オークランドは今日も雨。
いつになったら洗濯物は乾くのか・・・
昨日はジムで上半身を追い込んだ。
今日は下半身。
テーマは筋肥大。
ジムに行くのはすでに生活の一部のようなもの。
しかし、これだけ毎日通っていても「今日は行かんとこうかな~面倒やな~」と思うことがある。
今日はあえて休むのもいいか~とか、明日全身やればいいか~とか、何か自分に言い訳して休もうとする。
自分に言い訳するのは簡単だ。
理由はいくらでもあるからだ。
そこで本当に行かないか、無理やりでも行くかでその人の“明日”は違ってくると思う。
それはジムの場合では体つきという結果であらわれるが、本質はそうではない。
なにもジムだけのことではない。
仕事、勉強、遊び、好きなこと、嫌いなこと、人生のほとんどのことは自分で決めることが出来る。
自由とはそういうことだ。
しかしその自由、本当は義務や責任でがんじがらめな自由、時間という束縛の中の自由、そこでしか人は生きていけないのだ。
普段時間を意識しない人は、その時間は生まれた瞬間から減っていくばかりであることを理解していないだけである。
過ぎ行く時間を取り戻す手段は存在しない。
物理的時間の中で人は生きている。
自由というのはこわい。
人は太古の昔からそのこわさを理解してきたはずだ。
そこにあるルールを作ることでそのこわさから逃げてきた歴史が人の歴史でもある。
そのルールを破るものに対し、多くの人は神をも超える。
人を殺してはいけないというルールを破ったものを死刑という名のルールで殺す矛盾が生じるのだ。
たかがジムの話から発展しすぎた感もあるが、その小さな出来事の繰り返しを我々人は数千年繰り返してきた。
自由。
今日ジムへ行くも行かないも自由。
友達との約束を守るも守らないも自由。
仕事を辞めるも自由。
明日は朝早く起きてウォーキングしよう、でも眠いからやっぱやめよう、それも自由だ。
自分にうまく言い訳できる人はすればいい。
それも自由だ。
ただ、僕はしない。
正確には「しないようにこころがける」のだ。
地球には質量保存の法則や力の拮抗の法則というものがある。
個人の中にもそれは存在するのではないかと僕は思っている。
ラグビーのテリトリーのように、100%をお互いに分け合う。
それは足して100になるように、人生の嬉しいこと、楽しいこと、楽なことと、つらいこと、苦しいこと、面倒なこともまた足して100にしかならないのではないか。
そこでジムの話に戻るが、ジムに行くということ自体は面倒だし金もかかるし、しんどいし辛い。
しかしその後のサウナやシャワーは実に気持ちの良いものであることを僕は知っている。
目標の体に近づく確率も、家で寝転がってアブトロニクスを腹に巻いているよりはるかに高いことも知っている。
夏休みの宿題を7月中に終わらせることで、8月は真っ黒に日焼けして一日中外で遊ぶことが出来ることを知っている。
ラグビーおけるタックルは痛いし辛いし嫌なもの。
そこから逃げることもできる。
しかし逃げたらトライをとられる。
人に迷惑がかかる。
チームは負ける。
普段の心がけがラグビーのタックルにあらわれる。
そしてラグビーのタックルが普段の生活にあらわれる。
自分に言い訳しないで生きるというのはしんどいが、タックルで表現するその防御線を突破されることに不感症になったとき、自由という名の凶器は自己を傷つけるものにしかならないのだ。
今日もラグビー普及にご協力を!
クリックするもしないも自由!
でも、してくれたら嬉しいです→人気blogランキングへ
いつになったら洗濯物は乾くのか・・・
昨日はジムで上半身を追い込んだ。
今日は下半身。
テーマは筋肥大。
ジムに行くのはすでに生活の一部のようなもの。
しかし、これだけ毎日通っていても「今日は行かんとこうかな~面倒やな~」と思うことがある。
今日はあえて休むのもいいか~とか、明日全身やればいいか~とか、何か自分に言い訳して休もうとする。
自分に言い訳するのは簡単だ。
理由はいくらでもあるからだ。
そこで本当に行かないか、無理やりでも行くかでその人の“明日”は違ってくると思う。
それはジムの場合では体つきという結果であらわれるが、本質はそうではない。
なにもジムだけのことではない。
仕事、勉強、遊び、好きなこと、嫌いなこと、人生のほとんどのことは自分で決めることが出来る。
自由とはそういうことだ。
しかしその自由、本当は義務や責任でがんじがらめな自由、時間という束縛の中の自由、そこでしか人は生きていけないのだ。
普段時間を意識しない人は、その時間は生まれた瞬間から減っていくばかりであることを理解していないだけである。
過ぎ行く時間を取り戻す手段は存在しない。
物理的時間の中で人は生きている。
自由というのはこわい。
人は太古の昔からそのこわさを理解してきたはずだ。
そこにあるルールを作ることでそのこわさから逃げてきた歴史が人の歴史でもある。
そのルールを破るものに対し、多くの人は神をも超える。
人を殺してはいけないというルールを破ったものを死刑という名のルールで殺す矛盾が生じるのだ。
たかがジムの話から発展しすぎた感もあるが、その小さな出来事の繰り返しを我々人は数千年繰り返してきた。
自由。
今日ジムへ行くも行かないも自由。
友達との約束を守るも守らないも自由。
仕事を辞めるも自由。
明日は朝早く起きてウォーキングしよう、でも眠いからやっぱやめよう、それも自由だ。
自分にうまく言い訳できる人はすればいい。
それも自由だ。
ただ、僕はしない。
正確には「しないようにこころがける」のだ。
地球には質量保存の法則や力の拮抗の法則というものがある。
個人の中にもそれは存在するのではないかと僕は思っている。
ラグビーのテリトリーのように、100%をお互いに分け合う。
それは足して100になるように、人生の嬉しいこと、楽しいこと、楽なことと、つらいこと、苦しいこと、面倒なこともまた足して100にしかならないのではないか。
そこでジムの話に戻るが、ジムに行くということ自体は面倒だし金もかかるし、しんどいし辛い。
しかしその後のサウナやシャワーは実に気持ちの良いものであることを僕は知っている。
目標の体に近づく確率も、家で寝転がってアブトロニクスを腹に巻いているよりはるかに高いことも知っている。
夏休みの宿題を7月中に終わらせることで、8月は真っ黒に日焼けして一日中外で遊ぶことが出来ることを知っている。
ラグビーおけるタックルは痛いし辛いし嫌なもの。
そこから逃げることもできる。
しかし逃げたらトライをとられる。
人に迷惑がかかる。
チームは負ける。
普段の心がけがラグビーのタックルにあらわれる。
そしてラグビーのタックルが普段の生活にあらわれる。
自分に言い訳しないで生きるというのはしんどいが、タックルで表現するその防御線を突破されることに不感症になったとき、自由という名の凶器は自己を傷つけるものにしかならないのだ。
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