jojony HULA sisters

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リリューの生涯届く!

2011年02月09日 | ○ハワイの歴史
ハワイ王朝最後の女王 (文春新書)
猿谷 要
文藝春秋





注文していた「ハワイ王朝最後の女王」が届きました。
リリウオカラニの生涯を一冊にまとめた本です。

私が、いま習っているカヒコが「He Mele No Lili'u」。
リリウオカラニが女王になったのが53歳のとき。
それまでどんな生活を送っていたのか、
王位廃位のサインはどんな経緯でされたのか、
ハオレ(白人)とは、どんな関係だったのか、
知りたくて、触れたくて、楽しみにしていた一冊でした。

本を開くと、それはもう、はるか昔のハワイに
まるで自分がいたかのように、
一気に読んでしまいました。

著者は、アメリカ史研究者の猿谷要さん。
アフリカ系やアジア系など、アメリカにおけるマイノリティーを研究した方だそうです。
「あとがき」によると、猿谷さんは、ハワイに何度も足を運ぶうちにリリウオカラニに興味を抱き、
あるとき、リリウオカラニの柩に出会い、そこでリリウと約束をしたそう。
「いつか、あなたの生涯を書きます」と。
それから十数年後、2002年にこの本が出て、約束を果たせてよかったと書かれています。

私は、こんな本を書いた猿谷さんにも興味津々。
猿谷さんってどんな方だったんだろうとネットを検索。
と、衝撃の一行を見つけてしまいました。

猿谷要さん、2011年1月3日死去。

つい、先日ではないですか…。
残念な気持でいっぱいで、悲しくて、寂しくて…。
でも、ほんとうに約束が果たせてよかったですね。
天国で、リリウにこの一冊をお渡ししているでしょうか…。

リリューを想い、猿谷さんに敬意を込めて、
家で一人、「He Mele No Lili'u」を踊りました。
レレウエヘ、アミクク、カホロ、ヘラ、
ひとつひとつのステップを丁寧に心を込めて踊りました。

なんだか涙があふれてとまりませんでした。

(ジョアン アベ)

※リリウオカラニの幼名は、「リディア」でした。
「リリウオカラニ」は、兄のカラカウアから次の王位継承者として指名されたときに
カラカウアが命名した公式名称です。
そして、それからリリウオカラニの愛称として「リリュー」と呼ばれていたそうです。

リリウオカラニは、2回、自分の名前に違和感を感じています。
最初は、1895年1月廃位宣言のとき。
このときのサインは、共和国側の指示で「リリウオカラニ・ドミニス」としています。
ご主人がジョン・O・ドミニスだったからでしょう。
リリューは、自分でも聞いたことのない名前に驚き、存在しない名前のサインで、
後にこの宣言は無効にできるかもしれないと、かすかな希望すら感じています。

そして2回目が、1898年アメリカとの合併の日。
この日の式典の招待状には、「ジョン・ドミニス夫人」となっていました。
共和国側は、女王という位から、一般の婦人に身分が変わったことを
名前で示したのですね。

リディアからリリウオカラニに、そして最後はドミニス夫人と、
名前の変遷からもリリウの人生がいかに波乱万丈だったかがわかります。

この本を一冊読み通したら、私の中のリリウオカラニは、いつのまにかリリューになっていました。
気が強くて、曲げられない性格。
でも、その分、一途にハワイを愛した女王さま。
リリウオカラニは、やっぱり、愛すべきリリューなのです。

そういえば、イギリスの元ダイアナ妃が自動車事故で亡くなったとき、
臨時ニュースで「イギリスのダイアナさんが」と伝えられ、最初はいったい誰?
と思ったことを思い出しました。
元ダイアナ妃も、離婚を経て、ダイアナさんになってしまったのですね…。





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