自燈明・法燈明の考察

変質する創価学会

 創価学会とは自称、日蓮仏法の正統継承し実践、世界に教えを広めていると言います。しかし近年になり、変質度合いが著しくなったと、私は個人的に感じています。その事から、その個人的な見解について、今回は書かせてもらいます。

 人生の一時期とはいえ、私も創価学会に加担していた時期もありますので、ここで私の個人的な見解を明かしておくことも、必要な事だと感じていますし、やはりこういう事も、書かないわけには行かないと思うのです。

◆近年の動きについて
 創価学会では、その中心者は言わずとしれた、池田大作氏でしたが、その人は会員の前に2010年5月を最後に、動く姿として現れていません。私もその後の同時中継の会合に幾度か参加をした事がありますが、過去のスピーチの動画ばかりを放映し、参加している人もその事に何ら違和感を感じる様子もなく、その過去の映像を喜び眺めています。
 私には青年部時代からの人脈等で学会本部に近い人も居ますので、この状況について確認をしたところ、以下の事であると聞きました。

・池田氏は複数回、脳疾患を患ってしまい、会話する事がままならない。
・学園祭の卒業式で肉声による挨拶があったが、呂律が回っておらず、長男の博正氏が「通訳」した。
・学会本部執行部の中には、池田氏が突然何を言い出すのか心配もあり、表に出さない事とした。

 この件について、創価学会側では正式なパブリックコメントを出しておらず、幹部は未だに口を揃えて「お元気な池田先生」と言い続け、中央の幹部も「池田先生にこの間お会いして云々」という人も居たりするので、未だに学会の活動家の中では「池田先生は弟子の戦いを、離れた場所からご覧になられているんだ」なんて信じていたりしますので、これはある意味で悲劇なのかもしれません。

 人間革命という小説が、過去には篠原善太郎という人の代筆であり、SGI記念提言は先日ネットでも話題になりましたが、創価学会の幹部から査問をかけられ、結果、PТSDとなり、それがきっかけで肺炎で死亡した友岡雅也氏でした。しかし今では代わりの執筆者が居るようです。
 先日まで聖教新聞に連載されていた「新・人間革命」は、全国に数名いる代筆者の持ち回りで書かれていたといいますから、御本人が居なくても、池田大作という名前の執筆活動が止むことはありません。その事からしても、末端組織の活動家幹部の人達は、未だに池田大作氏が元気に生きていると信じられているのでしょう。

◆教義改正について
 2014年には、原田会長が聖教新聞紙上で創価学会の教義改正について発表しました。当時の私は創価学会の活動からは離れて久しかったのですが、家族や知人の活動家幹部に連絡を取って聞いたところ、誰もが要を得ない回答ばかり。つまり誰もがこの教義の改正については理解すら出来ていない状況でした。
 この教義改正については、よく調べてみたら以下の事を言っていたんですね。

・大石寺にある大本尊は、受持の対象とはしない。
・日蓮直筆の本尊は、全てが事の本尊である。
・創価学会が本尊については認定する
・日蓮の出世の本懐は、大本尊ではなく民衆仏法の確立である
・日寛師の教学については、これから見直しをする

 もうこの内容について、昔から真面目に創価学会をやる人に取っては、どれも受け入れられるものではないのですが、近年の創価学会では選挙ばかりやっていて、教学については何ら基礎すら学んでも居ない人達が大半なので、末端組織では話題に取り上げられる事もありませんでした。
 この間、教学試験を創価学会がやってましたが、幾人かの壮年部の知人から私宛に連絡が入りました。その大半は「出世の本懐って変わったのか?」「大本尊は信じる対象ではなかったのか?」というもので、私はこの連絡を受けた知人には、2014年11月の聖教新聞に出ていたでは無いかと言うと、皆が「知らなかった」で終わってました。

 4年間も教義改正すら気づかない活動家幹部って、どうなんですね?

 この教義改正について、時の教学部長は創価学会の執行部に対して「諌曉書」を提出したのは、会内でも知られていない出来事でした。私なんかネットでの知り合いから資料を入手していたのて、知ってましたが、その内容は、教義の急展開に関する危険性、もっと議論をつくして慎重に進めるべきという、ある意味で、ごもっともなご意見でした。しかし創価学会の執行部は、その遠藤教学部長を解任し、勤務先の聖教新聞社も解雇、副会長という役職も解任して諌曉に報いました。これは創価学会として、教学は大事でも何でも無いという意思表示であり、その為でしょうか、近年では同時中継の会合に二回参加すれば、教授という肩書を貰えるようになったそうです。

 試しに私の地元の幹部で、そうやって教授の称号を得た人に、この間、一念三千について聞いたのですが「よく解らない」という事でした、

 私が若い頃には、教学は背骨であると先輩からよく言われ、御書も常に持ち歩き、教学についてはよく語らったものでした。またそういう基礎があればこそ、法華講や顕正会にも、色々な反論も出来たのですが、最近では選挙の事しか語れない人達が、大変多くなりましたね。そしてこの教学力の劣化から、様々な問題も発生しているのですが、それは次回に書きたいと思います。


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