9年前の5月、僕はインドのカルカッタの街角に立っていた。
ファルトボートで日本中の川旅をした僕は、海外にそのフィールドを求めていた。そのために、ヨーロッパ、東アジア、東南アジアに偵察行を行ったり、北米や南米の川の調査をしていた。
インドでは、ガンジス川がカヌー旅の対象になるか、調べるつもりだった。バンコク経由の飛行機がカルカッタに降り立ったのは深夜だった。街は暗く静まり返り、とてもじゃないが一人では移動できない。直感的に身の危険を感じだ。
考えることは皆同じで、空港内で知り合った日本人3人でチームを組み、タクシーをチャーターして安宿街に逃げ込んだ。
旅慣れたメンバーの一人が、静まり返ったホテルの中に、一部屋だけ空きを見つけ、僕らはその部屋の汚いベットの中で泥のように眠った。
翌朝、ホテルのフロントに行く。フロント脇の掲示板には日本語のビラがたくさん張ってあった。全てが行方不明の息子や娘を探す親の作った、悲壮感の漂う消息尋ねのビラだった。
この国では多くの日本人の若者が行方不明になっている。原因はドラッグだ。ドラックがらみのトラブル、心神喪失で沈んでいってしまうのだ。
さらに、長期滞在者からの聞き取りしていると、前の週にガンジス川のほとりで、韓国人の青年が、強盗団に襲われ殺されていることが分かった。
2週間の休みを取ってガンジス川の調査に来た僕は、途方に暮れてしまった。この国ではカヌー旅が成り立たない。そんなことしたら、命がいくつあっても足りない。川旅どころか、調査に行く気さえなくしてしまった。
時間をもてあました僕に、一人の青年が声をかけていくれた。「僕はマザーハウスでボランティアをしてるけど、君も暇なら一緒にいかないかい?」
マザーとは、マザーテレサだ。マザーテレサは、ここカルカッタで修道院を起こし、恵まれない人々のために病院を作ったり、死期の近い人のためにホスピスを持っていた。それらは慢性的人手不足で、多くの若者がボランティアと言う形で、協力をしていたのだ。
ボランティアの集会に行って驚いた。ボランティアの三分の一(約30人)は日本人の青年、淑女だった。しかも、クリスチャンは皆無だった。
修道会のミサに参加した時、礼拝堂の一番後ろにマザーテレサが座っていた。サリーの裾から、チラリと足が見えた。僕ははっとした。彼女の生はもう長くないと見とれた。すでに心疾患で何度か入退院を繰り返しておられるとは聞いていた。寒い朝だった。
ある理由から、僕は日本人のシスター(修道女)に気に入られ、「あなたはマザーに会うべきだ」と勧められ、マザーテレサと面談することになった。
この修道会には、多くの後援者から献金や物資の寄付が寄せられている。マザーは1日に1時間だけ、後援者と面談する。この時、笑い、朗らかな雰囲気で話をして盛り上がる。僕はシスターに促され、この輪の中に入れてもらった。
握手をした時、その手は冷たく、呼吸も浅く、早かった。それでもあっちの人に名刺を渡し、今度はこっちに人に記念品を渡し、ちょこまかちょこまか動き回る。僕の胸ぐらいの背丈しかないが、何度も僕の前を右に左に移動する。
「そう、あなたは日本から来たの?」「はい、あなたの病院でボランティアをさせてもらっています」” So..very nice.”そう言ったかと思うと、またあっちに行っては返り作業をしている。
「僕にはあなたが忙し過ぎるように見えるのですが・・」とちょっと心配して声をかけると、くるっとこっちを向いてニコッと笑うのであった。”hahaha,it's my bussines!”彼女の目は温かく微笑んでいるのであった。
どんな苦しい時もユーモアの精神を忘れない。人を温かい気持ちにする。そんな人間でありたいと、いつも思うのだ。
寒い朝に、時々マザーテレサの笑顔を思い出すことがある。
マザーテレサはこの5ヵ月後に亡くなった。彼女は亡くなっても、その遺志をを次ぐもの達が活動を続けていることだろう。そして僕の記憶の中でも生きつづけて行くだろう。
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