自燈明・法燈明の考察

創価学会の非核に関する自己矛盾から思う事

 今日は自宅の茶の間の大掃除をしてまして、昼間に近所のニトリに行っては必要な家具などを購入し、午後から大わらわで部屋の中を「プチ模様替え」していました。今日の陽気は曇りで比較的に涼しかったのですが、家具をどかしたり、掃除機掛けたりと、結果として汗だく作業になってしまい、疲れてしまっています。

 さて、そんな中で「核兵器禁止条約」に関するツィートを拝見してました。何でも今月中には発効に必要な批准数達成の公算が見える中、日本政府はこの条約には参加をしていません。被爆国という歴史があるにも関わらずです。

 今回はこの件について、私の私見を少し書かせて頂きます。



 今の日本は自公連立政権。政権与党の公明党の支持母体は云わずと知れた創価学会です。創価学会と言えば、第二代戸田会長の「原水爆禁止宣言」があり、第三代会長の池田会長も核兵器無き世界の実現を訴えていました。その創価学会が支援する公明党は、政権にいるにも関わらず、この日本政府が「核兵器禁止条約」に不参加という事について、特に異論をはさむ事もなく、外務省が説明していますが、日本政府の公式見解を支持する立場を取っています。

日本が米国の核抑止に依存しつつ核軍縮を追求することについて疑問に思う人もいるかもしれない。しかし、核の惨禍を二度と繰り返さないための最も確かな保証が核兵器のない世界を実現することである一方で、そこに至る道のりの途中においても、核兵器の使用はあってはならない。
つまり、核軍縮を進めるにあたって、諸国間の関係を不安定なものにして、逆に核兵器の使用の危険性が高まるようなことになってはならず、核軍縮は諸国間の安定的な関係の下で進められる必要がある。

(外務省による説明資料)

 確かに過去において、創価学会は野党当時の公明党を通じて「核兵器廃絶」を政治の世界では訴えつつ、宗教団体としても署名活動を通じて国連に訴えるなど、一貫して核兵器廃絶の行動をしてきました。

 創価学会三代会長の池田会長は、2009年9月に発表した「SGI提言」では以下の様に述べています。

(創価学会公式サイト「池田大作先生の足跡」)

 公明党の設立者でもある池田会長が、この様に核兵器廃絶を訴えているにも関わらず、何故、公明党として設立者の想いを体して、政府の中で今回の「核兵器禁止条約」に参加する事を主張しないのか。何故「民衆の代表」として核兵器廃絶に向けた声を上げないのか。過去に創価学会の活動に参加していた人達の中には、忸怩たる思いがある事でしょう。

 しかし一方、今の創価学会は宗教団体としては、この「核兵器廃止」に関する取り組みを継続していても、創価学会の実質的な政治部門である公明党に対しては、公の声明として、政権与党内で今回の核兵器禁止条約への参加に対するパブコメなり意向は一切出していません。これは「宗教組織としての行動と、政治に対する行動は別」という、いわば「核兵器」に関しては、創価学会としてダブル・スタンダートな姿勢を取る事を暗に表明した様な事になっています。

 そしてこのダブル・スタンダードの姿勢について、現場の会員達に敢えて意識させる事すらもしていません。

 創価学会が政治に関与するのは「立正安国-四俵の静謐」の為、その実現に向けた宗教活動だと言いながら、その一方で政治の事については、宗教団体として妥協し、ケースによってはダブル・スタンダードの姿勢を取る。宗教とは原理原則を述べる立場にあるにも関わらずです。

 こういった事について、過去に創価学会と共に核兵器廃絶の活動をしていた人達の中には、大きな憤りが噴出する事は当然であり、今の創価学会の活動家の中には今の公明党・創価学会の姿勢を支持する人もいますが、過去に活動していた、そういう憤りを持つ人の心中ついて、少しは察するべきだと私は思うのです。

 それを単純に「原理主義的だ」「現実を知らなすぎる」という言葉で一刀両断する様な言動も見受けられますが、それはあまりにも無慚というものでしょう。

 私自身、先の紹介した様なSGI提言で述べられていた池田会長の言葉を信じて、核兵器廃絶の署名活動や啓もう活動を、男子部で若い時に、一生懸命に取り組んだ時期もありますので、やはり今の公明党の行動には忸怩たる思いがあります。

 と、ここまでは創価学会としての話です。

 現実に考えてみると、今回の核兵器禁止条約に参加を表明しているのは、非核保有国のみであり、そこに核保有国や既に核兵器の保有を声明を出している国は参加をしていません。これでは核兵器禁止条約と呼んでいても、実効上、あまり意味のある条約ではないでしょう。この条約とは非核保有国による核兵器拒否の声明という程度の効力しかありません。

 核兵器というのは、その破壊力が故に「政治的兵器」と呼ばれています。それは一旦、この兵器の保有を宣言した国は、容易に他国から攻撃をされる事なく、戦争状態に突入する事は無いという事から、その様に言われています。近年、北朝鮮が核兵器保有を、何故声高に宣言したかと言えば、それによりアメリカが容易に北朝鮮に対して先制攻撃を仕掛ける事が出来なくなるという事を理解しているからでしょう。

 また中東諸国の中でイスラエルについても同様で、イスラエルも非公式ながら核兵器保有を宣言しています。その事から中東地域でイスラエルを巻き込む戦争は近年発生していません。

 そもそも東西冷戦時代には、アメリカとソ連邦も戦火を直接交えずに、その代理戦争という事で、世界の各地で地域紛争は多発していました。しかし今に至るまで世界規模の戦争が行われないという背景には、この「核抑止力」というものが存在したからであり、歴史に「もし」は無いとしても、この「核抑止力」が存在しなければ、地球規模の戦争というのは、これまでに幾度も勃発していた可能性もあるのです。

 日本という国は、日本国民の意識がどうであろうと、世界から見た場合にはアメリカ軍の傘の下にいる国家です。以前にプーチン大統領と安倍総理が首脳会談した際、プーチン大統領が「北方四島を日本に返還した場合、そこにアメリカ軍の基地を建設しないと約束できるか?」という問いかけをしましたが、安倍総理は「それは約束できない」と回答した事で、この首脳会談は事実上、物別れに終わったのは最近の話です。

 アメリカ軍の持つ軍事力には、当然「核兵器」がある訳で、日本人が如何に取り繕うとも、日本という国は現実的には「アメリカの核抑止力の傘の下にいる国家」に違いはないのです。その様な日本が独自の意見で「核兵器廃絶」を言える立場にないと私は思うのです。恐らくもし、日本政府がそのような発言をした場合には非核保有国からは称賛されるかもしれませんが、核保有国等からは、自分の国家を自分自身で守る事も出来ない国が、核保有国であるアメリカの傘の下から一体何を云うのか。という嘲笑とも言われる姿勢を取られてしまうでしょう。

 そう考えてみると、今回の核兵器禁止条約に関する日本政府の姿勢とは、現在、日本という国が置かれている国の状況では、致し方ない姿勢とも思えるのです。

 そうは言っても、日本国内には「世界で唯一の被爆国」という思いがあります。ではどうすれば良いのか?

 本来であれば、アメリカ軍の傘の下から抜け出して、日本独自の外交路線を進められる、本当の意味での独立国家という立場に日本がなれば、こういった核兵器禁止条約に対しても賛同する事が可能となりますし、独自の核兵器廃絶に向けた取り組みを行う事も出来るでしょう。しかしそれは、今のままでは軍事的には丸裸な状態で日本という国を、この緊張高まる極東地域に晒す事にもなり、大きなリスクを背負いこむ事を認識しなければなりません。

 私が思うに、今回の核兵器禁止条約に垣間見える、この日本の国の姿勢の問題に対して、解決の糸を見出すのであれば、やはりそこから始める必要があると思うのです。そしてこれは現在、国内にくすぶっている辺野古基地の問題に代表される沖縄県米軍基地問題の解決についても同様です。

 一番の問題は、国民の「国家観」であり、国際情勢への正確な理解が、今の日本国民には決定的に不足している事なのではないでしょうか。

 こういった視点の醸成が、今の日本人には必要と私は考えているのです。


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