エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

私が苦しめたのだ

2024-04-30 | メッセージ

イザヤ53:4-8 
 
苦難の僕の歌の一部から聴きます。人々に見捨てられたその人は、私たちの病を担い、痛みを負いました。「私たち」と「人々」とは別人なのでしょうか。「私たち」の中に「私」がいるのだとしたら、ここではいま「私」に限定した形で味わってみたいと思います。私がこの人を軽蔑し、見捨てたのです。
 
しかし私の病と痛み、あるいは悲しみを、この人は背負いました。私はこの人が勝手に神に打たれて病に冒されたのだ、と見下ろしています。何故この人が刺し貫かれたのでしょう。私が背いたからです。私が過ちを犯したからです。それでこの人が打ち砕かれました。しかも、それだけ懲らしめをこの人が受けたからこそ、私は平安を受けました。
 
この人の傷が、私を癒やしました。なんという不条理な構図でしょうか。このような「私」が、もしも世の中の人物Aであったら、私は、そして「私たち」と称する世間一般の人々も、一斉に激しくAを糾弾したことでしょう。ダビデが、自分の羊を惜しみ貧しい者の者の大切な羊を奪った男を、そいつは死刑だと叫んだように。
 
しかし預言者ナタンはダビデに、「それはあなただ」と指さしました。ダビデはそのとき初めて、自己認識をしたのです。この酷い仕打ちを行っていたのは、まさに自分だという姿を見たのです。これを知ったとき、ダビデは悔います。あの悔恨の詩の中に、その心情がはっきり現れています。私もまた、その心情を我が事として覚ります。
 
私はさまよい、滅びの道を転がっていました。その過ちのすべてを、主はこの人に負わせました。この人を私が虐げ、苦しめました。痛めつけた者は、あくまでも主語は「私」でなければなりません。しかし、この人は抵抗をしません。この人は「私」というものを主張しません。屠り場に曳かれていく小羊と同じでした。
 
私が不法に裁きました。私が、この人を殺しました。このことに気づくのに、私は長い時間がかかりましたが、気づかなかったのは、必ずしも私一人ではありません。凡そ人間は、誰も皆、当初は分からなかったのです。苦難の僕の歌の、ごく一部だけを取り上げても、いまここに見れば、痛恨の極みを覚えることができます。それが、救いへの道なのです。


彼は私たちの背きのために刺し貫かれ
私たちの過ちのために打ち砕かれた。
彼が受けた懲らしめによって
私たちに平安が与えられ
彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。(イザヤ53:5)

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呼びかけよとの声

2024-04-28 | メッセージ

イザヤ40:9-11 
 
「慰めよ、私の民を」と、40章はそれまでの様相を変えて、イザヤの名で新しいメッセージをもたらします。この民に呼びかけよ。主の言葉が飛びます。誰が誰に向けて呼びかけるのでしょうか。主がまず、預言者に呼びかけています。それから、預言者がイスラエルの民に向けて呼びかけています。神の言葉はこうして私たちに届きます。
 
神の言葉はとこしえに立つ、そんな有名な言葉が聞かれる中、この「高い山に登れ」と、あまり注目されない呼びかけであったかもしれません。これは、イザヤ自身が聞いたものであるのでしょう。さあ、この知らせをエルサレムに、ユダへ、告げ知らせるのだ。そう主から受けたのです。この神を見よ、あなたがたの神だ。
 
主が統べ治めるから、安心するがいい。主が報われる。このニュースを高い山に登って語るというのは、イエスが灯りを隠すことができぬ山の上の町に比したこと(マタイ5:14)を思い起こさせますが、現代風に言うならば、東京スカイツリーのような電波塔を想定してもよいのではないでしょうか。全地へ発信する力をもつ塔です。
 
すると、その電波を受信する受信機が必要になります。この知らせを受ける側に、一定の装置と準備が求められます。誰へ向けても、メッセージは伝えられているものの、それを受け取る側のあり方が求められるのです。この主は、あなたがたを懐に抱くでしょう。イスラエルを小羊として抱きしめ、乳を出す母の前へ連れて行くことでしょう。
 
神の民は、羊飼いなる主が飼う者たちです。そして神の証印が与えられています。聖霊という証印です。だから、主の目から見落とされるはずがありません。一人ひとり名を呼ぶ羊飼いの愛情によって、守られています。こうして、主は一人ひとりに呼びかけています。この呼びかけは、集団ではなく、一人ひとりの魂に響くようになります。
 
いまや、聖書は個人の手に渡りました。預言者の声は文字となり、文字からその声が聞こえてくるようになりました。この文字は、人を殺す文字ではありません。人を生かす主の言葉です。神の言葉となった語りは、神を礼拝する場に響き、救われる一人ひとりの魂に呼びかけます。私たちはそれを主日毎に受け、それに応えて歩むのです。


高い山に登れ
シオンに良い知らせを伝える者よ。
力の限り声を上げよ
エルサレムに良い知らせを伝える者よ。
声を上げよ、恐れるな。
ユダの各地の町に言え。
「見よ、あなたがたの神を。」(イザヤ40:9)

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人と神との織りなす歴史

2024-04-26 | メッセージ

詩編78:12-31 
 
「しかし、彼らは」神に背を向けました。そもそもイスラエルは、神に導かれ、恵みを受けて来たのです。ここには出エジプトの歴史から語られます。詩人は歴史を丁寧に辿り、如何に神が民を愛しく導いてきたかを描きますが、人々は神に逆らいます。神に背きます。つまり、それを「罪」と呼ぶのが、聖書の聖書らしいスタンスでありました。
 
「しかし、神は」がこれに応答されてきます。こういうふうに逆らわれながらも、神はまた、イスラエルを愛します。まずは赦しから入るのですが、その赦しを逆手に、人々は図に乗るため、神も憤りを表わすことがありましたが、「しかし、神は」恵みを注ぎます。それがあってなお、「しかし、彼らは」また不平を言い、逆らいます。
 
この繰り返しが、神とイスラエルとの歴史でした。そのうちの一部だけをここでは拾っています。エジプトを脱出できたのも、神の業。しかし、彼らは「己の欲のために食べ物を求め、心の内に神を試み」たのでした。神がこの荒れ野で食べ物を与えることが、どうしてできようか。水は岩から出たからしれないが、パンと肉はどうするのか。
 
彼らはこう言って逆らいました。神を信じません。神の救いを頼みとしません。このことに、神は憤りました。しかし、神はマナを天から降らせて与えます。神が恵むパンです。人々は満ち足りました。うずらの肉をも与えました。人々はさらに満ち足りました。人間の欲望を、神は十分に満足させてやりました。特に諫めはしませんでした。
 
だが、神の怒りは、その肉がまだ彼らの歯の間にある内に、燃え上がります。彼らは災いに打たれました(民数記11章)。詩人アサフは、この災いに打たれたのは若者たちである、と解して記しています。民数記のほうの記録では、その点は不明です。こうした主の罰にも拘わらず、彼らは神に逆らいます。が、神に従おうとする動きもありました。
 
人と神との織りなす歴史劇は、幾度も対立し、そしてまたその都度和解することを繰り返します。やがてこの詩は、ダビデに至ります。そこでひとまず落ち着いたようにも見えます。けれども、実はこのダビデからの歴史こそが、実は荒れ狂うものでした。歴史はまだ大団円とはなりません。やがてイエスが現れ、そして今に至っているのです。


しかし、神は上から雲に命じて
天の扉を開き
彼らの上にマナを降らせて食べさせ
天の穀物を彼らに与えた。(詩編78:23-24)

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主を忘れないように

2024-04-24 | メッセージ

申命記8:11-20 
 
主を忘れることがないように。これが主眼です。「戒めと法と掟とを守りなさい」ばかりが目に入ってくるかもしれません。神に従え、という矢が降ってくるのを覚える心理もあるでしょう。でも、主を忘れてはいけない、ここが中心です。今の自分たちの生き方が、どうして支えられているのか、考えてみるように。申命記が誘うままに動きましょう。
 
確かに「炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広大で恐ろしい荒れ野を進ませ」たのは主でした。しかし主は、「あなたのために硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖も知らなかったマナを、荒れ野で食べさせてくださった」のでした。つまりこれは、主が「あなたを苦しめ、試みても、最後には、あなたを幸せにするため」だったのです。
 
今日のあなたの姿は、主によるのです。でも、人は思い違いをします。この成果は、自分の地位や財産は、自分の手で得たものだ、と思うようになります。これをキリスト教世界では「自分に栄光を帰す」と言います。神など不要だ、という原理を立ててしまいやすいのです。自分の力を誇るとき、人は神を忘れます。だから言います。主を思い起こせ。
 
主がエジプトから導き出し、私に力を与えてくださったのです。その故に今の生活があります。力のある者、生活に困らない者が、主からその心が遠ざかりやすいのです。貧しい者、自分一人ではまともに生きてゆけない者のほうが、間違いなく主を頼るでしょう。主を忘れるなどということは、その人にはありえないことでしょう。
 
主を忘れた者はどうなるでしょう。自分を神とするのだ、と見る人もいるでしょう。が、えてして他の神々に従ってしまうものです。自分を神としていると見なされると傲慢のレッテルを貼られます。それで、何かを崇めているようなポーズをとるのです。これは、聖書が告げる滅びの道にほかなりません。この警告は、今なお生きています。


あなたの神、主を忘れないようにあなたは注意し、
今日あなたに命じる戒めと法と掟とを守りなさい。(申命記8:11)

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主は苦しめ、そして導く

2024-04-22 | メッセージ

申命記8:1-10 
 
主は「あなたを苦しめ、試み」たそうです。それから、主は「あなたを苦しめ、飢えさせ」たといいます。なにげない一言を見逃さないようにしましょう。これがあるからこそ、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」という命題が告げられ、私たちの目の前に突き出されたのです。
 
イエスが荒野で悪魔により攻撃されたとき、この言葉を以て退かせたというとき、主が「あなたを苦しめ」た、ということを踏まえていることを覚えておきたいものです。それは、確かに人の不平の呟きによりもたらされた仕打ちであったかもしれません。けれどもよく見れば、すべて神がイニシアチブをとってそのようになっていることが分かります。
 
「主の口から出るすべての言葉」が導いています。これに対して、「ああエジプトがよかった」などと、民が本来の性を表に出して応えたのです。ところが主は、服も足も守り、マナを与えました。人々を生かし、数を増やし、約束の地に入り、所有するに至らせました。「あなたを苦しめ」たことは「訓練」であったのだ、と申命記は言っています。
 
私たちからすれば、決して望ましいものではありません。苦しめられることは、御免被りたいものです。しかし、訓練だという事なら、そこに意味はあります。この主の声を聞いたのです。ならば、それを守るべき戒めとして、歩むべき道として受け止めることも可能であるし、喜びとなることができるでしょう。
 
「良い地」が待っています。「何一つ欠けることのない地」です。豊かな食べ物が産物として与えられることが挙げられていますが、ここで、酸化鉄と黄銅鉱の存在に言及されているのは、面白いと思います。聖書の中では、金属については余り注目されることがありません。しかし、例えば鉄器を操る文明は、歴史を変えることになりました。
 
ペリシテ人は鉄の技術がありましたが、イスラエルにはありませんでした。これでイスラエルはペリシテに勝てませんでした。金属は文明論に関係しています。権力が他国に及ぶとき、そこには武力がものを言います。金属が武力です。但し、人がただ生きるとなると、食べ物が第一です。「良い地」には、食べ物の祝福が満ちています。


人が自分の子を訓練するように、
あなたの神、主があなたを訓練することを
心に留めなさい。(申命記8:5)

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捜し求める牧者

2024-04-20 | メッセージ

エゼキエル34:11-16 
 
牧者は、羊の群れが散らされたとき、自分の群れを捜し出すもの。そのように、主なる神も、自分の群れを捜し出すのだといいます。イスラエルが、実際にこのような牧者を欠いていることで、主自らが動くのだそうです。主は、自分の群れを尋ね求めます。どこにいるのか、どこに行ったのか。名を呼び、絶望と闘いながら、尋ね求めているのです。
 
あらゆる所から救い出す覚悟を、散った側の羊はどう見るでしょうか。イスラエルの人々は、他の人間たちの間に隠れてしまっています。主はそこから見出し、連れ出すのです。そして、イスラエル各地で羊たちを養います。そこは豊かな牧草地。良い牧場です。そこに伏す羊たちの安堵は如何に。なんとも安心を覚え、幸福感があることでしょう。
 
エゼキエルはこの羊たち、イスラエルの民を「失われたもの」と呼びました。これをイエスは見逃しません。イスラエルの失われたものを救うために来たのだ、と言いました。尤も、マタイ伝のこの節は、一部の写本に特有のものだとした、近年は本文から省かれて巻末に置かれてしまっています。ちょっともったいない気がします。
 
しかし羊の群れの一人ひとりを捜し歩く牧者の姿は、イスラエルの各地を癒やしと教えを以て旅するイエスの姿と、重なって見えてきて仕方がありません。失われても捜し求める、散らされても連れ戻す、傷ついても包みこむ、病んでいても力を与える。私は、そうやって引き出された一匹の羊に過ぎません。それ以上の何者でもありません。
 
けれども、確かにこの主のはたらきにより助け出されたことを、私は知っています。どんな労がそこにあったでしょう。そういう主と、私は出会いました。これは、もう事実なのであって、その事実を同じようにもっている羊たちと共に生きる、それこそが教会というものです。それでなければ、教会と称せられることができる群れではありません。
 
一方、肥えたもの、強いものを滅ぼすことが公正である、と主は付け加えています。それ自体が一種の依怙贔屓であるとの誤解が生じるかもしれません。が、それは、偽牧者が実際に、強大な権力を手にして、羊たちの群れを散らした事実があったからでしょうか。そして、それを取り巻く太鼓持ちが、そういう自覚がなかったからでしょうか。


私は失われたものを捜し求め、散らされたものを連れ戻し、
傷ついたものを包み、病めるものを力づける。
しかし私は肥えたものと強いものを滅ぼす。
私は公正をもって群れを養う。(エゼキエル34:16)

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従ってはならない羊飼い

2024-04-18 | メッセージ

エレミヤ23:1-4 
 
「私の牧場」と主が仰せになった。これは主のものだといいます。主の牧場の羊の向けを散らしてしまう者に、災いあれ。滅ぼすというのは殺すことというよりも、群を群でくしてしまうという意味にとりたいと思いました。そうすると、イスラエルの民が分裂したり捕囚とされたりすることを示せるようにも思えます。
 
エレミヤは、バビロン捕囚を知っています。だからその悲惨で困難だったことを指摘している、としてもおかしくはないでしょう。散らす牧者、つまり悪しき指導者層が非難され、しかしなおその羊たち、即ちイスラエルの人々に対する主からの救済が、ここに対比されています。心配するな。この民は主自らが集め、回復された地に戻すのだ。
 
そして、新しい牧者を立てると、もう恐れることはなくなり、散らされ失われることも、もうなくなるのだ、といいます。その日が来ることを、イスラエルの人々は待っていました。ダビデの若枝が正義をもたらすことを願っていました。そのためにイエスが来たのですが、ユダヤ人たちはイエスを殺し、民から消し去ろうとしてしまいました。
 
かつてこうして「その日」と呼ばれた時は繰り越され、イエスの告げた終わりの日へバトンされるようになりました。しかし、エレミヤの警告は無意味になったのではありません。主の羊を追い払うような偽の牧者は、過去のものではないからです。いつでも、羊が集まるところには出現するものなのです。現代でも、当たり前のように現れています。
 
だから目を覚ましていなければなりません。羊は、牧者の声を聞き分ける耳を授かりました。眠りこけ、神に対して偽った関係でいる者の味気ない言葉を、主の言葉に何の関心も示すことなく受け流すような日々を送ってはいけないのです。主が「罰する」と宣している点は重要です。そうした誘惑の場所は、本来帰るべき牧場ではないのですから。


それゆえ、イスラエルの神、主は、私の民を牧する牧者についてこう言われる。
あなたがたは、私の羊の群れを散らし、追い払い、顧みなかった。
そこで、私はあなたがたの悪行を罰する――主の仰せ。(エレミヤ23:2)

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誰に呼びかけるのであっても

2024-04-16 | メッセージ

詩編100:1-5 
 
「全地よ」と呼びかけた相手は、人のことなのでしょうか。それとも被造物すべてであるのでしょうか。さしあたり人なのでしょうが、「主が私たちを造られた」というとき、「私たち」がどこまで及ぶのか、考えさせられます。この詩は、ダビデの作だとはされていません。「私たち」についても、どう受け止めてよいか難しいものです。
 
でも、イスラエルだけに対する呼びかけではないように思えてなりません。喜べ、との声がまず出されています。主に仕えること、主の前に出て行くこと、これが喜びの内になされるのです。この主が神であることを知れ、と言います。私たちは主から造られました。このときの「私たち」は、人間一般のことか、万物がそうなのか、判断に迷います。
 
それとも、この「私たち」は、イスラエルだけを指すべきだったのでしょうか。だとすると「主の民」という言葉が用いられている理由が納得できます。そして私たちは主の牧場の羊としてのアイデンティティをもつことになります。弱い集団であり、自分たちだけでは、どちらへ向けて歩めばよいのか分からない、それが主の民イスラエルです。
 
さあ主の門に進もう。主の庭に入ろう。そこは神の国です。そこへ招かれたのです。今度は、先ほどのように「喜べ」とは言われていません。「感謝せよ」に変わります。神の国へ招き入れられることについては、ひたすら「感謝」しかないのです。そうして、褒め称えるのです。主の名を褒め称える、これを忘れた教会の祈りも実際あると思います。
 
自分では気がつきません。主と結びついていない魂からは、こうした感謝も賛美も湧き出てきません。しし、主とつながる者たちの祈りは違います。主の恵みに、心が震えます。主の慈しみが、心を揺さぶります。その恵みと慈しみが、とこしえにありますように。そう祈りましょう。主の真実は、人の世がある限りずっと続くのですから。


主は恵み深く、主の慈しみはとこしえに。
そのまことは代々に及ぶ。(詩編100:5)

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どこか無邪気な復活劇

2024-04-14 | メッセージ

ヨハネ20:19-23 
 
復活したイエスは、ヨハネ伝では、マグダラのマリアにしか、まだ姿を現していませんでした。ペトロともう一人の弟子が空の墓は見て知っていました。この二人はしかし、まだ十分理解していなかった、とヨハネは記しています。こうした弟子たちは皆、ユダヤ人たちの襲撃を恐れていたのか、さる家へ閉じこもっていました。
 
部屋に鍵をかけていたというのは、心にも鍵をかけていた、と言っているのに等しいと思われます。週の初めの日です。復活から一週間、弟子たちの心情はどう変化していたでしょうか。単なる悲しみとも違うでしょう。復活の預言を信じていた、というのも違うような気がします。半信半疑だった、という説明も、なんだか無責任です。
 
ヨハネの筆は、あっさりしています。「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち」という程度です。イエスが声を発します。原語は2語。「平和、君たちに」だけです。もっと気軽に「こんにちは」の意味だったかもしれませんが、言葉の原義の意味が浮き上がってくる効果があったかもしれません。そしてイエスは、わざわざ自ら手と脇腹を見せます。
 
正に私は、あの十字架にかかったイエスなのだよ、という証明になります。これに対して弟子たちは、「主を見て喜んだ」のでした。恐れてはいません。ヨハネ伝での証言者たちは、他の福音書でのそれのように、霊かと怯えるような素振りを一切見せません。これは強調してよいことだと思います。ヨハネ伝の弟子たちは、けっこう素朴な役者です。
 
イエスは、言い残すことのないように、しかし簡潔に、伝えるべきことを言い放ちます。イエスが弟子たちを遣わすのだよ。聖霊を受けなさい。罪を赦しなさい。あなたがたが赦せば、その人の罪を神は赦してくださる、というのです。引いては、教会というものが赦すか赦さないか、それが神の赦し如何となるだろう、と聞こえませんか。
 
キリスト者は、なにか決定的に誤解していないか、省みる必要があります。「どうすれば人を赦せますか」などと悩んでいます。違います。教会がこの世で裁判官となったのでしょうか。教会はそもそも赦す立場にあるのでしょうか。そんなに偉いのでしょうか。教会もキリスト者も、自分が赦される存在だということを、すっかり忘れていないでしょうか。


誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。
誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。(ヨハネ20:23)

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イエスは教会と共にいる

2024-04-12 | メッセージ

マタイ28:16-20 
 
復活したイエスは、墓へ来た女たちに出会います。女たちは、まず空の墓を見ました。天使が現れて、イエスは復活した、と女たちに告げました。先にガリラヤへ行っているから、そこで会えるだろうというのです。女たちは、恐れながらも大喜びだという複雑な感情を胸に、弟子たちのいるところへと走りました。走ったというのです。
 
イエスは、その行く手に立っていて、女たちはイエスに出会います。イエスの復活劇の中で、殆ど無視されている記事だと思います。女たちは、嬉しさのあまりイエスの足を抱いたといいます。復活のイエスに触ったという、貴重な証言です。イエスは女たちに、あくまでもガリラヤで会えるのだ、と弟子たちに伝えよ、と言いました。不思議です。
 
そこで、ユダ不在のため11人だった弟子たちは、ガリラヤへ行きます。エルサレムに留まるよう支持したルカ伝とは異なります。果たしていつイエスが指示していたのか知りませんが、指摘の山があって、弟子たちはそこへ登ります。マタイはこの劇的な再会の場面を、あっさりと、「そして、イエスに会い、ひれ伏した」と書いて終わりにしています。
 
何のドラマチックな展開もなければ、どんな会話がそこにあったかについても、まるで関心がないように見えます。「しかし、疑う者もいた」というのは、何のために挟まれたのかすら分かりません。ヨハネ伝のトマスのことかと思いますが、ヨハネ伝の方が遅く成立したとすると、ここだけマタイが追加したのでしょうか。それでも不自然です。
 
その不安定さを残したまま、イエスが近寄って来て、語ります。ここで言った言葉で、マタイの福音書は結ばれます。あまりにも謎が多い結末です。これは、弟子たちとイエスとのドラマを記したものではないのでしょう。これはもう、復活の記録にすらなっていません。マタイは、マルコ伝が復活について完結していないことは分かっていました。
 
マタイ伝は個人作というよりも、編集委員会のグループがまとめたと思われますが、それは、今後の教会を導く指針を形にしようとしたように見えます。「あなたがた」と呼んでいるのは「教会」と読み替えて然るべきでしょう。すべての民に福音を伝え、洗礼を授けよ。キリストの教えを守らせよ。これからもずっとイエスは、教会と共にいるのだから。


私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイ28:20)

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伝えたいこと

2024-04-10 | メッセージ

使徒2:14-24 
 
聖霊が降った。その後のことです。これは酔っ払いに違いない、と集まってきた人々が言ったため、それにペトロがすぐさま反応しました。「声を張り上げ、話し始めた」のでした。ペトロ自身「聖霊」に満たされ、「霊が語らせるままに、他国の詞で話しだした」うちの一人であったため、いわばしらふに急に戻ったような情況のように見えます。
 
ヨエル書を引用して、こんなにも落ち着いて理路整然と話せるものなのでしょうか。そんな疑問も尤もです。しかし、これはミュージカルだと理解すると、どうでしょうか。舞台で皆一糸乱れぬありさまで躍り、台詞は見事な音楽とコーラスで聞かせます。この用意された舞台に感動してよいなら、ペトロの説教にも大いに感動してよいはずです。
 
また、舞台に人生の真実を見出すことがあってもよいなら、ペトロの説教に人生を見出すことも、当然できるわけです。当時の信徒を励まし、次の世代へ伝えるべきことを教えるためにもたいられたのだとすれば、まことにこの芸術的シーンはすばらしいの一言に尽きます。こうやって神の霊が降り、そこにいた一人ひとりに注がれたのでした。
 
ペトロは、イスラエルの人たちに、「これから話すことを聞いてください」と言いました。教会の人々、引いてはいまの私たちへ向けて、これを言っていることになります。ナザレのイエスは「神から遣わされた方である」と言い、50日前に死刑に処せられ蘇った方を思い起こさせます。あなたがたが殺したイエスである、と突きつけます。
 
律法を知らないローマ人にはりつけにさせたのは、あなたがたではないか。しかし、復活した。復活させられたのです。イエスは死に支配されないからです。ペトロは冗舌になります。この後、詩編からダビデの証言として、イエスの事実を説明します。もちろん、これもまた完全に用意された演出です。読者に強烈に自覚させたいのです。
 
この長い説教は、あなたがイエスを十字架につけて殺した、という点を強調します。イエスが復活した方だ、という福音はもちろん大切ですが、イエスを殺したのはあなただ、という点をスルーさせてはなりません。むしろ、聖霊が注がれて救われるためには、こちらのほうが中心である、とも言えます。聖書は、それを伝えたいのです。


このイエスを神は、お定めになった計画により、
あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、
あなたがたは律法を知らない者たちの手によって、
はりつけにして殺したのです。(使徒2:23)

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心がいつでも戻ることができる場所

2024-04-08 | メッセージ

申命記6:4-9 
 
申命記での十戒の提示が、この前にありました。モーセは、その掟とイスラエルの民との関係を説きにかかります。「聞け、イスラエルよ」の呼びかけは、今なお続いています。古の民族が聞いた声を、今私たちが耳にするのです。人類は、それほど変わってはいないのです。この申命記がいつどのように書かれたにしても、同じように響いてきます。
 
神の言葉を受けた者のもたらす知恵は、価値を落とすことなく、ここへ響いてきています。主は唯一。十戒の基盤です。心と魂と力、これらを妙に分析する必要はありません。人はその存在をかけて、全力で主なる神を第一とすることで、ここに置かれたのです。実に私の存在そのものが、そうしたことのために許されたのです。
 
「今日」は、これを聞いたその時のことであって、万人にとり、いまこの時を指しています。今日主が命じているわけです。この言葉を見に結わえ着け、額に証しとして示し、家にも、町にも掲示するのです。さらに、次の世代へ伝えなければなりません。継承のためです。子どもたちが、さらにまたその都度の「今日」を生きてゆくからです。
 
その「今日」に、主の言葉と出会い、主を知り、主を愛するようにならなければなりません。子どもたちへ、常に繰り返し告げるのです。家で、道で、寝ても覚めても、教えるのです。主の言葉が、いつもその唇に置かれているようにするのです。なんとオーバーな命令なのでしょうか。そんなこと、できるはずがないではありませんか。
 
文字通りにこれを実行するのは不可能でしょう。しかし、事ある毎にこれらの命令を思い起こすことなら、できるかもしれません。蓋をして押し隠すのではなくてねつねにこれらが湧き起こっては、起き上がり、その姿を示すようにしておきます。自分の中の良心が目覚めるかのように、起きてきたら、それを明らかにしようと構えておくのです。
 
そして、それとしっかり向き合います。こうしたことなら、できるかもしれません。信仰生活とは、そういうものではないでしょうか。何事も万全にできているということは無理です。それでも、意識がいつでもどこでも、そこに戻ることができるような場所があるとよいのです。心が落ち着ける故郷が、神の国というところであるのだと思います。


今日私が命じるこれらの言葉を心に留めなさい。
そして、あなたの子どもたちに繰り返し告げなさい。
家に座っているときも、道を歩いているときも、
寝ているときも、起きているときも唱えなさい。(申命記6:6-7)

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マリアたちの経験が私の経験となる

2024-04-06 | メッセージ

マタイ28:1-6 
 
安息日が明けて、二人のマリアが墓を訪ねます。マタイはそう記します。二人は、墓穴の入口が大きな石で蓋されるのを、先に見ていました。マタイでは、翌日に祭司長たちやファリサイさの面々が、ピラトに申し出たことが描かれています。墓を見張っておくべきことを提言し、受け容れられました。何人か知れませんが、複数の番兵が付けられました。
 
二人のマリアが主の天使の現れに遭遇したとき、この番兵たちもそこにいました。これも復活の目撃者となるはずです。しかしこの番兵の存在は、案外忘れ去られています。マタイの表現は、聖書協会共同訳では、ローマ人の兵だと分かるように示していますが、ユダヤ当局から金を与えられて偽証をしたことになっています。証人とはならなかったのです。
 
驚くべき出来事を目撃していながら、証人とはならなかった例がここにあります。しかし私たちは、マリアたちの言葉を信じていることになります。ルカやヨハネの証言とは、全く同じ証言ではないように見えます。しかし、キリスト者はそれらを信用しています。なぜでしょう。これが、信仰の出来事だからです。信仰において、それは真実だからです。
 
福音書の一つひとつの出来事が、誰から見てもそうだった、というものと、何かしらの心象風景であるものとの混在したものから、構成されています。すべてが心象だというわけでもないし、すべてが客観的歴史の記述である、とも見てはいません。けれども、すべては神の真実を現しています。ところが、番兵の中では、神の出来事になり損ねています。
 
私たちは違います。「あの方は死者の中から復活された」の宣言を身に受けたのです。これが私たちの中で生じるのです。自分の存在そのものとそれは深く関わります。どうでもいいような、無関係な物語に終わるのではありません。私たちは、確かにこれを経験します。キリストの弟子となった者は、すべての風景が違って見えた時を経験しています。
 
十字架に付けられたイエスを、どこかに捜す必要はない。急いで弟子たちに伝え、主がガリラヤに先に言っている、と告げよ。さあ、見よ。この墓が、「死」のあった場所なのだ。かつてのあなたも、そこで死んでしまいました。でも、もうそこは空です。もう「死」はないのです。私たちはマリアたちから聞くと共に、マリアとしてこれを聞くのです。


あの方は、ここにはおられない。
かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。
さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。(マタイ28:6)

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共に死に共に生きる

2024-04-04 | メッセージ

コロサイ3:1-11 
 
「あなたがたはキリストと共に復活させられた」とは聞き捨てならない言葉です。復活はキリストにおいて成立しました。でも私たちはまだなのではないのでしょうか。ここは「共に」が別の語ではなく動詞にくっついており、「共に起きる」が一語となっています。死後の肉体的復活を、必ずしも意味してはいないように見えます。
 
キリストに従って立ち上がったなら、私たちはこのことを体験した、と言えるのかもしれません。「ですから」と訳してありますが、「もし」のニュアンスが隠れていると思います。キリスト共に立ち上がったならば、上のものを探せ、というようにも読めます。キリストが上で待っています。地上のものしか見えないようであってはなりません。
 
「あなたがたはすでに死んで、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている」ということを、私たちが肉体的に死んだ、というようには必ずしも捉える必要はないでしょう。起き上がり、立ち上がった者の命は、キリストの命を受けています。そのために、一度律法により死んだことが前提となっています。これは魂に於ける死でしょう。
 
打ちのめされ、神の裁きの下に死刑を宣告されたのです。たとえある種の心理的な現象であると説明されようとも、キリストの十字架に共につけられたことを経験した者ならば、分かることです。そうでないと、新約聖書の記者が体験して記したことは、分からないのです。上のものを求めるのだから、という条件の下で、ここからの論が流れてゆきます。
 
貪欲は偶像礼拝として殺してしまおう。以前あなたたちもそうだったではないか。しかしいま、それはもう捨て去っています。古い人は脱ぎ棄てて、新しい人を着なさい。それがキリストです。キリストを来なさい。人は本来、神のかたちに造られたのではなかったでしょうか。本来の姿、神のかたちに戻るのです。
 
キリストという具現が、ここに示されました。その体験をすることが、「真の知識」です。人種の区別もありません。天を見上げる者、キリストと共に死んで共に活かされた者は、いまここで、その心の内にキリストが住んでいます。人格の中心で、キリストが輝いています。キリストが私の中で生きています。キリストと共に死んだからです。


あなたがたはすでに死んで、あなたがたの命は、
キリストと共に神の内に隠されているからです。(コロサイ3:3)

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勝利は約束されている

2024-04-02 | メッセージ

コリント一15:50-58 
 
動かされることはない。あなたの足元は盤石だ。主の僕として自分が、いまここでどうするとよいかを頭に思いながらも、それを実践することについては、ためらいを覚える必要はないのだよ。パウロが言っていることを現代風にアレンジすると、このようなメッセージとなるのではないでしょうか。それが可能なのは、勝利が与えられているからです。
 
私たちは、救いという方法により、すでにこの勝利を約束されているのです。勝利というのは「死に勝つ」ということを、ここでは考えているように見えます。長く書かれているからそれが一番重要だ、という決まりはありません。一つのことの証明、またその説得のために、長い論証を必要とすることもあるのですが、論証は手段です。
 
「私はこう言いたいのです」と、パウロがまず切り出してきます。神の国を受け継ぎ、朽ちない命に復活する道がある、と言うのです。単に死ぬのではありません。私たちはある「時」を以て帰られるのです。ラッパというメタファーは、パウロの魂の信仰に与えられたモチーフなのでしょう。ラッパは、進撃や攻撃などの一斉行動に出るためのの合図です。
 
それまでは静かで、動きのなかった状態へ、新たな世界がもたらされることを表します。主の日、主の時、その他どのように表現しようと、キリストにある者にとっては、決定的なエポックが与えられます。死なないものを着るのです。キリストを着よ、とよく口にしていたパウロの心の中に、一つの筋がつながり、まとまってきます。
 
死というものには、もはや勝利は見込まれていません。罪について、パウロがここで思わず触れているのは、もう一度足元を見ておこうという触れ込みでもあるのでしょう。もはや律法に基づく罪など、敵ではありません。キリストが、完全に勝利を告げる時がきました。すべての者に、神の勝利が高らかに宣言される時が、必ず来るのです。
 
だから、落ち着いて日々を生きよう。毎日、常に、主の業を見つめ、主に従う決意を以て歩んでいこう。それは、このパウロの勧めに素直に従うことでもある、少なくともパウロはそう考えています。パウロの心理、あるいはその信仰です。どんな労苦も無駄にはなりません。神はあなたの失敗や非を以て、あなたを責めようとは決してなさいません。


終わりのラッパの響きとともに、
たちまち、一瞬のうちにです。
ラッパが鳴り響くと、死者は朽ちない者に復活し、
私たちは変えられます。(コリント一15:52)

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