詩編34:12-19
「主を畏れること」を教えるというのがここのテーマです。それは主に聞き従ったところでのみ可能なのである、と言います。主から学ぶ、聖書から学ぶ。そうした表現を教会で用いることがありますが、私はどうも好きになれません。もちろん、学ぶことが悪いと言っているのではありませんが、主語を考えるとき、違和感を覚えるのです。
「学ぶ」の主語は私たち人間です。人間が主役でよいのか、と思うわけです。聖書は神からの問いかけであり、答えです。人は、それに応答するよう求められているだけです。この構造から外れてはならない、とどうしても私は考えてしまうのです。主は問います。「命を慕い/日々を愛して恵みにまみえる人」はここにいるのか、と。
結局「悪から離れ、善を行え。平和を求め、これを追え」とダビデが告げた恰好になっています。気がふれた真似をしてまでも、生き延びようとしたダビデは、攻略者と見られるかもしれません。が、主からの指示でそうした、という可能性もあります。主の計画の中でそれは導かれました。主の計画の中で実現に到ったのだ、と思うのです。
「正しき者」と「悪しき者」との対比はいかにも単純ですが、人間には分かりやすいはずです。その正と悪との境界はどこにあるかと言えば、主の方を向いているかどうか、神とつながっているかどうか、そこにあるのでしょう。これはイエス・キリストの現れの後は、キリストという道を通して神と出会っているかどうか、にかかっています。
もっと直接に神と結びついていたのが、ダビデ王です。なんだか羨ましい気がします。主が、その叫びをいつも聞いていてくださいます。主の目が、しっかりダビデに注がれています。叫べば、その苦難から救い出されます。この叫びは、どこから来るのでしょう。ここでダビデ自ら意識する形で明らかにされています。「心の打ち砕かれた者」故です。
「霊の砕かれた者」とも言い換えられていますが、神が軽んじることのないのが、この砕かれた魂なのでした。悔い改めた魂です。打ちのめされ、自力に絶望し、ただ神をのみ見上げ、神に従うしか道のない魂です。悔い改めて神に向き直ることが、私たちに必要です。あの「骨が一本も砕かれることはない」がここに続いていることも興味深いものです。