エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

主の祈り

2016-10-24 | メッセージ
マタイ6:9-13


祈ることを教えてほしい、と弟子の一人が願ったところから説くのがルカの福音書。マタイでは、山上の説教の最中にただ置かれています。偽善者たちは人に見せるために祈りをするが、イエスの弟子たるものは、隠れたところにおられる神に祈れといいます。異邦人のようにただ幾度も繰り返し呼べばよいとは思わず、すべてご存じの神と人格的な交わりをせよともいいます。「だから」、このように祈るのだ、とマタイは説きます。

主の祈りは、クリスチャンならばきっと覚えるものでしょう。礼拝で声に出すこともあります。よく噛みしめてもいるでしょうし、黙想するということもあったでしょう。それでもなお、もう十分に味わいました、などとは言えず、常に新しく祈れるところが、また不思議でもあり、深い主の教えでもある、とお思いの方も多いことでしょう。

せっかくの機会です。祈りとは何であろうか、と考えてみます。それも、自分の貧しい経験や思い込みからでなく、福音書に書いてあることから。どうやらここでイエスが教えた祈り、あるいは祈りのモデルは、安っぽい願い事ではないようです。神さま、ああしてください、こうしてください、そんな自分の願望を叶えるためのものではないということです。

教会で、あるいは個人で、クリスチャンは祈ります。その祈りにいつもあるもので、この「主の祈り」にないものに気づきました。まず、主への賛美です。神よあなたは大いなる……そんなフレーズがありません。イエスの口から、そう祈れと教えるのも変ですが、こう祈れという中にないものを、クリスチャンはいつも祈っている、ということに、奇妙さを、私たちは感じているでしょうか。次に、主への感謝です。何々してくださりありがとうございます……という意味内容は、この「主の祈り」にはありません。「こう祈れ」というモデルの中に、賛美も感謝もないのです。

ここで、父親が社長である息子社員の立場で、食事をしながら、父親と交わり語る様子を想像してみることにします。「父さん、会社が順調でなによりです。社員の皆さんにもちゃんと給料が出せてますしね。いやあ、ぼくも失敗ばかりやっていますが、なんとか父さんや皆さんがカバーしてくれて、助かります。ライバル社に潰されないように、これからもがんばりますよ」

何も父親にお世辞を並べたり、常日頃からやたら「ありがとうございます」などとは言わないでしょう。まして、かしこまって、「父上、あなたさまは……」などと申し上げるようなこともしないでしょう。礼儀というものを無視するようなことはしませんが、もっと近しく語りかけることは自然なことではないでしょうか。

アバ父よ、と呼びかける交わりのできる関係があるのだ、とイエスは言わなかったでしょうか。私たちは、主の祈りを、霊的に高尚に解釈することばかりでよいのでしょうか。それも必要なことですが、「とうちゃん」という呼びかけであると、聖書から説かれることはなかったでしょうか。だのにいつもいつも私たちは、羽織袴で作法を守ろうと努め、能でも演じているかのように、祈るのが当然だと実践していないでしょうか。

「とうちゃん」と呼びかける祈りを、説き明かしてよいのではありませんか。そう祈って、よいのではありませんか。それが聖書の命じていることではなかったのですか。親しい交わりをし、イエス・キリストを通じて神との適切な関係の中に置かれたという救いの恵みに平安でいられるクリスチャンの祈りが、よそよそしいものである必要はないと思うのですが、如何でしょうか。つまり、あなたにとって、神とはどういうお方ですか、救いとはどういうものであったのですか、という問いかけです。そして、イエスとはあなたにとり、誰であったのか、ということです。
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