goo blog サービス終了のお知らせ 

エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

罵りと迫害と悪口

2025-03-16 | メッセージ
マタイ5:11-12 
 
「心の貧しい人々は幸いである」(5:3)に始まる八つの幸福へは、多くの人が言及しています。が、もうひとつ、九つ目がある、との見方もあります。そこへは、もうひとつ注目度が薄いようです。「私のために、人々があなたがたを罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いである」という箇所です。
 
確かにここも、原文ではそれまでの八つと同じように、冒頭に「幸いだ」から始まっているという共通点があります。でも、八つは皆、こういう人々、という言い方をしていますが、こちらは違います。そこで、普通この「幸い」は八つだとカウントされています。ここではまず「私のために」が目に入りますが、原語の語順は異なります。
 
まずは「人々が……罵り、迫害し……悪口を浴びせるとき」という部分が畳みかけられています。三つの動詞が並ぶのです。キリスト者には、こういうものが次々と押し寄せてくることがありました。いつでも、誰からもそうだったのか、それはよく分かりません。市民の中でも好意的な人はいたかもしれません。
 
しかし、ユダヤ教から異端視されていた信仰のため、ユダヤ人の信仰とは違う教えの中で生活していたとなると、風当たりが強かったのではないか、と思われます。ぬるま湯に浸かっていることはないか、私たち自身への戒めとしたいものです。逆にまた、「正統的キリスト教」の名の下に、私たちが攻撃する側に回っているかもしれないのです。
 
私たちこそが、別の解釈をする派を罵り、迫害し、悪口を浴びせているのではないか、自己吟味が必要です。それから「私のために」と付け加えられています。自らの悪がそこにあるのなら、罵られても悪口を叩かれても、仕方がないでしょう。だから私たちにとり、「イエスのために」であることが肝要です。ここを弁えなくてはなりません。
 
これに続いて、「喜びなさい。大いに喜びなさい」とイエスが言います。「大いに喜ぶ」という一語は、並々ならぬ喜びを表します。ここの他には、ペトロの手紙一にまとまって二度使われるだけの語です。天における報いをイエスの口は約束してくれています。私たちがその約束を信用することにより、イエスの言葉がこの身に命となって及びます。
 
それには理由が加えられています。かつての預言者たちへも、迫害の手が及んでいたからだ、と言うのです。ということは、その預言者たちには、神が豊かな報いを与えている、ということになります。預言者たちの歴史には、悲惨な伝説もあり、不遇なようにも見えることがありますが、神はそこに幸せを与え、彼らは幸せに落ち着いていたと言うのです。




私のために、人々があなたがたを罵り、迫害し、
ありもしないことで悪口を浴びせるとき、
あなたがたは幸いである。(マタイ5:11)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 恵みの座に近づこう | トップ | 罪の告白と神の赦し »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

メッセージ」カテゴリの最新記事