goo blog サービス終了のお知らせ 

エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

剣のない世を民は望みつつ

2025-07-26 | メッセージ
イザヤ2:1-4 
 
「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻」(1:1)である、とイザヤ書の冒頭に掲げられるのは分かりますが、2章にもまた改めて、「アモツの子イザヤがユダとエルサレムについて、幻に示された言葉」である、という説明を以て始めるというのは、珍しいような気がします。というより、不必要です。では、何故繰り返されたのか。
 
1章と2章が独立していたからだ、と考えるのが自然でしょう。1章では、ユダの罪が中心に記されています。但しそれで裁かれて終わり、というのではありません。「あなたがたの罪がたとえ緋のようでも/雪のように白くなる。/たとえ紅のように赤くても/羊毛のように白くなる」というように、清められるという約束があるのです。
 
尤も、それは「立ち帰る者たち」(1:27)のことです。一方2章では、「終わりの日」に、「主の家の山」が「高くそびえる」姿を描きます。そして国々の多くの民がそこへ流れてくるというのです。その山、「神の家に登ろう」と集まってきます。「主はその道を私たちに示してくださる」からです。「私たちはその道を歩もう」と異邦人たちが歌います。
 
この山から、教えが出て来ます。正に私たちはこの役割を担っています。「多くの民」の一人として、後の時代に私はこうして主の家へと登っています。「さあ、主の光の中を歩もう」と呼びかけていますが、それは誰なのでしょうか。そこへ呼ばれた私なのでしょうか。個人としてのイザヤなのか。純粋にそれは主の言葉であり、主の声であるのか。
 
私はどれも重なっていると見ます。国々を裁くのは、確かに主です。それさえ定かであればよいでしょう。主の許に集まる私たちは、多くの民のうちの一部ですが、さて、何を求められているというのでしょうか。ここで、有名な句が与えられます。「彼らはその剣を鋤に/その槍を鎌に打ち直す」というのですが、さらに続きます。
 
「国は国に向かって剣を上げず/もはや戦いを学ぶことはない」とあるために、ある団体は、武道の授業をすべて拒否するように教えています。それは余りに偏狭ではないでしょうか。きっと豚肉もイカやタコも食べないと教えているのでしょう。とはいえ、剣のない世の中をは、やはり人の手によってはできないものなのでしょうか。




多くの民は来て言う。
「さあ、主の山、ヤコブの神の家に登ろう。
主はその道を私たちに示してくださる。
私たちはその道を歩もう」と。
教えはシオンから
主の言葉はエルサレムから出るからだ。(イザヤ2:3)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする