らいん屋☆親父の『しらしんけん』に『一寸ずり』

大分の人生修行中の五十路親父です。
先の見えた人生です。『しらしんけん』⇒一所懸命・『一寸ずり』⇒少しずつ前進する。

金嬉郎 

2008年11月25日 19時34分33秒 | 親父考
今日はいい天気でした。
食欲もあり、大分の旨い魚(たった500円)・とんかつをいただきました。



昨晩、テレビで金嬉郎の物語をやっていました。
あの事件は、親父が小学校4年生位だったと思います。
脳裏に結構焼きついている事件のひとつです。
今、考えるとあの当時は金の言う通りでした。
【これから書く文章は在日の方・被差別の方に失礼かもしれませんが、実際に当時、親父が言っていたり、感じたことですのでお許しください。】

親父の住んでいた所から5分位の所に朝鮮がありました。
バラックの建物でクズ屋(廃品回収業)が多かったです。
子供の頃、近所の田んぼで稲が刈られた後、野球をするのが親父の楽しみでした。
その田んぼに朝鮮人の子供たちが、たまに遊びに来るのです。
親父はヤンチャ坊主でしたから「朝鮮かえれ!朝鮮帰れ!」と言っていました。
親父は何でかは知らんけど、国立の付属小・中学校に行っていました。
その小学校が2年生のとき移転されました。
小・中学校の隣接する所に朝鮮と被差別があり
朝鮮学校(当時は親父、チョン校と呼んでいました。)もありました。
そのため、学校の帰り道はその地区を通らないよう、決まっていたと思います。
ただ、親父は言うことを聞かずにその地区を通って駅まで帰っていました。
中学になると、朝鮮学校の生徒と何回かもめた思い出もあります。
喧嘩になると、朝鮮語をしゃべるので訳わからなかったです。
もちろん、女子学生はチマ・チョゴリでした。

確かに差別はしていました。
子供の頃やっていたじゃんけんのゲームがありました。
はっきりと覚えていないんですが
グーは「ぐんかん・ぐんかん・ぐんかん」
パーは「ぱんつ・ぱんつ・ぱんつ」やったと思います。
ハッキリと覚えているのはチョキが「ちょうせん・パンツ・くさい」でした。
ひどいゲームをやっていたものです。

大人になってからは、行っていた焼肉屋はその地区のおばちゃんがやっている
旨くて安い店で手作りの「マッカリ」が大好物でした。
在日の友人はいっぱいいたし、色々教えてもらった先輩もいました。
友人の家でいただいた、とがらしの入ったおでんが旨かったです。
被差別にも友人はいっぱいいたし、親友もいました。

今、親父が大分へ来て「よそ者」という差別をたまに受けます。
日本人は人を差別することが好きな民族と言うか
自分は人と違うという分け方がしたいんやろうな。

親父もこれからも気をつけようと思います。