱い。興奮して大声を出したり暴れたりする人が出始めた。
そのころ、民間の精神科病院でつくる宮城県精神科病院協会事務局長の沼田周一さん(61)は嫌なうわさを耳にした。
「恵愛病院は壊滅した」
「もう誰もいない」
被害を直接確認しようと、沼田さんは仙台市から足を運んだ。14日夕、泥だらけになって恵愛病院にたどり着く。廃墟のような病院に大勢が取り残されていた。
藤中さんは沼田さんに泣きながら訴えた。「患者さんを死なせてしまった」
生存者の転院が急務だった。沼田さんと木村さんは関係先を回り、受け入れ先を見つけ、移動のバス、燃料などを自力で調達した。
木村さんは「民間病院は支援の蚊帳の外だった。沼田さんが来てくれなかったらどうなっていたか」と感謝する。
沼田さんは「精神疾患は治療の必要がないとの誤解から緊急性が理解されず、災害時などの対応は優先順位が下がりがちだ」と福祉に近い精神科の難しさを指摘する。
避難した患者全員の転院が完了したのは4月1日。恵愛病院はその後閉院となり、木村さんは石巻市内の精神科病院に移った。
24人を助ける方法はなかったか。藤中さんの自責の念は消えない。ただ、孤立した現場で職員たちは必死に頑張った。「二次災害を防いだ誇りを持ってほしい」と当時の仲間への思いも強い。
藤中さんは現在、福祉施設に勤務する。職場からは恵愛病院の跡地が見える。
亡くなった人の分もちゃんと生きなきゃいけない。今はそう感じている。
精神科、災害時の盲点 救急体制確立へ、一般医療との連携不可欠
2015年12月14日 (月)配信河北新報
東日本大震災では通信の乱れや交通網の寸断などから被害状況が伝わりにくく、孤立した精神科病院が食料や医薬品の確保、入院患者の転院調整などで自助努力を迫られた例があった。
「震災直後、民間の精神科は自力で何とかしてほしいというのが行政の対応だった。公的病院との支援面での格差を痛感した」。宮城県精神科病院協会の沼田周一事務局長が漏らすように、精神科病院への公的支援の薄さを感じた関係者は少なくない。
東北大大学院医学系研究科の松本和紀准教授(精神医学)は「精神医療が行政の災害医療体制から漏れていたことと、公立病院が民間よりも優先されたこと。二重の問題があった」と指摘する。
行政で精神医療を所管するのは障害福祉関連の部署だ。厚生労働省では一般医療を医政局、精神科医療を社会・援護局障害保健福祉部が担当する。
精神疾患と身体疾患の合併症などがある患者は特別な管理が必要な場合もあり、移送の調整には一般医療との連携が欠かせない。
厚労省は10月、精神医療と一般医療との連携や、災害派遣精神医療チーム(DPAT)の体制整備を進めようと、医政局に「精神科医療等対策室」を新設した。
宮城県は、震災時に精神医療を十分に調整できなかった教訓を踏まえ、災害医療本部で活動する災害医療コーディネーターの業務に精神科入院患者の移送先の調整を加えた。精神科医師への初のコーディネーター委嘱も検討している。
松本准教授は「災害時の精神科救急体制を確立するため、災害拠点病院を含めた一般医療との連携や、平時からの情報網の整備が重要だ」と話す。
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