2月も半ばを過ぎて、陽気がすこし春めいて来ているように感じます。
私の方は、日々の仕事と、あとは週末何をしようかと思案中なんですが、創価学会では統一地方選挙の活動真っ盛りのようですね。座談会や様々な会合も「大勝利」「完勝」という枕詞のついたものばかりで、内容はといえば「票を掻き集めて公明党議員の当選を勝ち取ろう!」ばかりやっています。
この4月に実施される統一地方選挙ですが、内容は地方自治体や政令指定都市の市議会議員の選挙であり、内容はあくまでも地方に関わる選挙で、やれ道路がどうとか、身近な公共インフラ、そしてあくまでも地方行政に関わる選挙なのですが、やはり様々な政党が絡む事でもあるので、そこで出た結果というのは国政にも大きな影響を与えます。
まあ端的に言えば、増税路線に舵を切り、防衛予算を増額している岸田政権への「中間選挙」の様な扱われ方が為される選挙です。もし自公与党の地方議席が増えれば「岸田政権は信任されている」という評価にも繋がりますし、議席が減れば政権への支持が落ちてきているという事で、選挙後に政局が動くことも考えられます。
だからとても大事な選挙なんですが、創価学会の現場ではそんな事お構いなしに、この選挙で宿命転換しようとか、成長しようなんてシュプレヒコールが相変わらず上げ続けています。果たしてそれで良いんですかね?
今の日本は国民が望むと望まないとに関わらず、大きな岐路に立たされています。故・安倍元総理が生前に言っていた「戦後レジュームからの脱却」ではありませんが、第二次世界大戦後の世界構造が大きく変化をしてきています。そしてその象徴的な出来事として、ロシアによるウクライナ侵攻というのが起きました。
しかし日本国内では、相変わらず太平洋戦争後の感覚のまま、国民は日々の生活を送っており、戦後のアメリカ軍の傘の下の安穏が、この先も続くような感覚で生活をしています。
これは日本の政治家の右左関係なく、あまりにもポピュリズムに即した言動や、二世三世議員ばかりが幅を効かせているという姿にも現れていますし、自称リベラルの政治家達の無分別で無自覚な言動にも見て取れます。
昨今、特にSNSを中心に、若者たちの幼稚な行動の動画が話題に登っていますが、私はこれについても、この戦後の日本の教育の結果として行き着いた社会の姿であり、けして表面的な「若者のモラル」というだけの問題では無いでしょう。
恐らくその根っこには、やはり日本としての歴史観の浅薄さや、言葉難しく言えば哲学性の無さがあるのではないでしょうか。
「止観第二に史記を引いて云く「周の末に被髪袒身礼度に依らざる者有り」弘決の第二に此の文を釈するに左伝を引いて曰く「初め平王の東に遷りしに伊川に髪を被にする者の野に於て祭るを見る、識者の曰く、百年に及ばじ其の礼先ず亡びぬ」と、爰に知んぬ徴前に顕れ災い後に致ることを、又阮藉が逸才なりしに蓬頭散帯す後に公卿の子孫皆之に教いて奴苟相辱しむる者を方に自然に達すと云い・節兢持する者を呼んで田舎と為す是を司馬氏の滅する相と為す[已上]。」
(立正安国論)
立正安国論の中で、日蓮は摩訶止観等の文献を引用し、社会の様相(特に礼節や善悪)が乱れてくる事は、その先にその国に禍が起こり、国が亡びる事を述べています。
昨今の若者の中でTiktokで上げられている動画の中では、どう見ても社会的のモラル的に許されない事が、「面白い」という事でアップされ、結果として炎上する事が度々起きていますが、こてとてやはり哲学的な脆弱性からモラルが崩壊している事により起きているのではないでしょうか。
私が二十歳から四半世紀に渡り、創価学会という宗教団体の組織活動に取り組んできたのは、こういった哲学性の無さによる社会のモラル崩壊を起こさない社会を築く事が出来るのではないかと信じて来たからです。しかしながら現実としては真逆で、創価学会の中で活動をする事で、社会に対する視点を失い、創価学会という「井戸の中」の視点しか得られず、結果として宗教団体の中の一部の特権階級の権益保護の為の活動が煽られ、結果として社会をより悪化させているという現実を理解した事から、創価学会の活動から離れたのです。
しかし今の日本には、こういった気付きを得る事の出来ない人達が百万単位で存在し、彼らが政治に白け切った人達を後目に、そんな人達の「捨て票」を搔き集め、自公政権を存続させています。そしてそれが結果として政治的なシラケを増長させていき、そこから更に社会の劣化を招いているのです。
今の日本は、本当にこのままで良いのでしょうか?
これは創価学会の活動家に対してではなく、今の国民に対して問いかけをしたい事なんです。