そうです私がセ ッ ク ス ボ ラ ン テ ィ ア (SV) で す

セックスボランティアとは、障害者に同情して、タダでセックスしてあげる人のことではありません。

マスターベーションだね

2006-08-30 18:17:01 | 閑話休題
今日書いてる、この日記はまさにそうでしょう。
今日は自分のために書くので、自分ごととして考えるネタとして使えるかどうかも怪しいですが、よろしければ、どうぞお使いください。



さて、議論とはそもそもなんなのか。

「これは○○だと思う。」
「イヤイヤ、そんなのばかげてる△△だ。」
「証拠見せてみろ!証拠!」
「・・・・結局結論出ないね」

というような言葉遊びは議論ではない。
と思うよ。

自分の意見をどんどこ出すのは、本人にとってはカタルシスだし、いいと思う。事実それがマスターベーションなんだろうな。



それに付き合おうと考えるのは、本人の自由。

付き合う価値がある話ならとことん付き合う。

付き合わなかったり、付き合うのやめたりするにも理由があると思う。

ただ単に、自分に余裕が無いときや、自分がすでに過去においてきたことを繰り返し語るのはしんどいから、そういうのには付き合えない時だってある。

だから、やめたやめた、とテーブルひっくり返す人の気持ちもわかる。
(でも、何でもかんでも首突っ込んでひっくり返し続けるのもどうかな、と思うよ。と、自分の反省を込めて・・・。)


私の思う議論とは、

「これは○○だと思う。」
「なるほど、△△についてはこう思うがどうだろう。」
「○○にはこの点が問題となるが、ここをクリアすれば△△の利点ともあわせられるのではないか?」
「なるほどなるほど」
「じゃあこうするのは?」
「それもいいかも」
「でも、それはここが弱いよね」
「そうだね、どうしようか」
「あれ使ってみようか」
「なるほど・・・」

というようなものだと思っている。
つまりは、「じゃあこうしよう」って話し合った後に、行動がちゃんとある。


現実を見るとつらい事もいっぱいあるし、認めたくない事だって出てくる。

考えた通りにはうまくすすまないこともいっぱいある。

完全無欠の幸福人間はいない。
不便さや苦痛を持ってる人が集えば、たちどころに幸福になるパラダイスはここにはない。

足りないことや不便なことは、いつまでたっても、どこまで行ってもある。だからこそ、自分の弱いところも出して、現実を見て、手が足りないんだったら、手を貸して、その人の能力とか、障碍があるとか、そういうとこをうまく組み合わせてやっていけばいいのに、と思う。


不幸自慢はいらないよね。


私個人が、コンプレックス感じてることを話したとする。
でそのことについて
「何言ってんのよ、そんなのぜんぜんつらいことじゃないじゃない、私なんか、もっとツライのよ。こーであーで・・・・」
と言われても、その言葉は無意味でしょう。

だって、実際つらいんだもん。

でもね、それについて、
「そっか、つらいよね。本当の意味では100%わかることはできないけど、つらい気持ちを持ってるって事はわかるよ。」

そう言ってくれれば、楽になる。




そういう事を積み重ねていけば、次に進める。

これは確かに自分ではできない。でも、これがあればできるから、手を貸してもらおう。って思えるようになる。

「申し訳ない。ごめんなさい。」
ばっかりじゃなくて、
「ありがとう。嬉しい。」
に、いつの日かきっと、なると思う。

その前に、いっぱい問題を解決していかなきゃいけないけどね。

つらくて、あんまりすすまないときもある。

現実を受け入れるのって、本人しだいだから、かなりしんどい作業になる。

そういう時、結論の出ない議論じゃなくて、結果と次の行動が出る議論ができるとホッとする。




お、ちょっと抜けてきた。