福島第一原発事故、作業者の衝撃体験
福島第一原発事故現場に戻って衝撃を受けた
福島第一原発で働き始めて7年になるという30代のA氏は、衝撃を抑えられない様子で語った。 「『何だこれは・・・』と、言葉を失いました。テレビでも原発の映像を流していますが、
ひどさはあんなものではありません。水素爆発を起こした1号機や3、4号機の鉄筋はぐにゃりと 曲がり、まるで爆撃を受けたようです。鉄筋の直径は20cm近くもあります。そんな太い鉄の棒が何十本も飴細工のように曲がってしまうほど、爆発の威力が凄まじかったのでしょう。地上もひどい状況です。1号機近くには原発内の移動用のバス停があるのですが、その前には高さ10mはあると思われる重油タンクが吹き飛ばされ、黒焦げになって道を塞いでいました。
A氏は福島第一原発で電気設備関係の仕事に従事する、東電の協力会社の中堅作業員だ。 一時福島県外に避難したが、上司の要請で再び福島第一原発に戻って来たという。
東電や政府が限定的な発表しかしないため、詳しい状況はいまだに不明のままである。
一体、原発では何が起きているのか。A氏の証言から、その驚愕の事実を明らかにしよう。
家族に嘘をついて福島第一原発事故現場へ
「私が福島第一原発に戻ったのは、3月25日の午前中でした。数日前に上司から電話で『また作業をしてくれないか』と言われたのです。放射性物質の濃度が高く、とても危険な状況にあることは 報道で知っていました。でも私たち作業員が行かなければ、原発の状況は悪化するばかりです。
私には、妻も子供もいます。家族に相談すれば反対されるのは明らかだったので、妻には『今度は福島県広野町の火力発電所に行くよ』と嘘をついて安心させました」
A氏は3月25日の朝、まず避難先の埼玉県から自分の車で福島県へ向かった。指定された集合場所に行くと、20人ほどの作業員が集まっている。バス2台に分乗してA氏らが次に向かったのは、原発事故対応の前線基地となっている日本最大のサッカー施設「Jヴィレッジ」(福島県双葉郡楢葉(ならは) 町)だ。だが、そこでA氏は思いもよらない扱いを受ける。
危険な現場に行く作業者へ暴言を吐く人たちがいた
「Jヴィレッジで作業員は元請けの企業ごとにバスを乗り換えるのですが、私の親会社である 大手電機メーカーの社員の態度はひどく高圧的でした。私たちが到着するなり、『今来た人たちは東電? 東芝? 日立?』と乱暴な口調で詰問するのです。?然としていると、彼は『さっさと防護服に着替えて!』と
まくし立ててきます。さすがに腹が立って、私は彼に詰め寄りました。『これから危険な場所に行く人間に対し、その態度はないんじゃないですか。どのバスに乗ればいいのか知りたいのは俺たちなんだから、もっと言い方があるでしょう』と。すると彼は謝るどころか無言で歩いて数mほど離れたかと思うと、こう言い放ったんです。
『悪かったな。お前ら、死ね!』
被曝覚悟で仕事にあたる作業員に対し、この暴言は許せません。私たちは『こんな屈辱を受けてまで 危険にさらされたくない』と、そのまま乗ってきたバスで帰ろうとしました。すると暴言を吐いた社員の上司が飛んできて、『帰られては、今後の作業員の動員に支障をきたす。何とか残ってください』と何度も謝ります。
暴言社員も上司に『来てくれた人に対して何を考えているんだ、慎め!』と激しく叱責され謝罪したので、私たちは帰ることを思いとどまり、元請け会社の用意したバスに乗り込んだんです」
福島第一原発は、まるで戦場のような光景になっていた
バスが福島第一原発から20km圏内にある富岡町に入った時点で、A氏たちはフィルター付きマスクを着用。
福島第一原発に到着すると、さっそく機材を用意して、元請け会社の指示通りに1号機へ向かった。そこで見たあまりの惨状に、A氏は我が目を疑ったという。
「見慣れた福島第一原発の様相は、半月ぶりに訪れると一変していました・・・。敷地内の重油タンクは津波のために大きく凹み、4号機近くにあった重量200tのクレーン車も踏み潰されたようにぐしゃぐしゃに壊れていたんです。戦場のような光景です。周囲には消防車が不規則に停まり、散在したホースが 行く手を遮っています。1号機へ向かうにも、大きく迂回せざるを得ませんでした」
パラパラと白い小さな物体が降り注ぐ
ようやく作業に取り掛かったA氏だが、妙なことに気づく。パラパラと、白い小さな物体が
降り注いでいるのだ。
「雪かなと思いましたが、よく見ると灰なんです。2号機からは絶えず白煙が上がっていたので、中で何かが燃え続けていたのでしょう。雪と勘違いしたのは、放射線量の強烈に高い2号機からの粉塵だったのかもしれません。まさに?死の灰?です。もしマスクをしないで作業をしていたら・・・考えただけで、背筋が寒くなります」
大量の放射線を浴びていたことを知りパニック状態に
高濃度の放射線の中では、長時間の作業はできない。A氏たちは20~30分ほどで仕事を切り上げ「免震棟」と呼ばれる、敷地内の建物へ、昼前に引き上げた。建物の中に入り防護服を脱ぐと、一人ひとりの作業中の被曝量を計測するのだが、A氏はそこで自分が大量の放射線を浴びていたことを知る。
「私の防護服は、首回りの部分が完全には閉まらない状態でした。他の作業員はテープを
巻いていましたが、私はそうした補強もしなかったんです。それがいけなかったのでしょう。
免震棟に戻り放射線量をチェックした保護官が、計測器に表示された数値を見て慌てて
叫ぶんです。『アルコールで湿らせたタオルで、すぐに首を拭いてください!』
私は『被曝してしまったのか』とパニック状態になり、その特別なタオルでごしごしと首を
拭きました。直後に保護官が計測し直すと、どうやら問題なかったようで『数値は下がりました』とホッとしていましたが、私は安心できるはずがありません。身体が汚染されてしまったのではないかと、今でも不安でならないのです」
A氏の知り合いの作業員の中には、3号機のタービン建屋近くのマンホールを開けるために、4ミリシーベルトの放射線を浴びた人がいる。わずか4分ほどの作業だったという。A氏が昨年1年間で浴びた放射線量は、約0・03ミリシーベルト。この作業員の4ミリシーベルトという被曝量は、昨年150日ほど働いたA氏の1日あたりの被曝量、いわば通常の被曝量の1万倍以上になるのだ。
ズサン・・「数が足りない」と、放射線測量計は10人に1人のみしか渡さない
それほど危険な状況での作業にもかかわらず、東電の対応は、かなりズサンなものだった。「普段は、『APD』と呼ばれる警報付き放射線測量計の携帯が全員に義務づけられているのですが、 今回は違いました。何と、10人に1人しかAPD を渡されないんです。担当者は『数が足りない』の一点張り。
1m離れていれば、放射線量がまったく違うような現場です。自分たちがどれほどの放射線を浴びているのか分からず、私たちは不安にかられながら作業を続けていました。しかもAPDは設定された放射線量を超えると警報が鳴る仕組みになっているのですが、その設定値が通常なら0・03ミリシーベルトなのに、今回は2.5ミリシーベルトだったんです。明らかにおかしい。
1日目の作業を終え、私たちは免震棟で支給された弁当を食べましたが、気が気ではありません。『東電は、俺たちの被曝量をごまかしているんじゃないか』『本当は測定できないほど大量の放射線が出ているのかもしれない』。
作業員はみな不安を口にし、表情は曇っていました」
作業を終えたA氏らは、夕方、バスでJヴィレッジに戻る。そして周囲の温泉旅館などに分かれ、大部屋で数人ごとに宿泊。翌日は早朝5時に出発し、前日同様午前中に20~30分ほど作業に当たった。
「仕事は2日間の予定でしたが、結局3月27日まで福島第一原発にいました。東電の社員も現場にいましたが 作業員任せで特に指示はありません。
原発が安全だと繰り返す、原発内の凄まじい現状を知らないから言える
私たち作業員の詰め所になっていた免震棟にはテレビがあり、枝野幸男官房長官が
『原発は安全だ』と繰り返しているのを聞きましたが、『何を言っているんだ』という気分でしたね。原発内の凄まじい現状を知らないのに、よく安易に『安全だ』なんて言えるものだと。
免震棟には500人ほどの作業員がいましたが、過酷な労働環境と被曝への不安から、みんな疲弊していました。廊下にも人が溢れ、作業を終えるとJ ヴィレッジへのバスを待つ数時間、 疲れた顔をして無言で座っているんです。一部では『震災後の作業員は日当40万円で雇われている』という報道がありましたが、私の知る限りそんな契約で来た人はいません。私の日当は1万5000円ほどですが、元請け先からは『いつもと変わらないように請求してください』と言われています」
A氏は「要請されれば、また福島第一原発に戻ります。私たちの他に誰もやる人はいませんから」と力強く語った。
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チェルノブイリで科学者が体験したこと
チェルノブイリでは原発から30キロ圏内を「放射線危険ゾーン」としたが、私の研究所のあったプリピャチは その危険ゾーンの中心部に位置している。実際、私の研究所の建物の窓から原子炉が爆発炎上するのが見えた。
原発の近くには集合住宅があり、庭のベンチに座りながらその光景を見た人もいた。集合住宅の庭では 子供が駆け回ったり、自転車に乗ったりして遊んでいた。近くの川で魚釣りをしている人もいた。
当初、住民たちは放射線被曝の危険性をまったく知らされず、何の警告もなされなかった。
危険ゾーンのなかでは植物が枯れ、動物が死に命あるものすべてが影響を受けた。放射能は動物の脳にも影響を与え、通常は人に寄りつかないキツネが近づいてきたり、気が狂った犬が人を攻撃したりした。
また、近くには幼稚園もあったがそこにいた子供たちに何が起こったか、いまどこにいるのかとても心配だ。
近くには青々と茂った松林があったが放射能を浴びて赤く枯れ、まさに「レッドフォレスト」と化した。汚染された松林から放射性物質が漏れないように、ヘリコプターで空から大量の特殊接着剤が撒かれた。
福島でも事故処理作業が進められていると思うが、日本は狭い国なので放射能汚染されたものをどこに埋めるかも今後の課題になるかもしれない。
――放射能汚染地域での作業は健康被害が心配だが。
作業を始めてしばらくして、科学者チームメンバーのほとんどが体調不良を起こした。インフルエンザにかかったときのように高熱が出て体が震え、全身の筋肉が痛んだ。また、突然の眠気に襲われたり、異常に食欲が増して常に何かを食べていないと我慢できないような状態になったりした。
体のなかの良い細胞がどんどん減り、悪い細胞が増殖しているのを実感した。
――あなたの研究所から作業チームに加わった科学者14人のうち、あなたを除いて全員は亡くなったというが。
その通りだ。私たちは皆チェルノブイリ事故によってすべての国民が放射能汚染にさらされることを懸念し、作業チームに加わったのだが、不幸にも癌(がん)などにかかり、命を落とした。
私自身も作業を始めて3年後に甲状腺がんが見つかり、甲状腺の半分を切除して摘出した。 そして5年間の作業を終えて家に戻った時は40歳だったが、その後3年間はひどい体調不良で仕事はできず、ほぼ寝たきり状態だった。
甲状腺がんも再発し、2度目の手術で甲状腺をすべて切除してしまったため、今はホルモン剤治療を受けながら、なんとか生きている。
――チェルノブイリ事故の死者は4千人と報じられているが、実際には100万人が死亡しているとの報告書も出ている。 どちらが正しいのか。
真実は誰にもわからない。しかし、どちらが真実に近いかと問われれば100万人の方だろう。当時、ロシア、ウクライナ、ベララーシ各共和国では医療制度はモスクワ政府の管理下にあった。多くの医師は、患者が放射能汚染が原因と思われる癌などで亡くなったにもかかわらず、死亡診断書にそれを書かなかったことがわかっている。
――福島原発の放射能汚染による健康被害はどこまで拡大するかと思うか。
福島原発の原子炉からの放射能漏れが完全に止まった時点で汚染地域の放射線量などを測定してからでないと、全体的な健康被害の規模を予測するのは難しい。
たとえば、一定量の毒物を入れたコップの水を一気に飲めばすぐに死ぬかもしれないが、それを毎日少しずつ飲めば しばらくは元気でいられるかもしれない。しかし、それでも毒は少しずつ体に蓄積され、いずれ命の危険にさらされるだろう。健康被害が早く出るか遅く出るかの問題である。