詩編37:23-40
「正しき者」と「悪しき者」が、こんなに簡単に区別されて良いのかどうか、私には分かりません。蝶の雌雄は人目には区別がつきませんが、蝶本人には極めて明らかであるのと同様に、神の目にはその区別がはっきりしているのでしょう。「人の歩みは主によって確かなものとされ」るというから、主の側にある者はすっかり安心できることでしょう。
「倒れても、打ち捨てられることはない。/主がその手を支えてくださる」ことを信じて、「地を受け継ぎ/いつまでもその地に住む」ことを願い、期待しましょう。「神の律法」がその心にあるならば、「その歩みが揺らぐことはない」というのです。確かに、悪しき者が待ち伏せし、正しき者を陥れようとすることはあるでしょう。
しかし、主にある者は「主に望みを置き/その道を守れ」との指示に従います。旧約の世界では「地を受け継ぐ」と言いますが、新約ではそうではないと考える人がいます。しかし「へりくだった人々は、幸いである/その人たちは地を受け継ぐ」(マタイ5:5)と、イエス自ら山上の説教の初めに宣言していました。これを否むことはできないでしょう。
「地」とは何でしょうか。神の国のことであってもよいのではないでしょうか。「天の国はその人たちのものである」(マタイ5:3,10)というように、「幸い」ということに挟まれていたこととが、指し示されることの根本ではないでしょうか。「後の繁栄は平和の人にある」のであって、「全き人」「まっすぐな人」でありたいものです。
でもそれは、人自身の力によって達成されるものではありません。「正しき者の救いは主から来る」のです。救うのは主です。苦難の中にあろうとも、主は「助け、救い出してくださる」のです。主に逃れるならば、必ず助けてくださいます。それが信仰です。しかしこの世では、そうはならないように見えることが、当たり前のようにあります。
現実に、善人に見える人が不幸な死を迎えるのを見ます。悪辣な者がはびこり、権力を用いて好き勝手をするようなこともあります。旧約の救いでは、そのための慰めが十分であるとは言えないように思います。イエスは「神の国」を説きました。神の国という「地」を約束するような救いが必要でした。神の国に住まわされる幸を思います。
正しき者は地を受け継ぎ
いつまでもその地に住む。(詩編37:29)
「正しき者」と「悪しき者」が、こんなに簡単に区別されて良いのかどうか、私には分かりません。蝶の雌雄は人目には区別がつきませんが、蝶本人には極めて明らかであるのと同様に、神の目にはその区別がはっきりしているのでしょう。「人の歩みは主によって確かなものとされ」るというから、主の側にある者はすっかり安心できることでしょう。
「倒れても、打ち捨てられることはない。/主がその手を支えてくださる」ことを信じて、「地を受け継ぎ/いつまでもその地に住む」ことを願い、期待しましょう。「神の律法」がその心にあるならば、「その歩みが揺らぐことはない」というのです。確かに、悪しき者が待ち伏せし、正しき者を陥れようとすることはあるでしょう。
しかし、主にある者は「主に望みを置き/その道を守れ」との指示に従います。旧約の世界では「地を受け継ぐ」と言いますが、新約ではそうではないと考える人がいます。しかし「へりくだった人々は、幸いである/その人たちは地を受け継ぐ」(マタイ5:5)と、イエス自ら山上の説教の初めに宣言していました。これを否むことはできないでしょう。
「地」とは何でしょうか。神の国のことであってもよいのではないでしょうか。「天の国はその人たちのものである」(マタイ5:3,10)というように、「幸い」ということに挟まれていたこととが、指し示されることの根本ではないでしょうか。「後の繁栄は平和の人にある」のであって、「全き人」「まっすぐな人」でありたいものです。
でもそれは、人自身の力によって達成されるものではありません。「正しき者の救いは主から来る」のです。救うのは主です。苦難の中にあろうとも、主は「助け、救い出してくださる」のです。主に逃れるならば、必ず助けてくださいます。それが信仰です。しかしこの世では、そうはならないように見えることが、当たり前のようにあります。
現実に、善人に見える人が不幸な死を迎えるのを見ます。悪辣な者がはびこり、権力を用いて好き勝手をするようなこともあります。旧約の救いでは、そのための慰めが十分であるとは言えないように思います。イエスは「神の国」を説きました。神の国という「地」を約束するような救いが必要でした。神の国に住まわされる幸を思います。
正しき者は地を受け継ぎ
いつまでもその地に住む。(詩編37:29)