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jojony HULA sisters

フラダンスのお教室です。
豊島区目白で活動しています。

Kawika

2011年02月17日 | ○ハワイの歴史
カヒコをはじめると、まずやるのが「Kawika」ではないでしょうか。

私は、前のハラウでも、今のハラウでも、最初のカヒコが「Kawika」でした。
振りは、まったく違いますが、チャントはほぼ同じです。

カビカは、すべての花の中で一番偉大な花。
カビカの名声は、遠くイギリスやフランスにも届く。
この花の血筋は、誇り高き父からのもの。
その名は、カラニ カビカ。
そのことを伝えます。

と、謳っています。

カビカとは、デビット カラカウアのこと。
Kawikaとは、デビットのハワイ読みだそう。

カラカウアとは、ハワイ王朝7代目の王様。
ハワイにやってきたキリスト教宣教師たちの教えによって
禁じられたフラやチャント、ハワイ語などハワイ文化の復興に尽力した王様です。

歌や踊り、お酒が大好きな陽気な王様。
そのため、「メリーモナーク」(陽気な王様)と呼ばれていました。
毎年4月にハワイ島で開かれるメリーモナークフェスティバルは、
この王様を讃えて、偲んで開かれるフラの大会です。

ハワイアンルネッサンスでフラを再びハワイに取り戻した王様。
だから、カヒコ第一弾は、敬意を表して「Kawika」というのが定番のようです。

カラカウアが、ユニークなのは世界で初めて世界一周の旅に出ていること。
通常、王様というのは、自分がいない間、他国から攻められても大変だし、
内紛が起こって自分の地位が脅かされるのも心配です。
水戸黄門さまのようなご隠居さまは別として、そうそう君主が
世界一周の旅に出ようとは思わないもの。
それが、カラカウアは、1881年、在位6年目にして、10ヶ月もの世界一周旅行に出ています。

最初はアメリカ・サンフランシスコに向かい、次は日本。
その後は上海、香港、バンコク、シンガポール、インド、エジプト、
イタリア、フランス、ポルトガル、ドイツ、イギリス、
そこからニューヨークに戻り、アメリカを横断して戻っています。

だから、カヒコにもあるように、その名声は遠くイギリスやフランスまで
とどろいているのですね。なんたって、自分で行っちゃったんですものね。

旅の詳細は、随行したウィリアム・N・アームストロングが旅行記に残しています。
正直なことを王様のことを気にせず伝えたいと、あえてカラカウアの死後に出版しています。
「カラカウア王のニッポン仰天旅行記」(小学館)では、特に日本での滞在が取り上げられていますが、
明治天皇との出会いやゲイシャガールとの宴会、温泉での混浴にびっくりと
まさに珍道中。
日本に上陸するまでは、「誰も気づいてくれないかもしれない」「泊まるところくらいは確保しておこう」と船に同乗した日本人に横浜のホテルを紹介してもらうなど、最初の控えめさはかわいいくらい。
それが、ハワイの王様がやってきたと、カラカウア一行からしたら想定外の大歓迎をうけます。
それまで鎖国をしていましたから、日本初の国賓だったそうです。

カラカウア王のニッポン仰天旅行記 (小学館文庫)
カラカウア
小学館



同書によると、日本側が出費したコストは、現在のお金に換算すると数億円だったとか。
まさに、大大大接待だったわけですね。

この日本の滞在中の大きな目玉といえば、縁談話でしょうか。
日本とのお近づきを狙い、当時5歳だったカラカウアの姪・カイウラニと
天皇の縁戚、山階宮定麻呂(当時15歳)との結婚をカラカウアは明治天皇に持ちかけています。

しかし、賛成派はかなりいたようですが、皇族の国際結婚は前例がないこと、
アメリカに配慮したことなどから、翌年、日本は丁重にお断りをしています。

美しく成人したカイウラニ。
彼女が日本の皇族にお嫁にいらしたら、さぞかし素敵だったでしょうに…。
日本にいらしたら、ハワイの雨に打たれて若くしてお亡くなりになることもなかったでしょうか…。

アームストロングは、同書にゲイシャガールの踊りを見て、ハワイのダンスによく似ていると書いています。
ただし、もっと上品であるとも。
「踊りの振りは、何かの象徴で、花になりきって踊るときは、まるでそよ風にしなうようだ」とも。
お恥ずかしながら、私は日本の舞踊の知識はありませんが、
そういう意味では、ほんとうに日本の踊りとフラは似ているのかもしれません。

130年後、この日本で多くのフラガールが、「Kawika」を踊っている。
カラカウアご一行様は、こんなこと想像できたでしょうか。
残念ながらハワイと日本の縁談は成立しませんでしたが、
彼らが蒔いていった陽気なフラの種は、いま、確実に花を咲かせているようです。

※上の集合写真は前列中央がカラカウア、後列右が珍道中を書いたアームストロング。
女の子はカイウラニ、男の子は山階宮定麻呂(なかなかのイケメンでは!?)。
大きな立派なおひげの方が、カラカウア。
美しい女性が、成人したカイウラニ。

(ジョアン・アベ)

リリューの生涯届く!

2011年02月09日 | ○ハワイの歴史
ハワイ王朝最後の女王 (文春新書)
猿谷 要
文藝春秋





注文していた「ハワイ王朝最後の女王」が届きました。
リリウオカラニの生涯を一冊にまとめた本です。

私が、いま習っているカヒコが「He Mele No Lili'u」。
リリウオカラニが女王になったのが53歳のとき。
それまでどんな生活を送っていたのか、
王位廃位のサインはどんな経緯でされたのか、
ハオレ(白人)とは、どんな関係だったのか、
知りたくて、触れたくて、楽しみにしていた一冊でした。

本を開くと、それはもう、はるか昔のハワイに
まるで自分がいたかのように、
一気に読んでしまいました。

著者は、アメリカ史研究者の猿谷要さん。
アフリカ系やアジア系など、アメリカにおけるマイノリティーを研究した方だそうです。
「あとがき」によると、猿谷さんは、ハワイに何度も足を運ぶうちにリリウオカラニに興味を抱き、
あるとき、リリウオカラニの柩に出会い、そこでリリウと約束をしたそう。
「いつか、あなたの生涯を書きます」と。
それから十数年後、2002年にこの本が出て、約束を果たせてよかったと書かれています。

私は、こんな本を書いた猿谷さんにも興味津々。
猿谷さんってどんな方だったんだろうとネットを検索。
と、衝撃の一行を見つけてしまいました。

猿谷要さん、2011年1月3日死去。

つい、先日ではないですか…。
残念な気持でいっぱいで、悲しくて、寂しくて…。
でも、ほんとうに約束が果たせてよかったですね。
天国で、リリウにこの一冊をお渡ししているでしょうか…。

リリューを想い、猿谷さんに敬意を込めて、
家で一人、「He Mele No Lili'u」を踊りました。
レレウエヘ、アミクク、カホロ、ヘラ、
ひとつひとつのステップを丁寧に心を込めて踊りました。

なんだか涙があふれてとまりませんでした。

(ジョアン アベ)

※リリウオカラニの幼名は、「リディア」でした。
「リリウオカラニ」は、兄のカラカウアから次の王位継承者として指名されたときに
カラカウアが命名した公式名称です。
そして、それからリリウオカラニの愛称として「リリュー」と呼ばれていたそうです。

リリウオカラニは、2回、自分の名前に違和感を感じています。
最初は、1895年1月廃位宣言のとき。
このときのサインは、共和国側の指示で「リリウオカラニ・ドミニス」としています。
ご主人がジョン・O・ドミニスだったからでしょう。
リリューは、自分でも聞いたことのない名前に驚き、存在しない名前のサインで、
後にこの宣言は無効にできるかもしれないと、かすかな希望すら感じています。

そして2回目が、1898年アメリカとの合併の日。
この日の式典の招待状には、「ジョン・ドミニス夫人」となっていました。
共和国側は、女王という位から、一般の婦人に身分が変わったことを
名前で示したのですね。

リディアからリリウオカラニに、そして最後はドミニス夫人と、
名前の変遷からもリリウの人生がいかに波乱万丈だったかがわかります。

この本を一冊読み通したら、私の中のリリウオカラニは、いつのまにかリリューになっていました。
気が強くて、曲げられない性格。
でも、その分、一途にハワイを愛した女王さま。
リリウオカラニは、やっぱり、愛すべきリリューなのです。

そういえば、イギリスの元ダイアナ妃が自動車事故で亡くなったとき、
臨時ニュースで「イギリスのダイアナさんが」と伝えられ、最初はいったい誰?
と思ったことを思い出しました。
元ダイアナ妃も、離婚を経て、ダイアナさんになってしまったのですね…。





リリウオカラニ

2011年02月05日 | ○ハワイの歴史
私は、いま、カヒコで「He Mele No Lili’u」をやっています。

ハワイ王朝最後の女王様、リリウオカラニを讃えた曲で、
あなたは、座る姿も美しく、
あなたの目、ほほ、肩は美しい。
あなたの胸もやわらかく、
あなたの足は天にも昇ると、
いかにリリウが美しく、素晴らしい女王様であったかを謳っています。

ハワイは文字を持たなかった口承文化。
こうしたカヒコで歴史や人物、文化などを後世に伝えていたため、
曲のラストはほぼ、「Ha’ina ’ia mai」(伝えましょう)で結ばれています。
このカヒコでは、「この曲を通じて、伝えます。いかにリリウが美しかったかを」と、
曲の主意がまとめられています。

リリウオカラニは、ハワイ王朝最後の女王様。
メリーモナーク(陽気な王様)として有名な、
またフラなどハワイ文化の復興に尽力した王様・カラカウアの妹です。

カラカウアには、お子さんはいませんでした(美しいカイウラニは養女です)。
奥さん(カピオラニ王女)はいましたが、血筋を重んじ、カラカウア死後、カラカウアの遺言によって
妹のリリウオカラニが王を継ぐことになったそうです。

王位を継いだのは1891年。リリウが53歳のときです。
でも、当時はアメリカ人やイギリス人などの白人がハワイで猛威をふるっていた頃。
サトウキビプランテーションやそのほかのビジネスでハワイに資本を築いていた頃で、
白人たちは自分たちの経済的基盤を強固にしたいが一心に、
なんとかこの王朝を声なき、力なきものにしたかった。
そして、わずか4年後、1895年には王朝が最期を迎えることになってしまいます。

この間、ハワイの王族と白人の権力者たちとの関係は急速に悪化するわけですが、
日本は王族を支持していたそう。
日系人保護という名目ではあったにせよ、軍艦を送るなどして
白人の臨時政府に遺憾を表明していたそう。
フラを嗜む日本人としては、かなり誇り高き史実です。

リリウは、王朝最期の8ヶ月間は、イオラニ宮殿に幽閉されます。
その間のエピソードはいろいろあって、
有名な「アロハ・オエ」は、この間にリリウが国民を想って作った曲だとか、
この間、国内の情報がまったく得られなかったリリウのために、毎日、花を贈った青年がいた。
その花は、情報の詰まった新聞紙だったとか…。

王朝の最期は、リリウが決断を下します。
1895年1月、リリウの支持者たちとの命と引き換えに、王位を廃位する契約書にサインをして
ハワイ王朝は消滅しました。

こうして、白人の権力によって王位を失ったリリウですが、
リリウが幼い頃には、もうハワイには既に白人の宣教師などが入ってきていて、
リリウもアメリカ人宣教師による学校で聖書に基づく教育を受けています。
英語も堪能で、結婚も米国出身の白人ジョン・O・ドミニスとしています。
イギリスまで招待されてビクトリア女王から金のブレスレッドも贈られています。
(これが、いまのハワイアンジュエリーのもとになっているそう)
ハワイに白人がいることは、違和感なき世代だったのだとは思います。

リリウは、白人社会とハワイ文化の両方に精通した、大変に洗練された方だったそう。
いまなら雑誌に「今週のリリウ」なんて特集された、
おしゃれな憧れセレブマダムという感じだったのかもしれません。

ところで、あるクイズ番組のハワイ特集で、気になった問題がありました。
「さて、ハワイの西洋化に貢献したこの人は、誰でしょう」
え、西洋化に貢献? 西洋化を肯定した問題文です。
でも、西洋化=文明化=便利な生活、ということであれば、それはいいことになります。
私たち日本も、ほぼ西洋化して、便利な生活になっています。

でも、便利はうれしいけれど、心までは西洋に売り渡したくない!?
リリウは、白人主導だったハワイをハワイ王制に取り戻すため、
王制優位の憲法改正などに力を入れます。

リリウは、白人社会とハワイ文化の両方を知っているからこそ、
便利は受け入れつつも、ハワイの心、ハワイの土地、ハワイの文化は
大切に守りたかったのかもしれません。

それにしても、ハワイは、太平洋の真ん中の、あまりにも小さな島。
神々を信じる無垢な人々。
天国のような自然。
強欲な人々からしたら、ハワイを我が物にするのは、赤子の手をひねるようなものだったかも。
あまりに無防備な島々だったかもしれません。

リリウは、一人、欲にまみれた手から、ハワイを守ろうとしたのかもしれません。

リリウは、王位を失った後も、イオラニ宮殿近くのワシントンプレイスで
亡くなる79歳まですごしています。
短命な方が多い王族の中で、80歳近くまで長生きされたのは救いです。

カヒコ、「He Mele No Lili’u」では、
リリウは、「座る姿も美しい」とあります。
この曲が作られた年がわからないので、私個人の勝手な解釈ですが、
座る姿とは、幽閉されていた頃の姿なのかしら…。
リリウは、イオラニ宮殿の二階の角部屋に幽閉されていたと聞きます。
窓から、座るリリウが見えていたのかしら。

「あたなの目は輝いて、頬は素晴らしい」とは、
リリウがハワイの未来を信じて目を輝かせ、微笑んでいたのかしら。

西洋化の中で、翻弄された最後の女王様リリウオカラニ。
洗練された美しさを讃え、ハワイ国民を愛した母性を感じ、
ハワイを守ろうとした力強さをカヒコで表現できたらいいなと想います。

それは西洋化真っ只中に暮らしつつも、日本人としてどう生きるのか、
また日本人として、なぜにフラにはまるのか(これ、私のテーマ)
私たちにも通じる想いのような気がします。
国家を背負ったリリウとは、あまりに次元は違いますが…。

(ジョアン・アベ)

海を渡る人々

2011年01月10日 | ○ハワイの歴史
ハワイに人が住み始めたのは、世界史的には、比較的新しく
300年頃に、第一陣としてマルケサス諸島から、
1100年頃に、第二陣としてタヒチなどから人々が渡ってきてからです。

移動手段は、船。
船体をふたつ横に並べて固定した「ダブルカヌー」というものです。

移住当時の絵などを見ると片側に5人ずつ、総勢10人乗りという感じですが、
その後、1778年にイギリスのキャプテン・クックが渡ってきたときには、
約30メートルものダブルカヌーがあったと記録されていますから、
船体は、ずいぶんと大きなものに進化していくようです。

当時は、もちろん地図や羅針盤といったものはなかったはずですから、
頼りにするのは、星、太陽、月、風の向き、渡り鳥の向かう方向など。
それでタヒチ・ハワイ間4000キロも渡ってきてしまうのですから、
その航海技術や勇気は、ほんとうにすごい。

そこで、思い出すのが「He Mele No Kanaloa」。
神様カナロアが、ハワイに人々を連れてくる航海の様子を謳ったカヒコです。
2001年、メリーモナークフェスティバルで、クム チンキー・マーホエ率いるハラウが、
このカヒコを踊って、見事カネ・カヒコで第1位に輝いています。

私はDVDでしか観たことがありませんが、
ダンサーたちは、コアの木のパドルを抱えて、足を踏み鳴らし、力強く踊っています。
筋骨隆々の身体、強い意志を感じる眼光、一糸乱れぬチームワークは、
彼らだったら大丈夫、4000キロをもモノトモセズ、大航海を成功させたはずと思わせます。

きっと、当時も航海前に、無事を祈って、こんなふうに踊っていたのでしょう。

よく見ると、ダンサーの中には10代なかばくらいの少年もいます。
もしかしたら、当時も、こんな少年が海を渡ったのかもしれません。
フラの最高峰・メリーモナークで踊る少年が誇らしげなように、
きっと、海を渡る少年も誇らしげだったに違いありません。

でも、そのお母さんは、どうだったかしら…。
海が穏やかでありますように、辛い思いをしませんように、そして必ず戻ってきますようにと、
涙を流して祈っていたかもしれません…。

私は、このカヒコをみるたび、どうしても母の気持ちになってしまい、
少年が誇らしげであればあるほど、涙が出そうになってしまいます…。

それにしても、この航海、いったい何日、何週間、いや何ヶ月かかっていたのでしょうか。
やっぱり、行ったら、もう戻ってこれないほどだったのでしょうか。

みんな同じことを考えるのですね。
1976年、古代のダブルカヌーが再建され、当時と同じ航海方法で
海を渡る実験が行われました。
ホクレア号(幸福の星)と名づけられたダブルカヌーは、
なんと、わずか31日で目的地に到着しています。

人の力のみで、1ヶ月。予想外の速さです。
「太平洋」というのは、大きな平和な海、と名づけられたように、
嵐の少ない穏やかな海原なのだそう。
だから、これだけの日数で、無事に行き着けたのかもしれません。
これほどの速さなら、行ったきりの航海ではなく、定期便もあったかもしれません。

母の気持ちも、少しやすまります。

同年、チンキー・マーホエのハラウは、
少年が母親のためにロブスターをとりにいく様子を描いた曲で
カネ・アウアナでも2位に輝いています。

「ワヒネは優雅に、カネはコミカルに」というチンキーらしく、
顔をゆがめ、腰をかがめ、コミカルなしぐさで楽しませてくれます。
ダンサーの中には、カヒコで涙を誘った少年もいます。
あー、無事でよかったと勝手に安心。
当たり前ですね。彼は、航海に出たわけではないですものね。

力強いカヒコとコミカルなアウアナ。
好対照の踊りを同じダンサーが踊っています。
きっと古代のカネたちも、海洋ではたくましく、陸上ではコミカルに、
人々を、女性を楽しませてくれたのかもしれません。

想いは遠い古代に広がります。

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<用語解説>
■メリーモナークフェスティバル:「メリーモナーク」とは、陽気な王様という意味で、カラカウア王のこと。白人の宣教師に禁止されたフラを復興させた王様で、このことを讃えたフェスティバルが毎年春、ハワイ島で開催されています。
メインは、フラの大会で、1日目がミスアロハ、2日目がカヒコ、3日目がアウアナで、各部門ごとに競われます。

■カヒコ:古典フラ。イプヘケなどハワイの楽器やチャント(詠唱)に合わせて踊ります。

■アウアナ:現代フラ。ハワイアンミュージックに合わせて踊ります。