使徒10:1-8
コルネリウスについて、かなり詳しい情報が提供されています。カイサリアという地名はまだしも、イタリア大隊の百人隊長という身分も記されています。私の想像に過ぎませんが、イタリア隊という名は、ローマの帝国軍人というよりは、外人部隊ではなかったでしょうか。百人隊長は中間職で、戦闘時は危険性の高い役割であるような気がします。
明日の命の保証がないような立場ですから、神への信仰が芽生えたのかもしれません。ユダヤの生まれではなくても、イスラエルの神を信じ求める人は、それなりに尊重されました。このコルネリウスへ、神の天使が現れて声をかけます。午後三時は「祈りの時間」(3:1)です。「絶えず神に祈っていた」とのことなので、信仰があったと思われます。
しかしユダヤ人とまでは言えません。異邦人だとこの後も見なされているからです。もしかすると、信仰とまでは言えなかった可能性もありますが、敬っていた点は否定できません。ここでは「祈っていた」というのですから、並大抵のものではないと思うのです。「一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし」ていたのはなかなかのものです。
神は、異邦世界への福音伝道の発端を、この隊長とペトロとの出会いから演出しました。天使は「コルネリウス」とその名を呼びます。天使の姿は「幻」であったというのですが、「はっきりと見た」とも言われています。コルネリウスは怖くなりました。主や天使はこういうとき、よく「恐れることはない」とまず告げるものですが、ここにはありません。
ただ「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた」というところから語りました。これに続けて、ペトロのことを教えます。驚きの中のコルネリウスとしては、神に覚えられている、という知らせが心に響いていたのではないでしょうか。心強かったと思うのです。天使は「立ち去る」のでした。消えたり、空を飛んだりしたのではありませんでした。
どうやら「天使」とは、至って普通の人の姿で現れるものなのではないでしょうか。コルネリウスは聞いた情報に対応して、すぐさま行動を開始しました。「恐れるな」と言われる前に、自ら行動へと移したことになります。確かに経験で、神に祈っていただけのことはあると言えるでしょう。異邦人の草分けとして、相応しい人物であったと思います。
敬虔な人で、一家そろって神を畏れ、
民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。(使徒10:2)
コルネリウスについて、かなり詳しい情報が提供されています。カイサリアという地名はまだしも、イタリア大隊の百人隊長という身分も記されています。私の想像に過ぎませんが、イタリア隊という名は、ローマの帝国軍人というよりは、外人部隊ではなかったでしょうか。百人隊長は中間職で、戦闘時は危険性の高い役割であるような気がします。
明日の命の保証がないような立場ですから、神への信仰が芽生えたのかもしれません。ユダヤの生まれではなくても、イスラエルの神を信じ求める人は、それなりに尊重されました。このコルネリウスへ、神の天使が現れて声をかけます。午後三時は「祈りの時間」(3:1)です。「絶えず神に祈っていた」とのことなので、信仰があったと思われます。
しかしユダヤ人とまでは言えません。異邦人だとこの後も見なされているからです。もしかすると、信仰とまでは言えなかった可能性もありますが、敬っていた点は否定できません。ここでは「祈っていた」というのですから、並大抵のものではないと思うのです。「一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし」ていたのはなかなかのものです。
神は、異邦世界への福音伝道の発端を、この隊長とペトロとの出会いから演出しました。天使は「コルネリウス」とその名を呼びます。天使の姿は「幻」であったというのですが、「はっきりと見た」とも言われています。コルネリウスは怖くなりました。主や天使はこういうとき、よく「恐れることはない」とまず告げるものですが、ここにはありません。
ただ「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた」というところから語りました。これに続けて、ペトロのことを教えます。驚きの中のコルネリウスとしては、神に覚えられている、という知らせが心に響いていたのではないでしょうか。心強かったと思うのです。天使は「立ち去る」のでした。消えたり、空を飛んだりしたのではありませんでした。
どうやら「天使」とは、至って普通の人の姿で現れるものなのではないでしょうか。コルネリウスは聞いた情報に対応して、すぐさま行動を開始しました。「恐れるな」と言われる前に、自ら行動へと移したことになります。確かに経験で、神に祈っていただけのことはあると言えるでしょう。異邦人の草分けとして、相応しい人物であったと思います。
敬虔な人で、一家そろって神を畏れ、
民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。(使徒10:2)