【夏休み特別企画】本日から3週間ほど、小説「ギデオン」をお届けします。
「アビメレク? さあ。聞いたこともないな」
大柄なその男は、地元カナン産の上等なぶどう酒を豪快に呷った。
「この一帯を、むりやり支配したつもりになっている、身の程知らずの新参者なんですよ。それがまた、自分では何もできないくせに、他人をうまく巻き込んで、指図を下すだけ何です。それで自分の兄弟七十人を殺して、父親の築いた地位を自分一人のものにしてしまったんですから」
「なんだと?」と大男は杯を止め、鋭い眼差しを酒宴の主に向けた。「自分の兄弟七十人を殺した?」
「そうなんです」
「そんなひどいことをしたのか、そのアビメレクという男は。……許せん」
ガアルは立ち上がり、横のよく似た男の肩に手を当てて叫んだ。
「おれは、この弟アランをはじめ、自分の血のつながった兄弟はおろか、おれに忠誠を誓った仲間のことを、けっして裏切りはしない。神に与えられた血族を粗末にする人間は、必ず天罰が下ると教えられているし、実際その通りだ。そのアビメレクとかいう男は、人間として最低の奴だ。くずだ。カスだ。目の前にもしも今そいつがいたら、おれは即座に叩き殺してやるところだ」
「私どもも、そうしたいところでございます」とシケムの指導者の一人が、うなずきながら答えた。「そこでとりあえず、このシケムの町にアビメレクが入ってくることができないように、町の周囲の山々に、関所を設けました。ご存知の通り、この町は盆地にあります。敵は山を越えて侵入しなければなりません。しかし、山の頂に見張りを常備すれば、敵が来たときにすぐ発見できるというわけです」
「うむ。分かる。おれもここを通りかかるとき、危うくその関所で痛めつけられるところだった」とガアルは髭を撫でながら言った。「それにしても、その関所で待ち伏せる者たちは、言ってはなんだが、なかなかの猛者たちだったな」
「いえいえ。ガアル様には敵いません。ほんと、見ればすぐに分かります。ミディアン人を一網打尽にしたという先ほどの話だけでも、それが分かります」
「なあに、あのときは運も味方したがな。強い雨が、奴らのらくだの足下をすっかり乱してしまってな」
「運もまた、戦いには必要なことでございます」
ガアルとその一行は、数十人の、いかにも野蛮そうな男たちだった。ときに盗賊のように、ときに英雄のように振る舞いながら、広い地域に名を馳せていた。このたび、このカナンの地の中央のシケムの町の近くをたまたま通りかかったところ、シケムの見張りの目に留まり、さっそく指導者のもとに導かれたというわけだ。アビメレクという難敵に対する戦い手として、有用と見なされたのである。
「だがおれは、奴隷の出身だ。そんなおれは、これまでどの町に顔を見せても煙たがられてきた。山賊として追い払われたこともある」
「なんという失敬な。わがシケムは、そのような野蛮な仕打ちはいたしません。ただ、できればこの町のために、一肌脱いでいただければ、と……」
「ということはつまり、そのアビメレクという男を仕留めればよいのだな。なんの、たやすいことだ」
「ガアル様なら、難なくできますことでしょう」
「アビメレクが何者だというのか。兄弟殺しの、のぼせ上がり者ではないか。伝統あるシケムの町が、そのような男に制圧されてはならんだろう。シケムといえば、昔ハモルが築いた由緒ある町。その子シケムの名を取って、町の名としたのではなかったか。どうしてアビメレクとかいうやくざに支配されてなるものか」
シケムの長老たちは、その様子を黙って見つめていた。
シケムには、シケムの事情がある。
このシケムの町は、イスラエルの民が侵入してきて以来、すっかり変わってしまった。
古くからこの地域に暮らす住民には、旧来の伝統的な生活があった。海外から豊富な原材料がもたらされるのを利用して、さまざまな工芸品が発達した。美しい幾何学模様の器や、エジプトの紅玉を使った装飾品は、目を見張るものがあった。ブロンズ製のバアル神像はいたるところに祀られ、大地の恵みを求める人々の願いを集めていた。
だが、イスラエルとかいう民族がヨルダン川を越えて襲い、勝手に町を築き始めたころから、様子がおかしくなった。この地でヨシュアというリーダーがイスラエル民族の結束を図る集会を開き、この町は犯罪者をかくまう町として定められた。イスラエル民族は、小さなグループごとに別々の土地で別々の自治を展開し、ときおり全体に影響を与える指導者が登場していたが、三年前にアビメレクという男がシケムの支配者だと勝手に宣言してきた。その父親ギデオンは、略奪を繰り返すミディアン人たちをこの地域から追い払うという、シケムのカナン人にとっても悪くない仕事をしてくれたが、その息子たるアビメレクは期待を裏切った。いや、ここシケムでは、カナン出身のイスラエル人ということで、カナンの住民は最初彼を歓迎した。アビメレクは、ここシケムに住む女がギデオンに見いだされ、宿した子どもであって、立派なシケム町民なのだった。シケムでは彼を讚え、王位に即くことを歓迎した。だが、生まれながらにして指導者の子という立場にあったアビメレクには、父親のような謙遜さがなかった。このカナンの地で盛大な戴冠式をしたものの、すぐに思い上がって、自分の思いつくままの税や兵役を要求し、カナン人の誇りを踏みにじる真似をした。
さて、宴席ですっかりいい気分になったガアルたちだったが、もう身も心もカナン人になりきった様子であった。
「アビメレクはもともとこのカナン人だというのか。違うだろう。そいつはやはりイスラエル人だ。カナンの血は混じっているかもしれないが、そんな同胞意識は一切捨ててしまったほうがいい。戦いに情けは無用だ。アビメレクは敵だ。敵だ、敵だ」
「さっそく、ガアル様の力を思う存分発揮させてくださいませ」
「よし」とガアルはうなずくと、側の有力者に小声で告げた。「このシケムには、軍隊はどのくらいあるか。明日、明後日にでも軍を増強して用意するがいい。おれが指揮を執り、例のアビメレクとかいう奴の息の根を止めに、出かけるとしよう」
「ぶどう酒をさらにもってくるように!」とホストが叫んだ。「今夜はこのガアル様に、とことん飲んでいただきなさい。まちがってもエジプトのビールなどを出してはいけない。ぶどう酒だ。シケム名産の、上等のぶどう酒だ」
酒宴はその晩、いつまでも続いた。シケムの長老たちは、このガアルという風来坊の顔を、表向きは微笑みながらも、運命を任せるに値する男かどうか、鋭い目つきでにらんでいた。
翌日早く、シケムの長老たちは、顔を付き合わせて相談した。
「あのガアルという男の腕は確かなのか」
「確かだ。ミディアン人を追い払ったのは、シケムの複数の人間が目撃している」
「関所であのヘマンがねじふせられたというのはほんとうなんだな」
「ほんとうだ。ヘマン自身、そう言っている」
「ヘマンの怪力が通じないという話は、たしかにこの町では聞いたことがないが……」
「つまり、今シケムにいる人間の中では、ガアルが一番強いことはまちがいがない……」
「まちがいがない」
「奴隷の生まれだというのが気になるが」
「気にする必要はない。かえって、知恵が足らない分、その馬鹿力を利用することができるかもしれない。へたに賢い男だと、後に権力を狙ってくる可能性がある」
シケムの町に、緊張感が漂い始めた。いつ、どんな形でアビメレクに対する反乱の炎が燃え上がるか、誰にも予想はつかなかった。さしあたり、アビメレクを倒しに出陣するというのではない。アビメレクがこの町に攻めてきたおりには、この町をアビメレクから守り通そうというものである。
「だが、あのゼブルがどう出るか、が問題だな」
一人が呟くように言うと、数人の輪の中に、張りつめた空気が漂った。
「ゼブルか……」
「当然、このガアルのことは、近い将来必ずゼブルの耳に入ることになる」
「アビメレクに通知されると、まずいのではないか」
「いやいや」と、一番風格のある長老が低い声で落ち着いて言った。「知らせることはできんだろう。いくらアビメレクが遣わした長官だとはいえ、このシケムの中で暮らすゼブルだ。おいそれと伝令を出させるようなへまは、われわれはなすまいて」
「包囲網は完璧ですからね」
「そうだ。それより、今日中に常備軍はおろか、一般の中からも勇士を募って、明日にでもアビメレクへの攻撃をかけていったほうがいい。アビメレクのほうでもどこからか聞きつけて、軍を増強しないともかぎらない」
「善は急げだ」 (続く)
「アビメレク? さあ。聞いたこともないな」
大柄なその男は、地元カナン産の上等なぶどう酒を豪快に呷った。
「この一帯を、むりやり支配したつもりになっている、身の程知らずの新参者なんですよ。それがまた、自分では何もできないくせに、他人をうまく巻き込んで、指図を下すだけ何です。それで自分の兄弟七十人を殺して、父親の築いた地位を自分一人のものにしてしまったんですから」
「なんだと?」と大男は杯を止め、鋭い眼差しを酒宴の主に向けた。「自分の兄弟七十人を殺した?」
「そうなんです」
「そんなひどいことをしたのか、そのアビメレクという男は。……許せん」
ガアルは立ち上がり、横のよく似た男の肩に手を当てて叫んだ。
「おれは、この弟アランをはじめ、自分の血のつながった兄弟はおろか、おれに忠誠を誓った仲間のことを、けっして裏切りはしない。神に与えられた血族を粗末にする人間は、必ず天罰が下ると教えられているし、実際その通りだ。そのアビメレクとかいう男は、人間として最低の奴だ。くずだ。カスだ。目の前にもしも今そいつがいたら、おれは即座に叩き殺してやるところだ」
「私どもも、そうしたいところでございます」とシケムの指導者の一人が、うなずきながら答えた。「そこでとりあえず、このシケムの町にアビメレクが入ってくることができないように、町の周囲の山々に、関所を設けました。ご存知の通り、この町は盆地にあります。敵は山を越えて侵入しなければなりません。しかし、山の頂に見張りを常備すれば、敵が来たときにすぐ発見できるというわけです」
「うむ。分かる。おれもここを通りかかるとき、危うくその関所で痛めつけられるところだった」とガアルは髭を撫でながら言った。「それにしても、その関所で待ち伏せる者たちは、言ってはなんだが、なかなかの猛者たちだったな」
「いえいえ。ガアル様には敵いません。ほんと、見ればすぐに分かります。ミディアン人を一網打尽にしたという先ほどの話だけでも、それが分かります」
「なあに、あのときは運も味方したがな。強い雨が、奴らのらくだの足下をすっかり乱してしまってな」
「運もまた、戦いには必要なことでございます」
ガアルとその一行は、数十人の、いかにも野蛮そうな男たちだった。ときに盗賊のように、ときに英雄のように振る舞いながら、広い地域に名を馳せていた。このたび、このカナンの地の中央のシケムの町の近くをたまたま通りかかったところ、シケムの見張りの目に留まり、さっそく指導者のもとに導かれたというわけだ。アビメレクという難敵に対する戦い手として、有用と見なされたのである。
「だがおれは、奴隷の出身だ。そんなおれは、これまでどの町に顔を見せても煙たがられてきた。山賊として追い払われたこともある」
「なんという失敬な。わがシケムは、そのような野蛮な仕打ちはいたしません。ただ、できればこの町のために、一肌脱いでいただければ、と……」
「ということはつまり、そのアビメレクという男を仕留めればよいのだな。なんの、たやすいことだ」
「ガアル様なら、難なくできますことでしょう」
「アビメレクが何者だというのか。兄弟殺しの、のぼせ上がり者ではないか。伝統あるシケムの町が、そのような男に制圧されてはならんだろう。シケムといえば、昔ハモルが築いた由緒ある町。その子シケムの名を取って、町の名としたのではなかったか。どうしてアビメレクとかいうやくざに支配されてなるものか」
シケムの長老たちは、その様子を黙って見つめていた。
シケムには、シケムの事情がある。
このシケムの町は、イスラエルの民が侵入してきて以来、すっかり変わってしまった。
古くからこの地域に暮らす住民には、旧来の伝統的な生活があった。海外から豊富な原材料がもたらされるのを利用して、さまざまな工芸品が発達した。美しい幾何学模様の器や、エジプトの紅玉を使った装飾品は、目を見張るものがあった。ブロンズ製のバアル神像はいたるところに祀られ、大地の恵みを求める人々の願いを集めていた。
だが、イスラエルとかいう民族がヨルダン川を越えて襲い、勝手に町を築き始めたころから、様子がおかしくなった。この地でヨシュアというリーダーがイスラエル民族の結束を図る集会を開き、この町は犯罪者をかくまう町として定められた。イスラエル民族は、小さなグループごとに別々の土地で別々の自治を展開し、ときおり全体に影響を与える指導者が登場していたが、三年前にアビメレクという男がシケムの支配者だと勝手に宣言してきた。その父親ギデオンは、略奪を繰り返すミディアン人たちをこの地域から追い払うという、シケムのカナン人にとっても悪くない仕事をしてくれたが、その息子たるアビメレクは期待を裏切った。いや、ここシケムでは、カナン出身のイスラエル人ということで、カナンの住民は最初彼を歓迎した。アビメレクは、ここシケムに住む女がギデオンに見いだされ、宿した子どもであって、立派なシケム町民なのだった。シケムでは彼を讚え、王位に即くことを歓迎した。だが、生まれながらにして指導者の子という立場にあったアビメレクには、父親のような謙遜さがなかった。このカナンの地で盛大な戴冠式をしたものの、すぐに思い上がって、自分の思いつくままの税や兵役を要求し、カナン人の誇りを踏みにじる真似をした。
さて、宴席ですっかりいい気分になったガアルたちだったが、もう身も心もカナン人になりきった様子であった。
「アビメレクはもともとこのカナン人だというのか。違うだろう。そいつはやはりイスラエル人だ。カナンの血は混じっているかもしれないが、そんな同胞意識は一切捨ててしまったほうがいい。戦いに情けは無用だ。アビメレクは敵だ。敵だ、敵だ」
「さっそく、ガアル様の力を思う存分発揮させてくださいませ」
「よし」とガアルはうなずくと、側の有力者に小声で告げた。「このシケムには、軍隊はどのくらいあるか。明日、明後日にでも軍を増強して用意するがいい。おれが指揮を執り、例のアビメレクとかいう奴の息の根を止めに、出かけるとしよう」
「ぶどう酒をさらにもってくるように!」とホストが叫んだ。「今夜はこのガアル様に、とことん飲んでいただきなさい。まちがってもエジプトのビールなどを出してはいけない。ぶどう酒だ。シケム名産の、上等のぶどう酒だ」
酒宴はその晩、いつまでも続いた。シケムの長老たちは、このガアルという風来坊の顔を、表向きは微笑みながらも、運命を任せるに値する男かどうか、鋭い目つきでにらんでいた。
翌日早く、シケムの長老たちは、顔を付き合わせて相談した。
「あのガアルという男の腕は確かなのか」
「確かだ。ミディアン人を追い払ったのは、シケムの複数の人間が目撃している」
「関所であのヘマンがねじふせられたというのはほんとうなんだな」
「ほんとうだ。ヘマン自身、そう言っている」
「ヘマンの怪力が通じないという話は、たしかにこの町では聞いたことがないが……」
「つまり、今シケムにいる人間の中では、ガアルが一番強いことはまちがいがない……」
「まちがいがない」
「奴隷の生まれだというのが気になるが」
「気にする必要はない。かえって、知恵が足らない分、その馬鹿力を利用することができるかもしれない。へたに賢い男だと、後に権力を狙ってくる可能性がある」
シケムの町に、緊張感が漂い始めた。いつ、どんな形でアビメレクに対する反乱の炎が燃え上がるか、誰にも予想はつかなかった。さしあたり、アビメレクを倒しに出陣するというのではない。アビメレクがこの町に攻めてきたおりには、この町をアビメレクから守り通そうというものである。
「だが、あのゼブルがどう出るか、が問題だな」
一人が呟くように言うと、数人の輪の中に、張りつめた空気が漂った。
「ゼブルか……」
「当然、このガアルのことは、近い将来必ずゼブルの耳に入ることになる」
「アビメレクに通知されると、まずいのではないか」
「いやいや」と、一番風格のある長老が低い声で落ち着いて言った。「知らせることはできんだろう。いくらアビメレクが遣わした長官だとはいえ、このシケムの中で暮らすゼブルだ。おいそれと伝令を出させるようなへまは、われわれはなすまいて」
「包囲網は完璧ですからね」
「そうだ。それより、今日中に常備軍はおろか、一般の中からも勇士を募って、明日にでもアビメレクへの攻撃をかけていったほうがいい。アビメレクのほうでもどこからか聞きつけて、軍を増強しないともかぎらない」
「善は急げだ」 (続く)