エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

「御覧なさい」(マルコ16:6)

2008-10-04 | マルコによる福音書
 あくまでも、女性が聴いたというのは、「ナザレのイエス」(マルコ16:6)でした。マルコがこれを、たんに女性だから特別な言い回しを使ったとするならば、あまりにも不用心だと言わざるをえません。イエスは、ナザレ出身です。たとえ産まれたのが、ルカの残すようにベツレヘムであったとしても、育ちはナザレです。このように地名で人物を特定しようとするケースは少なからずありましたから、ありふれた表現方法であったのも事実でしょう。しかし、このナザレが、次にはガリラヤとなって繰り返されます。
 ナザレのイエスは、もうここにはおられない。そのことを、イエスの弟子たちに伝えよ。御使いは、そのように命じます。御使いだから直接ペトロのところにでも言って話せばよいものを、どうして回りくどいことをするのでしょうか。
 また、「驚くことはない」(マルコ16:6)というのも、いわゆる「恐れるな」フレーズなのであり、このときの女性たちの心理を正確に言い当てています。「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜している」(マルコ16:6)とは、はたしてこの女性たちにだけ告げられた言葉なのでしょうか。これからイエスを求め、イエスに出会いたいと願う、救われねばならないすべての人に、投げかけられた言葉ではないでしょうか。「あの方は復活なさって、ここにはおられない」(マルコ16:6)と若者は言いました。明確に、復活したと語られます。この言葉は、かなり強烈な言葉なのだそうです。神により、「復活させられた」と示されるからです。「ここ」とはどこでしょう。墓です。闇であり死である墓の中に、主はおられないのです。主は、光の中、命の中におられる、ということです。同時に、追いかける私たちも、闇の中や死のほとりに何かを求めているようなところがあったのですが、そこに救いがあるわけではない、ということです。それと同時に、この墓を一度通らなければならない、ということも、隠されてはいません。「御覧なさい。お納めした場所である」(マルコ16:6)と、墓をよく見るように言うのです。罪の中に死んでいた自分の姿を覚えることなしに、神の命に触れることは、ありえないのです。
 この若者の言葉に、福音のエッセンスがこめられています。
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