自燈明・法燈明の考察

俗物なる人

 新コロナウィルスの影響は、なかなか無視出来ない状況になり始めてますね。昨年の台風19号で取引先の工場が水没被害を受け、今度は中国の企業が、今回の新コロナウィルスの影響で工場閉鎖となり、再開のめど立たず。
 社会人経験三十年以上してますが、こんな騒ぎは初めてです。やはり大きな時代の変革期に来ているのかもしれませんね。

 さて、世界でこんな事になってますが、創価学会では相変わらず座談会だ無意味な会合だとやっている様ですが、こんだけ新コロナウィルスの騒動になっているのですら、会合なんて自粛すれば良いのにとも思います。どうせ大した内容なんて無い会合ばかりなんですから。

 さて、ネットを見ると創価学会に憂う言葉が溢れています。まあ組織のど真ん中にいて、実際の組織状況を理解していない人達は、そんな憂う事なく、むしろ現状を憂いている人達を「組織の本流から離れた人たち」として、どちらかと言うと見下すような発言を多く見ます。

 でもどうなんでしょうか。
 語る内容のロジカルさで見たら、どうみても創価学会の現状を憂いている人達の方が、一般的な理屈にはあっていると思いますし、むしろこの状況でも創価学会の活動に励もうという人達の方が、現状を理解しておらず、感傷的且つ浪花節的な言葉が多い様に思えるんですけどね。

 あともう一つ思うことがあります。
 それは創価学会を憂いている人達の中にも、歴代会長や特に三代の池田会長の言葉を大事に崇めながら、その言葉を引用して今の創価学会執行部を批判し、組織改革を真面目に考えている人たちが、それなりに多い様に思えるのですが、どうですか?


 先に「創価学会の現状を憂いている人」の方がロジカル的にまともである様に言いましたが、この場合、近年の池田会長や、その池田会長が引用している初代・二代の会長の発言、また日蓮の言葉を見るとロジカル的にもある様に見えますが、池田会長自身の発言が、一貫性がない事もあるので、俯瞰してこの池田会長の発言を過去から見たときには、やはり感傷的且つ浪花節的な思考にも見える事があります。

 私は常々思うのですが、池田会長の言葉を金科玉条の様に扱うことは、止めればいいのにという事。しかしこれがまた難しかったりするのです。それを言おうものなら、それこそより極悪人で信心のない、それこそ仏敵が如く罵詈雑言を受けることがあるのです。

 つまるところ、そういう池田会長の言葉を客観的に観るスタンスを取る人間は、今の創価学会の「本流」としている人から見たら、信心の無い、言葉を誑かして組織を撹乱する人間以下の、まあどう仕様も無い人間が如く思われているという事にもなるわけですね。

 結果どうなるかと言えば、この創価学会を論じる論点は、創価学会を改革するか、しないか。広宣流布を進めるか邪魔するのか。そこの議論の中心には常に池田会長ありきという構図かあるという事になるのでしょう。そして最初から私の様なスタンスを持つ人間は、創価学会を語るなという事なのかもしれません。

 現にこんな事を語ると「語るな」「辞めろ」という罵詈雑言を、アンチ創価学会のスタンスの人からも言われます。

 過去、元東京都知事であった石原慎太郎氏は池田会長を指して「偉大なる俗物」と指摘をしたことがあります。その言葉を聞いた若き日の私なんかも、それは許せんと思いました。しかしいま、創価学会の実態や、「世界から称賛される池田先生」という実態を知るに至ってから、私も池田会長はやはり「偉大なる俗物」と思うようになりました。

 莫大な創価学会マネーにより、形としては「寄付」「献金」という形で資金を渡し、対価として「名誉称号」を得る。池田会長の当初もらった幾つかの褒賞は、もしかしたら資金を使わずに得たかもしれません。しかし近年に至って受賞している大半は、その様な形ではなく、資金の対価として得ているのが大半です。私は、何も根拠なしに言っているのではありません。世間の中で、多少なりとも社会の運動に関わる人間であれば、公明党や在外公館関係者ならの情報をキャッチする事が出来るのです。

 それが出来ないのは、悲しいかな創価学会で盲目的に信心している人、または創価学会を客観視出来ない人たち位なものです。

 私は池田会長は俗物ただと思っています。けして聖人君主の様な高潔な人間ではありません。だから今の創価学会執行部にしても魑魅魍魎の様な人間が跳梁跋扈する場所になったのでしょう。今の創価学会執行部を批判する人でも、池田会長を聖人君主の様に考えている人は、こんな視点を持てないようですが。

 でも組織を改革するなんていうのであれば、その改革すべき組織を客観視出来ない限りは無理なんです。何故ならば問題の本質を理解出来ないのに改革なんて出来ますか?

 考えてみれば宗教の指導者が、必ずしも聖人君主である必要なんてないのです。はからずも大酒のみの戸田会長が、自分の姿を通して教えたのが、この事ではないでしょうか。
 大酒のみで、妾も居て。しかもそれを隠すことすらしない。しかし自分の持つ情熱で周囲の人を動かしてきた。これが戸田会長という人物だったのではありませんかね?

 人間に聖人君主なんてありません。光が当たる部分があれば、必ず影か出来るのです。人を評価するならば、その光と影を理解しないと、本当の姿は理解出来ないのです。

 池田会長が俗物という事を、認められない人は、そういう視点が著しく欠如しています。それでは「人間・池田大作」というのは理解出来ないでしょうし、結果として人間理解の宗教なんて語ることすら出来ないと、私は想いますよ。

 まあ私個人としては、今の創価学会を改革出来るなんて妄想は持ちません。取りうる方策は解散しかないでしょう。そして解散した時の様々な影響について、本来はもっと議論すべきではありませんかね?

 以上が私の私感です。


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